【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

八幡市散策

2016-12-04 | デジカメ紀行
秋の文化財一斉公開 11月26日、27日
石清水八幡宮とともに神仏習合の門前町として発展した八幡市は、茶の湯文化ともつながりが深い町です。
「お茶の京都」にちなんで、3つのお寺(正法寺、神應寺、善法律寺)が紅葉のこの時期に一斉に公開されます。

11月26日出かけて来ました。

  まずはこちらから


<善法律寺>

善法律寺は律宗の寺。
建物は本堂を中心に庫裡、阿弥陀堂、聖天堂が配されている。本堂は、石清水八幡宮の社殿の材を用いて建立したものだそうです。
寺は石清水八幡宮検校であった善法寺宮清が正嘉年間(1257~1259)に私邸を喜捨し、奈良東大寺から実相上人を招いて開山したことに始まります。
室町時代には、善法寺通清の娘良子が将軍足利義詮に嫁ぎ、3代将軍義満の母となりました。義満は神社信仰に篤く、特に八幡宮を崇敬したため、20数回も八幡を訪れているそう。以後の義教、義政も足繁く往来し、将軍家と善法寺家との密接な関係が続き、律寺も足利家の庇護を得て隆盛を極めました。
良子は善法律寺へ自分の好きな紅葉の樹をたくさん寄進したそうで、別名「紅葉寺」と呼ばれています。

表門(高麗門、江戸時代後期、京都府指定文化財)をくぐると


庫裡が見えます。



本堂

初めて一般公開されました。

八幡大菩薩(僧形八幡)

明治元年(1868)に神仏分離が行われるまで石清水八幡宮の殿内に
安置されていたようです。
等身大の座像は、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ平安時代の作。

不動明王像


愛染明王像


本堂内は撮影不可なので、パンフレットより。


本堂のお参りをすませ、庭などを拝見。



丸窓から庭を眺め・・・





亀の形に切られた窓がありました。


境内の様子。

大西坊墓塔











  







善法律寺を後にして、東高野街道を石清水八幡宮一の鳥居方面へ。

< 本妙寺>

華宗に属する日蓮宗真門派本隆寺末寺。
開山は室町時代の末期(1570年ごろ)。
日蓮上人像を安置。
松花堂昭乗を養育した竹内伊予守の寺。
所蔵の雲版は京都府指定文化財 。

<松花堂泰勝寺(しょうかどうたいしょうじ)>

松花堂旧跡を示す石柱が立っています。
松花堂昭乗(江戸時代の初期の僧侶、書家、茶道家)のお墓があり、
宝物館や日本百席のひとつに数えられている
茶席の閑雲軒などもあります。

<相槌神社(あいづちじんじゃ)>

石清水八幡宮の、参道東側入口、「七曲り」といわれる急な坂道の
登り開始地点にあります。
元は八幡宮境内の末社であったようですが、現在の場所に移され、
独立の神社となりました。


鳥居の扁額には「三条小鍛冶 相槌神社」と書かれ、平安時代中頃に京都で活躍した名刀匠「三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)」
ゆかりの神社であることが示されています。
三条小鍛冶宗近は、一条天皇の命を受けて稲荷神の化身である童子と共に槌を打ち、名刀を作り上げたといわれている人物(祇園祭の長刀鉾に付いている長刀を作ったことでも知られています)。
またこの槌を打つときに用いた水が、
神社右手にある「山ノ井戸」の水なのだそうです。


 
<途中で見かけた空き家>




道端の花等を見ながら・・・。






橋が見えてきました。


<安居橋(あんごうばし)>

大谷川が放生川と名を変える八幡平谷の買屋橋から京阪電車踏切手前の全昌寺橋までの約200メートルの間の中ほどに架かる
反り橋を言います。
江戸時代の放生川には、今よりも多くの橋が架けられており、川上から「五位橋」「安居橋」「六位橋」「高橋」という順番に架かっていたそうです。


広場には
< 能蓮法師歌碑>

「石清水清き流れの絶えせねば やどる月さえ隈(くま)なかりけり」

この歌は 文治元年(1185年)九月に催(もよお)された、
石清水八幡宮の歌合せにおいて、能蓮法師が詠んだもので、
千載和歌集(せんざい わかしゅう )に収められている。

現代語訳は「 石清水八幡宮のふもとを流れる放生川の清らかな流れが絶えなければ、川面に映る月も影がなく、美しく照り映えるであろう。」

<高良神社(こうらじんじゃ)>

八幡男山の西の麓に鎮座。
貞観3年(861)、大和大安寺の行教によって建立された古い神社です。
同社は慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いによって消失、
が、明治15年(1882)に再建されました。
石清水八幡宮の摂社で、八幡の産土神(うぶすながみ)です。

社殿


御神木

クスノキ科、樹齢700年。



石清水八幡宮一の鳥居、右の道沿いにいくと、神應寺です。

<神應寺(じんのうじ)>

山門を振り返り

右に折れ、さらに階段が続きます。

境内に入ると「紅葉まつり」の立て看板が。
   
貞観2年(860年)、石清水八幡宮を勧請した行教建立の寺で、はじめは「應神寺」と言いましたが、天皇の号をはばかり「神應寺」と改められたそうです。
文禄年間(1592~1596年)、征韓の役にあって豊臣秀吉は、石清水八幡宮に詣で、軍の先鋒に神官を望みましたが、神社側は恐れて命に服さず、秀吉は機嫌を損ねましたが、神應寺住僧の機転で、征韓の首途にはまず應神天皇の御寺に参詣すべきと進言。秀吉は機嫌を直し、寺領200石を寄進しました。

本堂




薬師如来



本堂内は撮影不可なので、パンフレットより。

境内の様子












アーコレイド櫻

イギリスで改良された櫻だそう。


亥(い)の子餅


善法律寺が、寺を創建した善法寺家ゆかりの和菓子「亥の子餅」を、近くの和菓子店「走井餅老舗」の協力で再現。特別公開に合わせて本尊の八幡大菩薩像にお供えし、走井餅老舗店舗で販売されました。

亥の子餅は旧暦10月最初の亥の日に食べるお餅ですが、ゆかりの深い石清水八幡宮の祭神「応神天皇」が敵に襲われそうになったとき、イノシシに助けられたことに由来するそうです。

イノシシの肉を表現する赤飯の餅をあんでくるみ、クリとササの葉を載せる。クリは骨、ササの葉は牙を表わしています。

キリンさんトラック



家電の納品。電線にひっかからないようにうーんと「首」を伸ばして・・・。
どうやら、二階の窓から入れるようでした。


道路上で・・・。

消火栓蓋

黄色地に水玉模様、中央に「消火栓」の文字、上に市章入り、
受枠はV字模様の四隅が丸みを帯びた角型消火栓蓋。

汚水管マンホールの蓋

「安居橋」と市の花「サツキ」です。


八幡市 市章。道路舗装とマッチ。

八幡市市章
町村合併10周年を記念し、広く公募して制定しました。周囲の竹は、伸びゆく若い力と困難に打ち勝つ根強さを、中央の2羽の鳩は、八幡市の頭文字である「八」をかたちどるとともに、平和と友愛の精神を表現しています。竹と鳩は、八幡市にゆかりの深いものです。(昭和39年10月1日制定・昭和52年11月1日、市制施行に伴い町章を市章としました)

男山と安居橋です。

T字路等道の分かれるところ等に埋め込まれています。


説明は、八幡市観光協会、パンフレット等を参考にしました。



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 春日大社 | トップ | 大根炊き「生駒聖天さん」 »
最新の画像もっと見る

デジカメ紀行」カテゴリの最新記事