風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

手帳

2009-12-14 21:42:31 | 日々の生活
 世間では、年末恒例の来年度・手帳選びも、既に峠を越えたようです。本屋や文房具屋に山と積まれた在庫を見ていると、情報機器全盛の現代も、こうした従来型の手帳がまだまだ売れている現実を見せつけられます。何しろ記入が簡単であること(情報機器の問題は、日本語入力が煩雑であることですね、特に携帯型で顕著)、また検索や一覧性にも優れるからでしょう。一時期、Filofaxのような高級システム手帳が流行ったことがありましたが、どうやら最近は一年毎に更新する(捨てられる)タイプに落ち着いてきているようです。
 しかしながらデザインは、各社とも似たり寄ったりです。日用品なので使い勝手の点からいくつかのパターンに収斂してしまうのでしょう。見開き一週間のカレンダー形式で比較すると、縦長の短冊形を横方向に並べたもの、横長の短冊形を縦方向に並べたもの、左頁に四日分、右頁に三日分のマス形を並べたもの、どうやらこの三つに大別されるようです。
 私は左頁に三日分、右頁に四日分(但し土・日は半分サイズで、実質左・右各々三日分)のマス形のものをさんざん探し回りましたが、見つかりませんでした。四~五年前は当たり前にあったような気がしますが、今では左・右各々四日分(土・日もWeekday並み、プラス1日分のオープン・スペース)のものばかり。ここ4~5年で、土・日が更に自己主張を始めたのでしょうか。
 上の写真は、イスラム教の国マレーシアでも、華人が多いペナン島のショッピングモールではクリスマスの装いです。
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対米中

2009-12-13 15:53:22 | 時事放談
 もう時事問題で憤慨するのはやめようと思いつつ、またしても憤慨せざるを得ない問題が起こりました。14日から来日する中国・習近平国家副主席と天皇陛下との会見は、通常は一ヶ月前までに外務省が宮内庁に要請すべきルールがあるにも関わらず、ルールを逸脱して政治決着したという報道です。中国側が会見を打診したのは先月26日だったため、外務省はいったん断ったのですが、中国側は、胡錦濤国家主席が1998年に副主席として来日した際、天皇陛下と面会したことを引き合いに出し、「習副主席訪日の成否がかかっている」として、なおも強く要望し、埒があかなかったため、小沢幹事長が鳩山首相に働きかけ、鳩山首相が(宮内庁長官の上司にあたる)官房長官に指示することにより、宮内庁に再考を促したのだそうです。中国のごり押しもさることながら、民主党の対応には、憤りを覚えます。
 この一ヶ月ルールは、天皇陛下が前立腺ガンの手術をされた2004年以降、急な日程調整で多忙な生活に想定外の負担がかからないように、政府部内で徹底されてきたものだそうです。所詮は内規であり、一ヶ月というのも目安であって、健康上、問題ないと判断されれば例外は認められても良いという考え方も成り立ちますが、天皇陛下の立場を考えると、余程のことがない限り尊重されるべきルールだと思います。今回は余程のことがあったのか。
 天皇陛下の国際親善は、政治的な重要性や判断を超えたところにあり、平等に外国と向き合うもの(宮内庁長官談話)という意味で、国家の外交とは一線を画します。それが、天皇陛下を日本国と日本国民統合の象徴と祭り上げてきた意味であり、中国でさえも天皇陛下に対しては慎重かつ友好的な姿勢を貫いている理由だと思います。勿論、論理ではなく現実の世界では、天皇陛下という立場の行為は政治と無縁ではあり得ませんが、タテマエとしてそれを奉じて運用してきたのであり、時の政権による政治利用そのものと言うより、政治利用の露骨な意図は、厳に慎まなければならないと言うべきです。
