風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ペリーがやって来た

2009-12-04 00:38:37 | たまに文学・歴史・芸術も
 今日も「ペリー提督日本遠征日記」からの引用です。辛うじて長崎・出島に西洋に開かれた窓があって、西洋の文物が部分的に流入していましたが、一般庶民は文明の波に洗われていない当時、ペリーの目に日本及び日本人はどのようなものとして映じていたでしょうか。
 ペリー艦隊には、マルコ・ポーロの「東方見聞録」以降、日本に関して欧米で著された750冊(!?)もの本が、パリ、ロンドン、アムステルダムの古本屋から買い集められて積み込まれており、ペリーは、航海中、これらの本をくまなく読んで、入念に準備していたようです。そしてどこでどう植え付けられたか、日本人のことを「二枚舌で有名な人々」、「非常に賢明かつ狡猾な人々」、「詭弁や外交的な誤魔化しにおいて、日本及びその属国(沖縄など)の人民の右に出る者はない」といった先入観をもって交渉に臨んでいます。
 ペリーの使命は、「他国同様に日本とも親善関係を結ぶこと、とりわけ蒸気機関の登場によってもはや遠い国ではなくなり、商業面で友好関係を育てること、それに伴い米国の船員その他の一般市民に保護を与えること」というのが公式声明として知られますが、「これまで外交と名のつくものを悉く排除する権利を主張してきた」「この極めて特異な国」と「有利な契約を結び」、「半野蛮の国を文明諸国の仲間に迎える」ことだとまで傲慢に本音を語ります。しかしそのわりには、交渉にあたって「与し易いと侮られるより、融通のきかない頑固者を演じた方が良い」と細心の注意を払い、武力を背景とした威嚇や脅迫も交渉のテクニックとして使い、最後は「これほど頑固に振舞ったことで、傲慢のそしりを免れない」と率直に認めるほど、蔑視する気持ちとある種の敬意を払う気持ちが交錯したアンビバレントな心情であったことが読み取れます。アメリカ自身が後発の先進国として決して強くない立場にあったことが影響しているかのようです。
 交渉の過程では、「何度も逃げを打とうとする」、「さんざん逃げ口上を述べる」日本人が、最初から最後まで、「形式や語句の使い方など、ほとんど意味のないことでしつこく注文をつけてくる」対応に辟易しながらも、ついには、日本人のことを「形式と礼儀を重んじる人々」、「部外者に対しては勿論、仲間内でも、日本人ほど丁重に礼儀正しく振舞う国民は世界中どこにもいにない」という印象を持つに至ります。
 彼はまた日本人の並外れた好奇心に驚いています。アメリカ大統領からの贈答品として、丸い軌道の線路を引いてミニ機関車を走らせたり、直線距離で1マイルの電信線を引いて交信して見せたり、農具を陳列するなどすると、「日本人は興奮し」、「魂を奪われたように眺めている」と描写しています。そして「展示品をこと細かに観察するだけでは飽き足らず、アメリカ人士官や乗組員の後をついて周り、機会さえあれば衣服に触ってみようとする」、「中でも一番興味を引いたのはボタンで、それを何とか手に入れようとする」とあります。「アメリカの艦船に乗艦を許されると、近づけるところは隅々まで覗き込み、あちらこちらの寸法を測り、目に触れるものは何でも独特の流儀で写生する」・・・何だか目に浮かぶような光景で、どれもこれも、文明圏の周辺にあったからこそ文明への憧れがあるわけですが、文明度に差があり過ぎれば当時最新の科学技術に興味をもつことなどあり得ないわけで、当時の日本は閉じた世界なりに成熟していたことが分かります。中国のアヘン戦争を見て日本人が最も恐れた欧米諸国による植民地化を、奇跡的にもアジアでは唯一回避し得た歴史的事実には、ワケがあるのですね。
 当時、ペリーの蒸気船は上喜撰(宇治の高級茶)に引っ掛けられ、太平の眠りを覚ます蒸気船(上喜撰)たった四杯で夜も眠れずと歌われました。一種の(文明の)津波でもあったわけです。上の写真は、2004年12月26日、プーケット島を襲ったことで有名な津波が、ランカウィ島に残した傷跡です。
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