平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




最期まで木曽義仲を守って奮戦した今井兼平の墓は、
JR石山駅に近い盛越(もりこし)川のほとりの木立の中にあります。
小公園のような墓所には、粟津史跡顕彰会の碑や改修記念碑とともに、
子孫によって建てられた鎮魂碑、顕彰碑、
灯篭や献花筒などが数多く建ち並んでいます。

 今年一月、兼平から三十五代目の子孫にあたる今井六郎さん(八六)

長野県岡谷市ら全国の百三十人でつくる「今井兼平同族会」が、
兼平の忠節をたたえる「表忠文」を墓の隣に復刻した。
六郎さんの妻密子さん(八五)は「古典にも立派に描かれている
兼平は『知る人ぞ知る』存在。本多氏ら滋賀の方々がつくってくれた
ご縁を大切に、今後も地味にお守りしていきたい」と話す。
『京都新聞』ふるさと昔語りより抜粋(2006年11月28日掲載)
 

今井兼平は木曽義仲の養父・木曽の豪族中原兼遠の子で、
義仲とは同じ乳で育った乳兄弟の間柄です。
『平家物語』には、忠実な乳母子の典型として描かれています。
兄・樋口次郎兼光、根井行親、楯親忠とともに木曽四天王といわれ、
義仲挙兵とともに有力武将として、各地を転戦し活躍しています。

説明板に記されている膳所藩主本田俊次が兼平の墓石を建立した
「中庄の篠津川上流の墨黒谷(すぐろだに)」について、滋賀県文化財保護協会に
問い合わせたところ、「墨黒谷の現位置はわからない」とのお返事をいただきました。
 
義仲四天王のひとり、今井兼平は粟津の戦いで
義仲が討たれたことを知るや自ら刀を口に逆立て馬から落ち、
壮烈な最期を遂げたという逸話が『謡曲兼平』にも残っています。


JR石山駅

石山駅から工場にはさまれた裏通りにでます。

墓所の傍を流れる盛越川



兼平庵について杉本苑子『平家物語を歩く』
(昭和46年淡交社より刊行されたものを昭和60年に文庫本として発行)
に次のように記されています。

(兼平墓所の)「地つづきの藪の中に、寺や宮ではなく、と言って
ふつうの住宅にしてはどこか古雅なひと構えが見えるので、
そこの住人らしきお婆さんにたずねると「兼平庵と申します」と
雑草取りの手を休めてほほえむ。墓守をしておられるのだそうだ。」
この本には、墓所には墓守がいたと書かれていますが、
兼平の墓には、10年以上前に一度と今回とで二度たずねましたが、

それらしき人は見かけませんでした。





今井兼平の墓









今井四郎兼平の伝承地
1)兼平は木曽から肥沃な北方の地に進出し、
現在の松本空港付近の信濃国筑摩郡(長野県松本市)
今井の地を領有し今井四郎と呼ばれます。
今井は近世後期に上・下に分かれ、上今井には今井神社があり、
下今井の諏訪神社には、兼平形見石と呼ばれる
梵字が刻まれた高さ1m余の板碑(いたび)があります。

2)義仲が中原兼遠の元から佐久地方に拠点を移すと、
乳母子の今井兼平も移動し、その際に兼平が居住したという
今井城址が佐久市今井にあります。

3)義仲が挙兵すると、義仲追討軍として越後(新潟)の平家方の
城長茂の大軍が信濃に進攻します。義仲は佐久の豪族根井行親一族に
擁され、信濃国を北上し横田河原の戦いで城軍に勝利します。
横田河原には、兼平が義仲から拝領した
更級郡富部郷今井(長野市川中島町今井)があり、
そこに今井神社が祀られ、道路を隔てた一角に兼平の墓所があります。

4)群馬県渋川市にある木曽三社神社
(上野国勢多郡北橘村下箱田)は元歴元年(1184)の創建。
社伝によると、木曽義仲が粟津で討死ののち、
その遺臣今井・高梨・町田・小野沢・萩原・諸田・串淵らが、
義仲が尊崇した信濃国筑摩郡の岡田・沙田・阿礼の
三社の神体を奉じこの地に祀ったという。

木曽義仲最期(今井兼平と再会した打出浜)  
『アクセス』
「今井兼平の墓」大津市晴嵐2
JR琵琶湖線「石山駅」または京阪電車石山坂本本線「京阪石山駅」下車 徒歩5分
『参考資料』
武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」世界思想社
「長野県の地名」「群馬県の地名」平凡社 杉本苑子「平家物語を歩く」講談社文庫
「図説源平合戦人物伝」学習研究社

 

 



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