 これに対して鳩山さんは、「諸外国と日本との関係を好転させるための話だから、政治利用という言葉は当たらない」と語ったそうですが、習近平国家副主席が胡錦濤国家主席の有力な後継候補と目されており、胡錦濤氏のときと同様の対応を求められていることが意味するところを知らないわけがありません。いわば直接的に天皇陛下を政治利用するものではないとは言え、中国に政治利用されるであろうことを知りつつ、その中国の意向に沿って動くことは、きわめて政治的であると言うべきで、自ら気づいていないとは言わせません。更にルールそのものに対しても、「ルールは知っていたが、数日切れば杓子定規で駄目だということが国際的な親善の意味で正しいのか」と批判したそうですが、そんな正論を堂々と吐く感性の鈍さには幻滅してしまいます。天皇陛下は、昭和天皇もそうだったように、総理大臣が希望することを無碍に断るようなことはないだろうという性格をちゃんと理解しているのか、鳩山さんは総理大臣の地位に酔っているのか、天皇陛下の心遣いに対する総理大臣の心遣いが感じられないのが、悲しくも腹立たしくもあります。天皇陛下は天皇陛下たらんと自制される一方で、天皇陛下を天皇陛下たらしめているのは、私たちの心でもあります。そうした微妙な関係の上に立っておられるのが日本における天皇陛下なのだと思います。
 こうして、普天間基地移設問題のようにアメリカにからむ問題で決断が遅くてイライラさせる鳩山首相も、中国の問題になると、とたんに決断が早く高圧的に見える様は異様です。しかも、小沢さんは、この時期にこれ見よがしに、20年来の草の根交流と称し、国会議員143名を含む600名もの関係者を大挙引き連れて中国を訪問しました。ほとんど新人だと思われる国会議員が、まるでベルトコンベアに載せられているかのように一人ずつ緊張しながらも嬉々として胡錦濤国家主席とのツーショットにおさまる姿を見せつけられると、情けなくなりました。民主党の外交姿勢が馬脚を現しつつあると言えますが、政権政党として、大胆というべきか、お粗末と言うべきか。単純にアメリカ追従を勧めるつもりはありませんが、アメリカの目に、これらが親中反米振りと映らなければ、よほどアメリカは鈍いということになるような事態で、国益を損なうことになりはしないかと、ちょっと心配です。
 上の写真はマレーシア・ランカウィ島にあるGaleria Perdana、マハティール元首相が首相在任中に入手した世界の著名人からの贈答品を展示している博物館です。首相という公職に伴うものだから、マレーシアの人々がアクセス出来るようにするべきだという信念から建てられたという、その心掛けが素晴らしい。この中には日本の天皇陛下からの贈答品もありました(何だったか忘れてしまいましたが)。
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ガラパゴス

2009-12-12 01:05:19 | 日々の生活
 昨日は、私が海外駐在していた時のアジア大洋州事業について触れました。何のことやらワケがわからなかったと思いますが、要は、事業撤退することになり、シドニーには僅か一年滞在した後に、オフィスを閉めて、日本に帰国したのでした。事業撤退の原因はいろいろ考えられますが、私の会社に特殊・特有の話をしても面白くないので、一般化して話してみます。
 最近、日本のエレクトロニクス産業はガラパゴス化しているという言い方をよくされます。ガラパゴス島はエクアドル本土から西に約900km離れた南太平洋上の島で、19世紀はじめ、ダーウィンがビーグル号に乗って訪れ、進化論の着想を得ることになったことで知られます。この島は、大陸と隔絶されている上、天敵になるような大型の哺乳類が存在せず、独自の進化を遂げた固有種が多く存在しています。同様に、現代社会においても、隔絶されて独自の進化を遂げ、結果として世界の発展から取り残された市場や地域のことをガラパゴスと呼ぶわけです。典型的な例は、日本で、主にNTTのお蔭で特異な発展を遂げた携帯電話機市場です。
