平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




六孫王(ろくそんのう)神社は清和源氏の祖とされる源経基の邸宅跡と伝え、
嫡子満仲が経基(つねもと)の死後、邸宅内に霊廟を建て、
六孫王神祠(六宮権現)と称したのが始まりとされています。

その後、近くに清盛の西八条邸(現、梅小路公園辺)が営まれましたが、
社は清和源氏発祥の地として残り、鎌倉時代には大いに栄えました。
源実朝の没後、実朝夫人は六孫王神社北隣に大通寺(遍照心院)を
建てて隠棲すると、社は大通寺の鎮守社となりました。

明治になると、旧国鉄の線路が大通寺の上を通り、
大通寺は大宮通九条大路下ルに移転し、六孫王神社の敷地の上にも
新幹線が走り、境内は随分狭くなりました。
 
源経基は清和天皇の孫にあたります。
父の貞純親王が清和天皇の第六皇子であったので、
六番目の皇子の子ということで「六孫王」とよばれました。
清和天皇の次に皇位を継承した長男の陽成天皇は、宮中で乳兄弟を
殴り殺すという
前代未聞の大事件を起こして廃位させられ、
清和天皇の皇子の即位は
見送られ、
清和天皇の叔父にあたる光孝天皇が即位しました。


陽成天皇、清和天皇の皇子や孫は、中央政界での出世の道は閉ざされ、
貞純親王は権力の中枢から外れ、その子経基は武蔵下野介
(現・府県の副知事)となり
当時治安が乱れていた関東に下ります。
まもなく平将門の乱が起こると、経基は都に帰り
将門の謀反を報告し、その功で従五位下となりました。
次いで藤原純友が海賊を
率いて瀬戸内海で反乱したのを鎮め、
武蔵・但馬の国守を歴任し鎮守府将軍となり、源姓を賜りました。


新幹線高架のすぐ傍にありますが、境内は静かです。



唐門

拝殿

「神龍池」
当神社所蔵の『六孫王権現社古縁起』によると、
経基は
「子孫繁栄を願って神龍池の龍になる」と遺言したという。

神竜社

末社・弁財天社

弁財天社内・京の名水の一つに数えられている満仲誕生水。

この辺は伏見稲荷の氏子地域で、稲荷社には睦弥稲荷神を祀っています。

境内には桜の木が多く植えられています。



例祭: 五代将軍綱吉が神社を再興して宝永四年に行った盛大な祭を
今に受け継ぐ宝永祭が毎年体育の日に行われます
『アクセス』
「六孫王神社」京都市南区壬生八条上る八条町 JR京都駅下車 徒歩約13分。
 京都駅八条口から八条通りを西へ八条壬生角にあります。

 または、市バス 17系統「六孫王神社前」すぐ
『参考資料』
岡野友彦「源氏と日本国王」講談社現代新書 梅原猛「京都発見」(4)新潮社 

井上満郎「平安京の風景」文英堂 「京都府の歴史散歩」(中)山川出版社
 竹村俊則 「昭和京都名所図会」(洛南)駿々堂

 

 
 
 



 
 
 
 

 

 

 



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源満仲は藤原摂関家に仕え生活基盤を京都に置く一方、摂津国多田(川西市)に出て
沼地を開拓、河川を改修し、荘園を営み強力な地盤を築くとともに、
武士団を形成し勢力を伸ばします。多田は亀岡を経由すると都にもほど近く、
しかも周辺から隔絶した盆地であり、武士団を駐屯させて
軍事訓練を行うにはもってこいの場所でした。

摂津源氏が京へと往来した道がR423号線から分岐する旧道に残っています。
道の名は「まんじゅう」とも呼ばれていた満仲の名からとったと伝えられています。

亀岡市の曽我部建設傍の道から入ります。

「曽我部建設」京都府亀岡市曽我部町南条竹谷1















鳥居が見えてきました。



R423と合流します。

『参考資料』
 「日本歴史地名大系」平凡社 「兵庫県の歴史」山川出版社、2004年

 

 








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