平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




水島合戦は都落ち後の平家と木曽義仲の戦いです。
義仲に都を追われ西に落ちた平家は、
九州から屋島に戻り
陣を構えるや着々と体勢をたて直し、都をもうかがう勢いです。

木曽義仲はこれを聞いてすぐさま源義清を大将軍、
海野(うんの)行広を侍大将として7千余騎を遣わします。
ちなみに『滋野系図』では、海野幸氏(ゆきうじ)は行広の子とされます。
幸氏は義仲の嫡男義高が頼朝の元に送られた時、一緒に鎌倉に行き、
義高が殺害された後は御家人として頼朝に仕え、弓の名手として重用されます。
後世、六連(文)銭を家紋とする「真田氏」は、
この系譜に連なると自称しています。

水島古戦場は現在の玉島大橋(倉敷市玉島)が架かる辺の
海域であったと推測されています。
玉島大橋を挟んで西の柏島は平家、東の乙島は源氏方が陣を置き、
すざましい戦いが繰り広げられました。
現在はどちらも陸地化していますが、当時は二つの島であり、
昭和52年に架けられた柏島と乙島を結ぶ玉島大橋は源平大橋とも呼ばれています。

この橋は歩いて渡ることができるので平家側の柏島から
源氏が陣を布いた乙島までの古戦場めぐりを楽しみました。


JR新倉敷駅





「玉島中央町」でバスを下り、玉島大橋まで進みます。





玉島大橋西側の「源平合戦水島古戦場」の石碑には、
皆既日食をイメージする黒い円が描かれています。これについて
『倉敷の源平合戦古戦場めぐり』には次のように書かれています。
「水島合戦が行われた日は皆既日食にあたっていたことが
裏付けられています。平家は海戦に慣れているだけでなく、
あらかじめそうした天文知識も持ち合わせていたことから、
沈着冷静に戦うことができたのでした。」

『源平盛衰記・源平水島軍の事』には、
「天俄に曇りて日の光も見えず、闇の夜の如くなりたれば、
源氏の軍兵共、日食とは知らず、いとど東西を失ひて、舟を退けて、
いずちともなく風に随って逃れ行く。」と記されています。


源平合戦水島古戦場の碑

寿永2年(1183)閏10月1日、源義清は5百余艘の船を用意し、
備中水島(倉敷市)から対岸の屋島を攻め寄せる準備をしていました。
そこへ突如、先手を打った平家軍が千余艘の船を従えて海上に現われます。
大将軍は沈着冷静な新中納言知盛(清盛の四男)、
副将軍は平家最強の公達・能登守教経(清盛の甥)
平家軍は教経の指示で船を縦横に並べて綱で結びつけ、
上に板を渡して平坦な陸地のようにしました。
平家軍は、その上を自由に走り回ります。

互いに鬨をつくり、矢合わせをして船を寄せあって攻め戦いますが、
巧妙な戦法で臨む平家軍に対して、源氏軍は数の上でも劣勢の上、
船戦に不慣れなため、たちまち大将軍と侍大将が討取られて総崩れとなりました。
平家はこの水島合戦に勝利し、倶利伽羅合戦の雪辱を果たしたのでした。
源平水島古戦場(2)常照院  
『アクセス』
「源平合戦水島古戦場の碑」岡山県倉敷市玉島柏島
新倉敷駅より両備バス玉島中央町行「玉島中央町」下車徒歩5、6分
バスは平日1日16便、日・祝日1日11便
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社

「検証・日本史の舞台」東京堂出版 武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」 世界思想社
「倉敷の源平合戦古戦場めぐり」倉敷観光コンベンションビューロー
水原一考定「新定源平盛衰記」(4)新人物往来社

 

 



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