 世界、とりわけアジア大洋州では、新しモノ好きを反映して最先端の高性能部品を使った、しかしシンプルな機能で安い商品がよく売れるのに対して、日本では、一般に日本の顧客は高機能志向であると信じられており、高機能商品を次から次に繰り出して日本の顧客を囲い込む日本のメーカーとが相俟って、高機能で高価格の商品がよく売れます。割りを食っているのは、単機能商品による市場参入を阻止されている外敵(外国メーカー)ではなく、日本の顧客だと言えます。その結果、こうした商品領域では、日本メーカーが日本の市場シェアの上位を占め、日本市場は世界の趨勢から完全に取り残されています。このような日本市場に最適化された商品をアジア大洋州市場に持ち込んだとしても、競争力がなく、ジリ貧になったのでした。
 先日、ある雑誌を読んでいると、寿司は日本オリジナルでありながら、Sushiとして世界中に広まった数少ない銘柄ですが、ハンバーガー業界におけるマクドナルドのような看板企業が、Sushi業界にはないのは何故か?というような問いかけを見かけました。寿司はオリジナルを越えて、世界市場で特異な発展を遂げ、Sushiと言えばかつてのカリフォルニア・ロール、最近ではスパイシー・ツナ・ロールとかスパイダー・ロール、レインボー・ロールなどのイカガワシイ巻き物が中心で、日本人の私たちにとっては邪道と呼びたいほどですが、客観的に見ると話は逆で、日本人が本来の寿司にこだわっている間に、世界の大勢から完全に取り残されているというわけです。いずれアメリカあたりからSushiの世界のマクドナルドが出現するかも知れません。
 今日のニュースで、亀井さんは、郵政事業のことを明治以来の国民の財産と呼び、それがズタズタにされていると憤慨していましたが、E-Mailなどの普及で郵便事業は縮小傾向ですし、銀行・保険などの分野で民業を圧迫しているのが真実の姿であって、これもまた特異な発展を遂げてガラパゴス化しかねない事業と言えます。
 食は文化で、平準化する必要はさらさらなく、寿司は守るべきだと思いますが、日本自体がガラパゴス化しかねない状況は憂うべきところです。
 大陸と隔絶されて特異な進化を遂げていると言えば、オーストラリアの有袋類もそうです。上の写真は、オーストラリア・ブリスベンのコアラ園で。
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大本営

2009-12-10 22:59:25 | 日々の生活
 昨日に引き続き、情報との関わりについて書いてみたいと思ます。
 情報は現場にある。昨日とは矛盾するものの言いになりますが、現場は、案外、早い内に潮目が変ったことに気がついているものではないか。その時に比較の対象になるのは、現場に対する本社や本部であり、また大日本帝国にあっては大本営になります。そういう意味では昨日とは切り口が違います。そう思ったきっかけは、海外勤務でした。海外と言えば、日本の本社に対しては現場になるわけで、最初に赴任したペナンでは、日本の本社では見えていない現地の事情が見えて来た。更にそのペナンも、当時は、アジア大洋州地域の本社であり、アジア大洋州各地の販売の現場の情報を必ずしも正確に把握していたわけではなかったことに、更にペナンからシドニーに移って、より現場に近づいてから気がつきました。ペナンで思っていた以上に、販売の現場は疲弊し、このアジア大洋州事業はそもそも無理筋だったのではないか、あるいはどんなに頑張ろうとも、所詮は負け戦だったと、恐らく大日本帝国・陸・海軍の現場のように、強く感じたものでした。
 大本営発表と言えば、「内容を全く信用できない虚飾的・詐欺的な公式発表」の代名詞(Wikipedia)として甚だ評判がよろしくありません。実際に戦争という異常な状況では、大損害を過少に見積もったり僅差の勝利を大袈裟に賞賛するような誇張表現は多かれ少なかれあるものでしょう。ところが、全滅のことを「玉砕」だとか、撤退を「転進」などと美化するようになるとすれば、やや行き過ぎで、更に行き過ぎが昂じると、白を黒、負けを勝ちと言いくるめるような隠蔽・虚偽の発表がまかり通ってしまう。その程度はともかくとして、大本営が戦況を正確に把握していなかったであろうことは厳然たる事実でしょう。情報通信技術が発達していなかった当時にあってはなおのことです。
 製造現場における品質管理で5ゲン主義(現場・現物・現実・原理・原則)が唱えられることにも繋がります。
