今日の日経夕刊「あすへの話題」で、作家の小池真理子さんが「かくも奥深く、生々しく」と題して、安易に言葉を略し(カスハラなど)、変容させて面白がり、みんなと同じことを口にしていれば無難に過ごせる(小説をコンテンツ、作家をクリエイターと呼ばせる出版社があるらしいし、持続可能と言わずにサステナブルというカタカナ語が通用する)、というような風潮を戒めておられた。ウラジーミル・ナボコフが、ロシア革命を機にヨーロッパに、更にアメリカに亡命し、英語という異国の言葉で執筆した小説の数々が文学史に残るものになったという例を引きながら、言葉は「かくも奥深く、生々しく」あるもので、「夥しい数の言葉を駆使して初めて、人間という不可解な生きもの、社会の営みを表現することができる」と言うわけだ。
結論はその通りだろう。言葉は生き物とは言え、乱れるのは見苦しいし、字数に制限があるXで意図をきっちり伝えられるかと言うと、とてもそんな自信はない。とりわけ日本語は、四季折々の変化と、時に厳しく対峙し、時に暖かく包んでくれる豊かな自然のお陰で、類いまれに豊かな言語で、アメリカ国務省外交官養成局の外国語習得難易度ランキングによると、習得に最も時間がかかるカテゴリー5(他にはアラビア語、中国語、韓国語)の中でも、更にアスタリスクが付いて最高難度の栄誉⁉︎に浴しているらしい。ウラジーミル・ナボコフも、ロシア語を使えば確実なところ、アメリカ人に伝えたいばかりに英語で言葉を尽くして血の滲む努力をされたであろうことは想像に難くない。言語は文化そのものだからだ。
他方で現実問題として、単語レベルでは話が違って来るようにも思う。例えば外国で生まれた、日本にはかつてなかったような概念を、無理に既存の日本語を探して訳として当て嵌めることには疑問なしとしない。受験英語の如く「サステナブル=持続可能」という等式が頭にあるからこそ意味を理解するのであって、初めてこの概念に接する人が「持続可能な社会」と聞いてsustainという英単語が持つ「持続的に支える」というようなニュアンスをイメージできるとは思えない。外国語と日本語は、受験英語のように1対1対応させるとおかしなことになりかねないのであって、むしろ原語のまま使う方がよほどスッキリすることが往々にしてあると思う。それを、無理に漢字をひねくり回して翻訳した昔の西洋の哲学書が読み難いことは、この上もなかった。
逆もまた真で、日本で生まれた如何にも日本的な概念が日本以外の地で上手く翻訳できなくて、トヨタの経営で有名になった「改善」ともまた違う「カイゼン」活動は、結局、「kaizen」としか表現のしようがないし、「もったいない」という日本らしい感覚は「What a waste!」とか「too good to waste」ではなく「mottainai」としか表現のしようがないのである。
そんなことを言いながら、普段、「reasonableだね」とか「それじゃあjustify出来ないよ」とか「identifyする」などと、別にイキがっているわけではなく言い慣れているだけなのだが、今なお帰国したばかりの西洋かぶれのイヤミなオヤジのように英単語を散りばめて恥じることのない自分を自己正当化するのであった(!)。
これも、シルクロードの終着点で、文化の吹き溜まりのような日本ならではの発想だろうか。
それにしても、コラムのタイトルは遊び心に溢れて大胆ではないか(笑)
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