平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



忠盛塚の北西、長谷山(316㍍)の東麓に鎮座する置染(おきそめ)神社境内には、
平忠盛の父、正盛の墓といわれる宝篋印塔があります。

忠盛塚から農道を西に向かいます。


昭和34年まで正盛の墓が安置されていた旭晶寺(きゅうしょうじ)







長谷山麓の集落奥には置染神社の森があります。

「伊勢平氏一門の墓
桓武天皇の後裔平維衡は伊勢守に任じられその後数代にわたって
伊勢の地に居住して勢力をのばした。
貞衡とその嗣は安津三郎と称し、
正衡の嗣正盛は武勲に輝きその嗣忠盛は昇殿を許され、伊勢平氏の名は
天下に轟き、忠盛の嗣清盛は太政大臣に任じられ平氏の全盛時代を築いた。
産品の里は 貞衡 正衡等の平氏一門の故地と伝え忠盛生誕の地という。
式内置染神社は伊勢平氏一門の産土の社といい、
この墓塔群は、その後裔一門ゆかりのものと伝える。
  昭和五十二年十月  津市史跡名勝保存会」(説明板より)








拝殿 

本殿    例祭4月2日
祭神は天照大神・饒速日命(にぎはやひのみこと)・火産霊命(ほむすびのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)・仁徳天皇      
置染神社はもと二社に分かれていました。一社は天照大神を祀る神明宮です。
もう一社は、長谷連がその祖、饒速日命を祀り産土神としていましたが、
文政の頃(1820)、二社は合祀されました。

鳥居手前の道から墓苑へ上ります

「宝篋印塔(ほうきょういんとう) 平正盛の墓
お経を埋たる供養塔である。旭晶寺堂ヶ谷(西方三〇〇米)に於て
信長の兵火に焼かれる(一五七五年)この墓も境内に在り(二十数基)
法塔忠盛塚に移される。その後旭晶寺再建(一七八五年)境内に移される。
正盛は源氏とならび平氏台頭の基礎をつくる。忠盛それを嗣ぎ益々勢力をありつ、
京都六波羅に移るも忠盛、清盛ら伊勢の国に往来あり
忠盛宮中昇殿の栄達も父の遺徳なりと命日四月二日に供養した
宝篋印塔(ほうきょういんとう)であると云われる。
氏神置染神社に於て四月二日は祖先代々から年中行事として行われる。(宮殿祭)
忠盛の墓は多気町河田に在り
関東から維衡(これひら)―正度(まさのり)―正衡(まさひら)と嗣ぎ正盛の孫
清盛は天下に栄へその孫維盛の時、平氏は壇の浦で亡ぶ(一一八五年一月二十四日)
昭和三十四年八月十五日大豪雨あり旭晶寺全倒し墓荒廃せしをこの墓苑を創り安置す。
東の墓地(東方一〇〇米)十基余 鎌倉時代か?
西の墓地(西方三〇〇米)十基余 平安鎌倉時代か?
三ヶ所四十数基は先祖、平氏にまつわる宝塔であると信じてこそ
心を移し供花をなす。 産品歴史保存会」(説明板より)

昭和34年(1959)集中豪雨で旭晶寺が全壊し、正盛の墓はここに移されました。

受領といってもうま味の少ない隠岐守にすぎず、地味な存在だった正盛ですが、
立身出世の機会を掴み取り、11C末には中央政界に頭角を現します。

平氏一門の墓



桓武平氏の諸流のうち最も栄えたのは、平維衡(これひら) を祖とする伊勢平氏で、
維衡が伊勢守に任命されて以来、現在の津市付近を本拠地として、
伊賀や尾張にまで勢力を拡大していきました。
勢力圏が拡大し、支流や分家が増えると一族同士の対立や争いが生じました。
源氏は一族内の紛争で殺し合いをしていますが、
平氏は内部に亀裂を含みながらも、一族の結束を強める事で繁栄しました。
しかし、平氏も初期には主導権争いがかなりありました。


長徳4年(998)に維衡は、伊勢の所領をめぐって同族の
平致頼(むねより)と争い、朝廷に召喚されました。この時は致頼に
非があるとされ、隠岐へ遠流、維衡は一時、淡路島に身柄を移されています。
この争いは、次の世代にももちこされ、正度(維衡の子)は致頼の子、
致経(むねつね)と伊勢北部の所領をめぐる激しい戦いを展開しました。
父子二代にわたる合戦は、最終的に維衡流の勝利となり、

致経の子孫たちは、その後伊勢から姿を消しています。
ちなみに致経は典型的な荒武者でしたが歌に優れ、
『詞歌和歌集』に一首みえます。(巻9雑上335)

伊勢の拠点を失った致経の良茂流は地方武士に転落し、
新たに本拠としたのが、尾張の野間内海荘(知多半島)です。
この流れをくむ長田忠致(おさだただむね)は、平治の乱に敗れ
を頼って落ちてきた源義朝と忠致の娘婿鎌田正清を謀殺しています。
河内源氏との主従関係が、いつ確立されたのかは不明ですが、
当時、忠致は尾張を勢力下においていた源氏の家人で、
正清は義朝の乳母子です。


維衡の子正度(まさのり)には、維盛(これもり)・貞季(さだすえ)・
季衡(すえひら)・貞衡・正衡の五人の息子があり、それぞれ伊勢に
本拠地を築いていましたが、この中でのちに本流となったのが正衡の流れです。
野間はりつけの松・長田忠致屋敷跡   
 『アクセス』
「置染神社」 三重県津市大字産品484
平氏発祥伝説地忠盛塚より北西へ約700㍍
『参考資料』
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店、昭和48年 
高橋昌明「伊勢平氏の興隆 清盛以前」文理閣、2004年
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス、2004年

 



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


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コメント
 
 
 
伊勢平氏一門の墓が整備されて今も残るのは…。 (yukariko)
2017-08-10 21:12:00
三ヶ所四十数基は先祖、平氏にまつわる宝塔であると信じてこそ心を移し供花をなす。
…この言葉が滅んで800年後になってもその地元の人達がここに栄えた伊勢平氏を祖先と信じて哀悼する気持ちを表していますね。

でも平氏もずっと一本ではなく、傍流になってしまった武士で源氏の家人になった人もいたのですね。
それだけ地方の政治の力関係は複雑なのでしょうか。
 
 
 
伊勢平氏の一族 (sakura)
2017-08-11 08:27:30
維衡父子が致頼父子に勝利して、維衡流が伊勢平氏の本流となりましたが、
結果しだいでは致頼流が本流となった可能性が十分あります。
10C末はそんなはっきりとしない状況でした。

そして正盛、忠盛と中央政界での地位が高まり栄えていく過程で、
傍系の人たちはその郎党になっていったのです。
 
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