 しかし、ものの本によると、当時の新聞社は大本営発表を更に誇張していたと言われます。そしてその体質は現代に至るも変わっていないのではないでしょうか。肝に銘じなければ。
 上の写真は、マレーシアの新聞のスクラップです。イスラム教徒は、断食中でも、日が沈むと食事を口にするわけですが、日が昇るとまた食事を口にすることが出来ません。そんな断食を破る夕刻と、再び断食に入る日の出の時間を、新聞でお知らせするわけです。そして、その記事の上には、断食を破る時はKFCへどうぞ!という広告です。
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真珠湾

2009-12-09 02:38:07 | 日々の生活
 68年前の昨日、日本帝国海軍・連合艦隊・第一航空艦隊は、ハワイ・オアフ島・真珠湾にあったアメリカ海軍・太平洋艦隊を奇襲し、太平洋戦争の口火を切りました。この攻撃はControversialなものとしてよく話題になります。
 一つは戦史上の話で、米軍の戦艦8隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげたことが喧伝される一方、その内の6隻は後に引き揚げられて復帰しており、米軍が結果として失った戦艦は2隻に過ぎなかったこと、空母に至っては真珠湾外の任務についていて無傷だったこと、乗組員も上陸していて人的被害は少なかったこと、石油タンク爆撃をはじめ追加的な攻撃がなされなかったために港湾施設の実害も少なかったこと等、実効を疑問視する声もあります。戦史上という点でより重要なことは、艦隊決戦主義が主流だった当時にあって、航空機による海戦が成功を収めたことで、以後、世界の海軍が空軍化する画期的な出来事となったことでしょう。
 もう一つは政略上の話で、在米日本大使館書記官の不手際によって宣戦布告が遅れたために日本の「騙し討ち」だと非難する人がいる一方で、米国ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に察知していたとか、さらには日本の攻撃を誘い出したのではないかと反論する人もいて、当時の開戦秘話を巡っては多くの著作がモノされ、興味が尽きません。
 しかし、ふと冷静に考えてみると、今だからこそルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を察知していたかも知れないと言えますし、実際に当時の情報戦におけるアメリカの実力から、日本が真珠湾を攻撃することを示唆する情報は挙がっていた可能性が高いですが、それは雑多で膨大な情報の一つとして埋もれていた可能性も高く、少なくとも確信は持てていなかったのではないか・・・というあたりが真実ではなかろうかと思います。その証拠に、真珠湾で米軍はなんだかんだ言って大損害を被りましたし、当時、アメリカの艦隊の動きを見ると、日本の攻撃目標はフィリピンやウェーキ島と考えていたフシがあります。
 歴史の審判を経た後世の私たちは、後知恵で何とでも言えるのであって、実際に当時を生きていた人たちにとっては、それほど状況がよく見えていなかったのではないでしょうか。幕末、戊辰戦争の緒戦は、薩長軍よりも幕府軍が圧倒的に有利だったと言われます。それだけに新撰組は時代の波に翻弄され、潮目が変わったことになかなか気づかず、ずるずる後退して行った可能性が高い。そこに私たちは滅びの美学を感じると共に、歴史の冷徹な現実をも感じざるを得ないわけです。このあたりは、ビジネスの現場とMBAでのケース・スタディとの関係にも対比し得るものだと思います。
 上の写真は、その昔、真珠は真珠でも「東洋の真珠」と呼ばれたペナン島の、第一の街ジョージタウン。
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ゲティスバーグ演説

2009-12-08 01:06:35 | 日々の生活
