風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

翻訳

2010-01-26 01:05:13 | 日々の生活
 先日、ある雑誌を読んでいたら、日本人が英語を所謂“直訳”する時の日本語は、漢文の訓読に倣ったものではないかという説を見かけて、なるほどと合点がいきました。英語の単語の一つひとつに、ほぼ近い意味の日本語を一対一で対応させて、ぎこちなく書き下す、アレです。明治に開かれた日本にあって、翻訳書とは原書を読む際の手引きのような位置づけだったのではないかと、その人は解説するのですが、それならなるほど納得できますね。しかしあれから翻訳文化もすっかり成熟し、今どき翻訳書を片手に原書に取り組む奇特な人はなかなかいません。それで、翻訳産業が、こなれた日本語訳を提供してくれるのなら問題ありませんが、中には機械翻訳に毛が生えたような粗末な日本語のものもあって、その時には、元の英語を想像しながら理解するといった本末転倒が起こってしまいます。
 翻訳産業という意味では、日本は世界でも有数の規模を誇るのではないでしょうか。学生時代に原書で読む外国書購読などという授業がありましたが、世界の非英語圏ではこうして原書を読むのが当たり前なのではないかと思います。そういう意味で日本人の英語力が伸びない大きな理由の一つは、翻訳産業が隆盛を極め、著名な英語の書籍の日本語版を片っ端からそれほどの時差なく出版してくれるお節介にあるのではないかと思います。その翻訳産業では、外国語モノを日本語に訳すのが大半ですが、その逆もあります。その典型はコミックでしょう。いくらコミックとは言えそのまま日本語で理解できる人はそうそういませんから、アジアだけでなく欧米へも輸出されては、現地語に翻訳されて出回るわけです。そして、そういったコミック好きの中には、日本語の原書を読みたいばかりに日本語を学びたがる人が出て来て、驚かされます。アニメの殿堂などと馬鹿にしてはいけなかったのではないでしょうか。
 日本の中学の英語の教科書が、This is a pen.で始まるのを、現地校にいきなり放り込まれて乱暴に鍛えられた我が家の子供たちは、意味がないと不思議がります。先日、新聞に掲載されたセンター試験の英語に戯れに取り組んでみましたが、受験科目として英語を得意にしてきた私でも、発音の違いなどは、もはや歯が立ちませんでした。目から入る日本の英語の緻密さを、耳から入った我が家の子供たちは、当然のことながら持ち合わせません。受験英語が、明治以来の翻訳の緻密さをテストするという位置づけから脱却しない限り、日本の英語は、世界の英語コミュニティの中の一種のガラパゴスとして、コミュニケーションのための生き生きとしたツールとは凡そなり得ないことでしょう。
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