風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ある熱狂(下)

2011-02-15 01:32:31 | 日々の生活
 既存の秩序に反抗するのは、若者の特権です。しかし年代によって過ごした時代背景は異なり、ひとつの事象に対する受け止め方も異なります。全共闘世代と一言で言っても、大学院生や学部の上級生は、ある程度自我を確立した年齢で学生運動を経験し、運動の性格もまた反戦平和志向の最盛期だったのに対し、入学間もない教養部の下級生は、それより若い年齢で学生運動を行い、運動は革命戦争の軍事的志向となり、その中で自我の形成を行いました。その結果、大学院生や学部上級生は運動が衰退しても医者・弁護士・研究者・大学教員など社会へ適応して行ったのに対し、学部下級生は中退・除籍の末、非正規雇用へと流れていく者も多かったと言われます。
 実際に全学連で名を馳せた方の中には後に転向された方も少なくありません。第二代委員長の香山健一氏は皇室関係者も通う学習院大学の教授でしたし、森田実氏は保守本流の宏池会を支持した政治評論家です。西部邁氏は中沢新一氏の助教授推挙問題で東大教授の座を投げ打ちましたが、西欧流保守思想を擁護する評論活動で知られますし、姫岡玲治の筆名で執筆した論文「民主主義的言辞による資本主義への忠勤-国家独占資本主義段階における改良主義批判」がブント(共産主義者同盟)の理論的支柱となり「姫岡国独資」と略称された青木昌彦氏は、今では世界的に著名な経済学者です。
 私は・・・と言うと、大学に入るまで政治を知らず、文字通り右も左も分からないノンポリで、気がつけば私がどっぷり浸かっていたのは自宅で親が購読していた朝日新聞的な正義派ぶった世界でした。そのため、大学に入って政治を知れば知るほど反発を覚えたのは、朝日新聞や朝日ジャーナルなど当時の論壇を席巻していた進歩的知識人で、却って保守派の現実主義的な論説に惹かれたものでした。近代ロシア政治思想史を専門にしていたある教授が端的に「ソ連は一人のドストエフスキーも産まなかった」と言ったところに、ソ連型の共産主義社会に対する深い絶望の思いが込められています。右と左の違いがあるとは言え、学生運動が共産党などの既存の左翼に飽き足らなかった点で、通じるものがあるとは言えないでしょうか。
 坂口弘死刑囚の刑が執行されないのは、共犯者である坂東國男が、1975年の日本赤軍によるクアラルンプール事件の際に釈放要求を呑んで国外逃亡し、裁判が終了していないためとされます。あさま山荘事件では警官の殉職2名と重軽傷者24名を出しており、坂東國男が逮捕されて裁判が終わらない限り、あさま山荘事件は終わらないと考える警察関係者は少なくないそうです。世界初の共産党からの独立左翼といわれるブント(共産主義者同盟)が、何故かくも若者を惹き付けたのか、またその若者の一部が武装闘争へと駆り立てられたのは何故か、あの時代に私も生まれ合わていれば、どう振舞っていたか、私にとっての“総括”はまだ終わっていません。
 以上三回にわたって連載し、いちいち断っていませんが、当時の事実関係についてWikipedia(新左翼、全学連、全共闘、ブント(共産主義同盟)、共産主義同盟赤軍派、日本赤軍、日本共産党(革命左派)神奈川県常任委員会、連合赤軍、大菩薩峠事件、よど号ハイジャック事件、山岳ベース事件、あさま山荘事件、塩見孝也、森恒夫、永田洋子、坂口弘、坂東國男など)や産経新聞記事を参考にしました。
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