 昨日、ブログを書きながら、1863年11月19日にアメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーンが行なったゲティスバーグ演説(the Gettysburg Address)を、初めて読んでみました。20年前であれば、百科事典を見ても全文は掲載されていそうもなくて、専門書か図書館にでも行って調べなければならないような代物でしょうが、現代ではWikipediaで簡単に検索出来てしまうのですから、インターネットは偉大だとつくづく感じます。それはともかく、その演説の中で語られた一節で、「人民の、人民による、人民のための政治」は、後世、民主主義の本質を語る言葉として有名になりましたが、英語を習い始めた中学生の頃からずっと、アメリカで発行されたリンカーンの切手に書かれていた「of the people, by the people, for the people」の直訳で、日本語の字面だけ見ていても意味不明瞭だと感じ続け、ずっと心に引っかかっていたので、今回、あらためて前後の文章も含めて確認しようと思ったわけです。
 そこで、いくつか発見がありました。
 一つは、これは南北戦争の最中に聴衆に語りかけた勇壮な演説だとばかり勝手に想像していたのですが、実際には、ゲティスバーグ国立墓地の開所式で、メイン・スピーカーである組織委員長デイヴィッド・ウィルズという人の2時間もの基調演説の後で行なわれた、短い挨拶に過ぎなかったということでした。言葉にして僅かに272語、文にして10、2分ちょいの短い挨拶だったそうです。マイクもない当時のこと、リンカーンの演説が始まってもカメラマンはそれと気づかず、ようやく気づいて写真を撮ろうとした頃には既に演説が終わっていて、歴史的演説を行っているリンカーンの鮮明な写真は存在しないそうです。
 もう一つは、この言葉自体は彼のオリジナルではなくて、14世紀に、ジョン・ウィクリフという人が翻訳した聖書の序言冒頭にある一節、「This Bible is for the government of the people, by the people, and for the people」(「この聖書は人民の、人民による、人民のための統治に資するものである」)からの引用のようだということでした。
 まさにこの「人民の、人民による、人民のための政治」(government: of the people, by the people, and for the people)の部分をどう訳すか。学生時代の英語の授業で、ことさらに難解な古文(詩)を読まされた時、その教授が「by~」を「~の名の下に」と訳していたのを覚えています。従い、「人民による」は「人民の名の下に」と解すべきではないか。また「for~」は、古文でどのような意味で多用されていたのか分かりませんが、素直に「~に代わって、~を代表して」の意味で良いのではないか。そうすると、「人民の、人民による、人民のための政治」は、「人民が(of the people)、人民の名の下に(by the people)、人民を代表して(for the prople)行なう政治」となって、意味がようやく明確になるように思いますが、如何でしょうか。
 上の写真中央にある白亜の殿堂はオーストラリア旧・国会議事堂。現在の国会議事堂の眼下に広がります。
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立場

2009-12-06 21:50:56 | 時事放談
 日曜日恒例、先週一週間のニュースを、とりわけ普天間基地を巡る鳩山さん発言の迷走ぶりや、亀井さん発言の傍若無人ぶりを振り返って、敢えてブログには書かないように我慢してきましたが、やっぱり書きたくなってしまいました。日本の政治家は自民だろうが民主だろうが目糞鼻糞(決して糞だとお下品に貶めて呼んでいるわけではなく、同じ穴の狢というようなニュアンスです、為念)だということと、政治主導で国民の皆様のためと、ことあるごとに耳障りの良いことを訴えながら、結局、誰のための政治なのかをあらためて考えさせられたからです。今日はそのあたりを「立場」というテーマで、疑問という形で提示したいと思います(ゆめゆめ批判ではありません)。
