平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



  権勢をきわめた清盛も亡くなると、「その遺骸は愛宕(おたぎ)で火葬にし、
遺骨を円実法眼が
首にかけて摂津国へ下り、経の島に納めた。」と
『巻6・入道死去』に書かれています。

清盛が荼毘にふされたという愛宕(おたぎ)は、平安時代に
愛宕寺とよばれた
六波羅の北にある六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)とも
六波羅の東方から南東方にかけてある
一大葬地、
鳥辺山・鳥辺野ともいわれています。

経の島は清盛が築いた大輪田泊にある人工島で、現在の兵庫港近辺にあたります。

神戸市兵庫区には、清盛塚と呼ばれる高さ8.5mの十三重の石塔があります。
この石塔の建つ付近一帯は能福寺領内の八棟寺があったところといわれ、
清盛の遺骨を持ち帰った円実法眼がこの寺に納めたと伝えられてきました。
しかし八棟寺は平家の滅亡とともに破壊され寺の伽藍は灰となりました。
その百余年後の弘安9年(1286)この地を訪れた九代執権北条貞時が
石塔を建てて清盛を弔ったと云われ、この伝承を受継いだ地元の人々は
「清盛講」という集まりをつくり供養してきました。



清盛塚とよばれる石塔

八棟寺に清盛の墓があったとされてきました。

「平相国菩提所八棟寺無縁如来塔」の文字が読み取れます。

大正12年(1923)、市電の軌道敷設にともなう道路拡張工事の際、
発掘調査が行われましたが、人々が語り伝えてきた清盛塚に関する伝承を
裏付けることはできませんでした。調査後、この石塔は元の場所から
10m程北東の現在地に移されました。その後、十三重石塔の基礎部分に
「弘安9年(1286)」の銘があることから西大寺の叡尊(えいそん)が弘安8年(1285)8月に
兵庫津で石塔供養に臨み法要を行ったという記録と結び付け、叡尊に関わる
供養塔であると推定されています。長い間、清盛の墓と思われていた清盛塚が
発掘調査の結果、遺骨が確認されず清盛納骨の地ではないことが明らかとなりました。

最近の研究では、清盛の墓は吾妻鏡が記す播磨国山田が有力視されています。
『吾妻鏡』養和元年(1181)閏二月四日条には、「遺言によって三日の後に葬儀を行い、
遺骨は播磨国山田の法華堂に納めた。」とあります。この山田は、後の平家没官領の
一つとなった明石郡垂水郷の山田、現在の神戸市垂水区西舞子町付近とされ、
明石海峡大橋西のつけ根、明石海峡を望む景勝の地です。
そこを流れる山田川が僅かに山田の名を留めているだけで、遺骨を納めた
法華堂がどこにあったかは詳らかではありません。

山田には山田御所と呼ばれる清盛の別荘があり、平氏にとって海陸の拠点の一つでした。
『高倉院厳島御幸記』には、「播磨国山田といふところに昼の御設けあり。心ことにつくりたり。
庭には黒き白き石にて、霰の方に石畳にし、松を葺き、さまざまの飾りどもをぞしわたしたる。」と
厳島詣に向かう高倉院一行が清盛の別荘で昼食をとったこと、庭に敷かれた
市松模様の石畳や屋根など見事に設えた別荘の様子が描かれています。


JR兵庫駅から南東へ10分ほど歩くと、最澄が自作の薬師如来像を安置し、
創建したと伝える能福寺(天台宗)があります。
この寺は清盛が剃髪出家して浄海となったことでも知られ、
平家一門の帰依により隆盛しましたが、源平合戦で全焼しました。

境内には日本三大大仏に数えられる兵庫大仏があります。

堂宇を再建した忠快は、能福寺中興の祖となり大いに栄えましたが、
寺運は次第に衰え南北朝期には再び兵火にかかり全焼、

明智光秀の家臣、長盛法印が慶長4年(1599)再建したと伝えています。

境内には、平清盛八百年忌を記念して作られた平相国(太政大臣の唐名)廟があります。

中央に清盛塚を模した十三重石塔が祀られ、向かって右側に円実法眼の宝筐印塔と
左側に忠快の九重石塔が合祀されています。



戦災で寺は焼け、今の本堂の月輪影殿は京都市東山の月輪御陵にあった
九条家の拝殿を昭和29年に移築したものです。

円実法眼(ほうげん)は左大臣をつとめた徳大寺実能の子で清盛の側近の一人です。
清盛臨終の日の朝、円実法眼は清盛の使者として後白河院を訪ね
「清盛が亡くなったら、万事を宗盛(清盛の三男)に仰せ付け、重用してほしい」と
要請しています。円実法眼に次いでこの寺の住職となったのが、
清盛の弟教盛の子・忠快法印です。仲快が住職となった寿永2年(1183)、
木曽義仲に追われ都落ちした平氏一門は、この地で管弦講を営んだという。
忠快は平家滅亡後、伊豆国に流されますが流罪中に頼朝をはじめとする
鎌倉の有力者達の帰依を得るようになり、後、都に戻り父が所有していた
東山の敷地を返却されてそこで住坊と持仏堂を営みました。
水薬師寺・延暦寺千手の井(清盛の最期)  
平清盛終焉推定地・高倉天皇誕生地  
平重盛・清盛の墓(磐田市の連城寺)  
敗走の果てに平氏がたどり着いた彦島(清盛塚)  
 『アクセス』
「能福寺」神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39 JR兵庫駅徒歩10分
「清盛塚」神戸市兵庫区切戸町1
JR「兵庫」駅徒歩15分または地下鉄「中央市場前駅」徒歩10分くらい
『参考資料』

歴史資料ネットワーク編「歴史のなかの神戸と平家」神戸新聞総合出版センター 
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社 高橋昌明編「別冊太陽 平清盛」平凡社 
元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫 角田文衛「平家後抄」(下)講談社学術文庫
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 「兵庫県の地名」(1)平凡社
NHK神戸放送局編(新)「兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター

新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
新日本古典文学大系「中世日記紀行集」岩波書店 「兵庫県の歴史散歩」(上)山川出版社



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