風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ある熱狂(中)

2011-02-13 23:10:33 | 日々の生活
 1970年は、物心ついた私が、「その年の十大ニュース」というものに目覚めた年であり、大阪万国博覧会開催、よど号乗っ取り事件、三島由紀夫の割腹自殺の三つをセットで記憶しています。「人類の進歩と調和」を謳った大阪万博の成功は、戦後の荒廃から立ち直って高度成長を続ける日本が到達した一つの高みとして晴れがましいものであるとともに、赤軍派によるハイジャックや、高名な作家の割腹自殺という旧時代の死に様が同じ年に起こったことは、子供心にも騒然とした時代であることを実感させられました。
 この年、日米安保が更新され、学園闘争は当局側の勝利に終わり、一般学生は急速に運動から離れて行きました。他方、運動を主導したブント(共産主義者同盟)は分裂し、その最左翼に位置する赤軍派は、革命には軍事が不可欠であり、革命は革命戦争により勝ち取られるという、過激な武装闘争路線を打ち出し、時代からどんどん遊離し、破滅への道をひた走ります。前年、首相官邸占拠のための軍事訓練をしているところを警察に発見され(大菩薩峠事件)、決起戦闘部隊が壊滅すると、国内での非合法闘争の後方基地として海外拠点を必要とする海外亡命抗戦論とでも言うべき国際根拠地論が出て来て、よど号ハイジャック事件(1970年3月)を起こし、目標地・キューバへの中継地として設定されていた北朝鮮に渡り、別のメンバーはアラブに流れて日本赤軍を結成し、日本に残ったメンバーは逮捕されて指導系列は解体します。そして最後まで残ったメンバーの一部が革命左派(日本共産党革命左派神奈川県委員会または京浜安保共闘)と統合して連合赤軍を結成するに至ります。
 1971年に入ると、革命左派が銃砲店を襲撃して入手した銃と、赤軍派が金融機関を襲撃して入手した資金を持ち寄り、警察の追及を逃れて山岳地帯で軍事教練や今後のテロ作戦を行うための拠点となるアジトを設置し、これを「山岳ベース」と呼称しました。革命左派のメンバーだった永田洋子死刑囚の罪状となった殺人は、この山岳ベースで「総括」と言う名で組織内を粛清する中で起こったものです(山岳ベース事件)。1972年2月17日、永田洋子はリーダー森恒夫とともに山狩り中の警察隊に発見されて逮捕され、坂口弘や坂東國男といった残りのメンバーもあさま山荘事件(2月19日~28日)に突入して逮捕されます。
 その後、永田洋子は脳腫瘍を患いながらの裁判の末、1993年2月19日に最高裁で死刑が確定しました(再審請求しましたが後に棄却)。1983年当時の判決では、森恒夫が既に獄中で自殺していたせいか、山岳ベース事件は永田洋子が主導したものとされ、その原因を永田洋子の「不信感、猜疑心、嫉妬心、敵愾心」「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」と決め付けました。坂東國男は著書「永田洋子さんへの手紙」の中で、「永田同志は、人間的感情のひとかけらもない『鬼ババア』」でしかなかった」と言いつつ、同時に、「山岳ベース事件において自分も含めて指導部全体がそのようであった」とし、自身についても「鬼のように冷酷に同志を告発し、同志を死へ至らしめる恐ろしい、動揺など一切しない人間として存在した」と述べています。ところが、永田洋子と往復書簡集を発刊した作家の瀬戸内寂聴さんは「洋子さんが、ごく普通の女の子で、頭のいい、素直な、正義感の強い、自分をごまかせない、馬鹿正直な人だと知るようになった」と書いています。凄惨な事件の原因を個人の属性に求めるのは安易で、政治イデオロギーの異常さや状況のもつある種の不条理さを説明しません。
 森恒夫は、一切の責任は自身と永田洋子(サブリーダー)にあるとし、後に、革命左派に事件の原因を求め、遺書の中では、革命左派の誤りを自身が純化させてしまったのが原因だと述べました。しかし、永田洋子も坂東國男や坂口弘も、事件を主導したのは森恒夫であり、権力欲からと言うよりも、自身の作った総括の理論にのめり込み、そこから抜け出せなくなったのだとしており、坂口弘は「極論すれば、山岳ベース事件は、森恒夫君の観念世界の中で起きた出来事」だったと述べています。獄中で自身の活動の総括を行ってきた永田洋子は、同志殺害の本質は日本の左翼に顕著な党派主義や左翼党派が当然の前提としてきた一党独裁にあるとし、連合赤軍事件と社会主義国・共産主義政党がしばしば引き起こしている暴力事件・虐殺事件(特に日本共産党が戦前や1950年代に起こした事件)との類似性を指摘しています。また、高橋和巳の「内ゲバの理論は越えられるか」を引用し、連合赤軍の同志殺害をはじめとした左翼運動内部での暴力を支えているのは「無私の精神」(党派への徹底した忠誠心・献身性・自己犠牲)や「共犯関係の導入による結束維持」(内部・外部への犯罪による一蓮托生の関係の創出)であるとし、それらの克服を訴えています。
 そう言えば、毛沢東と中国共産党によって殺された同胞は2600万人余りと言われますし、スターリンの粛清は7百万人(?)に達したとも言われます。左翼イデオロギーはかくも激しい。それにしても日本の1960~70年代の学生たちの熱狂から、連合赤軍事件に至る転落の軌跡は、私の中ではなかなか繋がらず、彼らの心象風景は如何なものだったのか、謎は深まるばかりです。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ある熱狂(上) | トップ | ある熱狂(下) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日々の生活」カテゴリの最新記事