 鳩山さんが、友愛を理念として掲げるのは政治家個人としては勝手ですが、日本国の総理大臣としての「立場」を貫いているように見えないのが不満だと、これまでも述べて来ました。普天間基地移設問題に関連して、オバマ大統領が来日にした時にTrust me!と、まるでウソじゃないよボクのこと信じてよとオカアチャンに手を合わせる子供のようだったとは言いませんが、少なくともあの場面で俺に任せろ!と啖呵を切ったのに、現行案以外の新たな移設先検討を指示し、年越しも止む無し、報道によると、来夏の参院選まで決着が難しいことを非公式にアメリカ政府に伝えて、予想以上の反発を買って、岡田外相が慌てる事態に至っているのを見ると、政府内で相変わらず整合されていないことへの驚きもさることながら、やはり鳩山さんは日本人ではなくて宇宙人だったのかと納得させられます。
 また偽装献金問題では、鳩山さんは党首討論から逃げ回り、一方の自民党は審議拒否で応酬して、臨時国会は空転したまま空しく閉幕しました。自民も自民なら、民主も民主です。そして2002年の加藤紘一さんの献金問題の時、鳩山さんは政治家と秘書は同罪と主張し、加藤さんが辞職に追い込まれた当時の映像が流されるのを見ると、今回は一転、検察の捜査を待つと白を切る鳩山さんの豹変ぶりには些か驚かされます(母親から毎月1500円ならまだしも1500万円ものお小遣いを貰っていたことを知らない子供はいないと思います)。さらに、先ほどの普天間基地を巡る迷走は、県内移設に反対する社民党に配慮している(社民党が離脱して連立与党が参議院で過半数を割る事態になることを恐れている)と岡田外相が弁明している通りだとすれば、ねじれ国会であっさり政権を投げ出すに至った福田さんと、意識レベルが同等ではないかと思われます。結局、今年の流行語大賞まで受賞した「政権交代」は、攻守交替、つまり与党と野党の「立場」か変わっただけで、誰がなっても与党(野党)体質は変わらず、飽くまで国会というコップの中の争いに終始しているということでしょうか。
 最後に、亀井さんは、日本郵政グループの株式売却凍結法案が成立して、4年越しの小泉との戦いに決着がついたと口走りました。さぞ胸がスカッとしたことでしょう。さらにどのような文脈で言ったのか明らかではありませんが、私が政府だ!と啖呵を切ったようです。政治家は私怨・私情で動くべきではないなどと正論を吐くつもりはありませんが、ここまでおおっぴらに発言するのを見ると、開いた口が塞がりませんし、キャスティング・ボートを握っているとは言え、それは連立与党に参加しているだけの、決して国民が選んだわけでもない弱小政党の「立場」を理解せず、勘違いもここまで甚だしいと、返す言葉が見つかりません。さるテレビに出演していたさる著名人が、亀井さんは経済のことも金融のことも分からないと自ら豪語しているのを聞いたことがあると話していましたが、その真偽はともかくとして、果たして彼を政治家として野放しにしていてよいのか、私としては税金が遣われるのが甚だ不本意でなりません。
 上の写真はオーストラリアの国会議事堂です。モダンなつくりで美術館のようです。キャンベラにて。
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マクドナルド

2009-12-06 00:47:23 | グルメとして
 今日、久しぶりにマクドナルドに行って来ました。昨日、ブログで書いたから・・・ではなく、「マックでDS」キャンペーン中で、Nintendo DSを持ち込むと「謎の水晶?」をダウンロード出来るというので、一週間前から子供と約束していたのでした。こういうのも最近はコラボと呼ぶのかも知れませんが、相変わらず子供心を掴むのがうまいですね。子供が小さい頃は、ハッピーセットのオマケ狙いで、よくせがまれて訪れたものでした。今でも捨てられないオマケ(大部分はアメリカ時代のもの)がダンボール一箱分くらい残っています。
 ファーストフードとは、よくぞ名付けたもので、レストランなのに、いかにも大量生産の商品らしさを感じさせるレストランで、システムとしては良く出来ています。それもあってか、メニューの方では、期間限定ながら昔懐かしい「クォーターパウンダー」や「マックチキン」を復活させるなど、目先を変える工夫を凝らして集客に余念がありません。
 実際、グローバリズムの象徴のように見られるマクドナルドですが、「てりやきマックバーガー」のようなご当地メニューを世界各地で見ることが出来ます。カナダではハンバーグではなくロブスターを使ったものがあると聞いたことがありますし、ドイツではビールが出ると聞いたこともあります。私も、シンガポールやマレーシアではちょっと油っぽいチキン・ポリッジ(粥)を良く食べたものですし、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒が多い東南アジア地域では、宗教上・習慣上の理由からビーフやポークではなくチキンが中心で、そのチキンもイスラム法に則って正しい手順で処分されたことを示すHalalの文字がしっかり表示されています。また東南アジアでは、ポテトにつけるケチャップに加えて甘辛のチリソースを選べて、我が家は贔屓にしていたものでした。こうしたご当地メニューを日本でも期間限定で提供すると面白いと思うのですが。
 東南アジアでは、宗教上・習慣上の理由から、マクドナルドよりケンタッキー・フライド・チキンが健闘しています。上の写真の通り、ケンタッキーもシドニー(ジョージ・ストリート)ではシックです。
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アメリカ食文化考

2009-12-05 02:10:26 | グルメとして
 さんざん「ペリー提督日本遠征日記」を引っ張りまわして来ましたので、今日はお題だけ借りて、そろそろお役御免にしたいと思います。この本(小学館)はペリーの日記の中から日本遠征のところだけを抜粋したもので、当時のアメリカを想像させる記述はなかなか見当たらないのですが、一箇所だけ、おやっと思ったところがあります。ペリーが座乗する艦船にフランス人シェフが乗っていたのです。何ヶ月も航海に出る当時にあっては、当然のことだったのかも知れません。
 それにしても、現代のアメリカは、いつから食に対する意欲あるいは執着心を失い、味覚を衰えさせたのか、疑問に思って来ました。既に移民三世や四世の時代になり、ヨーロッパとの結びつきよりも、むしろアメリカ人としてのアイデンティティが強まっているアメリカは、同じ移民社会でありながら、いまだに移民一世が中心で、ヨーロッパの食文化を引き摺っている美味しいオーストラリアとは対照的です。
 アメリカの舌を衰えさせた元凶は、味気ないファーストフードの味を整え、ファーストフードを支えて来たコカ・コーラ(更にはペプシも含むコーラ文化)ではないかと個人的に思っています。勿論、アメリカ文明を象徴するコカ・コーラを、私もこよなく愛しますし、アメリカ滞在中は、コカ・コーラの1950~60年代の雑誌広告やPOPを買い集めたものでしたが(コレクターズ・アイテムとして人気が高いので滅多に手に入らないのですが)、その話は別の機会に譲ります。ワインにコカインとコーラのエキスを調合したフレンチ・ワイン・コカと呼ばれるシロモノが、コカイン中毒問題と禁酒運動が広がる中で、たまたま炭酸水に置き換わり風味付けのシロップが加えられたことによってコカ・コーラとして誕生して以来、既に120年以上の歴史があり、第二次世界大戦中にはなんと“軍需品”としてアメリカ軍とともに世界に広まったと言われる伝説をもつほど、アメリカ合衆国そのものとも言える清涼飲料水です。
 ペリー日記を読むと、コカ・コーラ説を否定するものではないものの、のんびり船旅をすることがなくなり、移動に時間をかけなくなったこともまた、食の衰えの契機となったのではないかと想像させます。プラグマティックなアメリカらしいと言えましょうか。
 上の写真は、アメリカ文明を象徴するファーストフードの代名詞マクドナルド。シドニー(ジョージ・ストリート)では落ち着きがある佇まいです。
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ペリーがやって来た

2009-12-04 00:38:37 | たまに文学・歴史・芸術も
 今日も「ペリー提督日本遠征日記」からの引用です。辛うじて長崎・出島に西洋に開かれた窓があって、西洋の文物が部分的に流入していましたが、一般庶民は文明の波に洗われていない当時、ペリーの目に日本及び日本人はどのようなものとして映じていたでしょうか。
 ペリー艦隊には、マルコ・ポーロの「東方見聞録」以降、日本に関して欧米で著された750冊(!?)もの本が、パリ、ロンドン、アムステルダムの古本屋から買い集められて積み込まれており、ペリーは、航海中、これらの本をくまなく読んで、入念に準備していたようです。そしてどこでどう植え付けられたか、日本人のことを「二枚舌で有名な人々」、「非常に賢明かつ狡猾な人々」、「詭弁や外交的な誤魔化しにおいて、日本及びその属国(沖縄など)の人民の右に出る者はない」といった先入観をもって交渉に臨んでいます。
 ペリーの使命は、「他国同様に日本とも親善関係を結ぶこと、とりわけ蒸気機関の登場によってもはや遠い国ではなくなり、商業面で友好関係を育てること、それに伴い米国の船員その他の一般市民に保護を与えること」というのが公式声明として知られますが、「これまで外交と名のつくものを悉く排除する権利を主張してきた」「この極めて特異な国」と「有利な契約を結び」、「半野蛮の国を文明諸国の仲間に迎える」ことだとまで傲慢に本音を語ります。しかしそのわりには、交渉にあたって「与し易いと侮られるより、融通のきかない頑固者を演じた方が良い」と細心の注意を払い、武力を背景とした威嚇や脅迫も交渉のテクニックとして使い、最後は「これほど頑固に振舞ったことで、傲慢のそしりを免れない」と率直に認めるほど、蔑視する気持ちとある種の敬意を払う気持ちが交錯したアンビバレントな心情であったことが読み取れます。アメリカ自身が後発の先進国として決して強くない立場にあったことが影響しているかのようです。
 交渉の過程では、「何度も逃げを打とうとする」、「さんざん逃げ口上を述べる」日本人が、最初から最後まで、「形式や語句の使い方など、ほとんど意味のないことでしつこく注文をつけてくる」対応に辟易しながらも、ついには、日本人のことを「形式と礼儀を重んじる人々」、「部外者に対しては勿論、仲間内でも、日本人ほど丁重に礼儀正しく振舞う国民は世界中どこにもいにない」という印象を持つに至ります。
 彼はまた日本人の並外れた好奇心に驚いています。アメリカ大統領からの贈答品として、丸い軌道の線路を引いてミニ機関車を走らせたり、直線距離で1マイルの電信線を引いて交信して見せたり、農具を陳列するなどすると、「日本人は興奮し」、「魂を奪われたように眺めている」と描写しています。そして「展示品をこと細かに観察するだけでは飽き足らず、アメリカ人士官や乗組員の後をついて周り、機会さえあれば衣服に触ってみようとする」、「中でも一番興味を引いたのはボタンで、それを何とか手に入れようとする」とあります。「アメリカの艦船に乗艦を許されると、近づけるところは隅々まで覗き込み、あちらこちらの寸法を測り、目に触れるものは何でも独特の流儀で写生する」・・・何だか目に浮かぶような光景で、どれもこれも、文明圏の周辺にあったからこそ文明への憧れがあるわけですが、文明度に差があり過ぎれば当時最新の科学技術に興味をもつことなどあり得ないわけで、当時の日本は閉じた世界なりに成熟していたことが分かります。中国のアヘン戦争を見て日本人が最も恐れた欧米諸国による植民地化を、奇跡的にもアジアでは唯一回避し得た歴史的事実には、ワケがあるのですね。
 当時、ペリーの蒸気船は上喜撰(宇治の高級茶)に引っ掛けられ、太平の眠りを覚ます蒸気船(上喜撰)たった四杯で夜も眠れずと歌われました。一種の(文明の)津波でもあったわけです。上の写真は、2004年12月26日、プーケット島を襲ったことで有名な津波が、ランカウィ島に残した傷跡です。
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