【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

平安神宮

2023-06-27 | デジカメ紀行

平安京は北は玄武(げんぶ)、東は蒼龍(そうりゅう)、西は白虎(びゃっこ)、南は朱雀(すじゃく)の四神に守られていたと伝えられています。

平安神宮には四神のうち、東の蒼龍楼と西の白虎楼、二つの手水舎に蒼龍と白虎の大きな像が見られます。

平安神宮




6月13日訪れました。

<大鳥居(国登録文化財)>

(ホームページより)


昭和3年に昭和天皇の御大典が京都で行われたのを記念して、平安講社が同4年3月25日に造営。
応天門から約300メートル南の神宮道に所在し、高さ24m、幅18m。
造営当初は日本一の大きさを誇っていました。現在では岡崎公園のランドマークとなっている日本有数の朱の大鳥居です。

<手水舎>




<応天門(重要文化財)>


応天門は平安京大内裏の正庁朝堂院の南面正門。
平安神宮応天門は第4回内国勧業博覧会のモニュメントとして、平安遷都1100年にあたる明治28年に大極殿等と共に造営されました。

応天門をくぐると目に入ってきます。



<大極殿(重要文化財)>
平安京の大内裏の正庁である朝堂院の正殿で、即位、朝賀をはじめ国の主要な儀式が行われる中枢。
大極とは、宇宙の本体・万物生成の根源を示す言葉で、不動の指針北極星に比定され、天皇の坐す御殿を意味します。
 
平安神宮大極殿の正面に向かって右が蒼龍楼、左が白虎楼で左右対称に位置しています。
外拝殿の大極殿から東の蒼龍楼、西の白虎楼へは長い歩廊でつながっています。

<白虎楼(びゃっころう)国指定重要文化財>
東方の蒼龍楼(そうりゅうろう)と共に平安京朝堂院(ちょうどういん)の様式を模したもの。
屋根は四方流れ・二重 五棟の入母屋造(いりもやづくり)・碧瓦本葺(みどりがわらほんぶき)が施さ れています。
建坪 約82,7平方メートル 桁行並び梁行 約9,85メートル

<蒼龍楼(そうりゅうろう)国指定重要文化財>
屋根は四方流れ・二重 五棟の入母屋造(いりもやづくり)・碧瓦本葺(みどりがわらほんぶき)が施さ れています。
建坪 約82,7平方メートル 桁行並び梁行 約9,85メートル

<手水舎>
  
西側には大きな白虎が、東側には大きな蒼龍が。






大極殿の前に。

<右近の橘>





<左近の桜>







神苑へ
白虎楼の歩廊の入口から入ります。






<日本で初めて営業運転された電車の車両>



創建と同じ明治28年に、京都市内で運行されたことから、苑内展示。


<神苑>


面積約33,000平方メートル(約10,000坪)の広大な池泉回遊式庭園で、明治の有名な造園家7代目小川治兵衛らの手になるものです。
平安京千年の造園技法の粋を結集した庭園として、1975年(昭和50年12月)に国の名勝に指定され、春の紅しだれ桜、初夏の杜若・花菖蒲、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々に風光明媚な趣を見せています。
平安神宮の大極殿背後の周囲三方に配された南神苑、西神苑、中神苑、東神苑で構成されています。

南神苑 - 1895年(明治28年)作庭。



  


ナデシコ





フタバアオイ



クチナシ





シモツケソウ





フジバカマ





セリ





ツユクサ





ビワ





リンドウ





クズ





ススキ





西神苑へ

ハンゲショウ



白虎池 6月には池畔に200種2000株の花菖蒲が咲きます。







  







コウホネ





中神苑へと続きます。









臥龍橋











東神苑へと続きます。











橋殿(はしどの)の中央には泰平閣が、東山のひとつ将軍塚のある華頂山を借景にして建てられています。
栖鳳池(せいほういけ)。手前に見えているのは、鶴島と亀島。











橋殿を渡ります。

<尚美館(貴賓館)>



京都御所から移築された建物。


<御朱印>




説明文は公式サイトを参考にしました。

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越前和紙の里

2023-06-21 | デジカメ紀行
越前和紙の里

世界でたった1枚・自分だけの紙漉きを越前和紙の里がある今立地区は、全国に数ある和紙産地の中でも1500年という長い歴史と最高の品質と技術を誇る、越前和紙の産地です。

全長230mの石畳の遊歩道通り沿いには伝統家屋や里山の自然に溢れた街路樹が立ち並び、
特産品やお土産物屋などの店があります。
越前和紙の紙漉き体験・伝統工芸士による紙漉き・越前和紙の資料展示など、越前和紙の里では様々な越前和紙の文化に触れることが出来ます。

<和紙の里通り>









<①パピルス館>
紙漉き体験ができます。
世界でたった1枚・自分だけの紙漉きを!。



<②卯立の工芸館>


玄関正面に卯立を立ち上げた「妻入り卯立」建築様式。
伝統工芸士が昔ながらの道具を使って和紙を漉く様子や、屋外での和紙天日干しなど、和紙が作られる一連の工程を見ることができる、全国でも唯一の場所となっています。

越前市定友町で紙漉きを生業としていた「妻入り卯立」を持つ西野平右衛門家を平成8年~9年に移築・改修したもので、創建は江戸中期寛延元年(1748)と伝えられています。
和紙の里・五箇地区にいまなお点在する民家に見られる妻入り卯立の家であって、軒を連ねた町家の両軸にうだつ(うだつ)を上げて隣家と境している平入り卯立に対して、民家の基本的な形式が妻入りであるこの地の独自の形式として、玄関正面に卯立を立ち上げた「妻入り卯立」の典型を見ることができます。

1階は古式にのっとった越前和紙の紙漉き道具を復元し、工程にしたがって配置。
いろりのある和室。
伝統工芸士をはじめとする紙匠たちにより、原料作り、紙漉きから乾燥までのすべての手漉き和紙抄造の流れが一目でわかるようになっています。








材料のコウゾ、ミツマタ、ガンピ。












実演がありました。(ホームページより)




2階では和紙にまつわる様々な企画展が随時行われています。
















<③紙の文化博物館>

「和紙の里・ガイダンスゾーン」
本館1階では、「世界に広がる越前和紙」「越前和紙の今昔」を映像とパネルで紹介しています。岡本川を中心に営む和紙産地五箇(不老、大滝、岩本、新在家、定友)とともに、紙祖神「川上御前」を祀る国の重要文化財『岡太神社・大瀧神社』や、産地の歴史と今を見ることができます。
新しい和紙使いの提案コーナーや、和紙にふれる体験コーナーも新設。

「和紙の交流・情報ゾーン」
産地を代表する和紙約125点を展示しています。和紙情報ライブラリーでは、書籍の閲覧ができます。越前和紙関係の本を中心に産地や製法、紙漉き職人について集めています。


(ホームページより)

「和紙の歴史・文化ゾーン」
年数回の特別展が開催されます。人間国宝をはじめ名工の紹介や、国の重要有形民俗文化財指定の古紙、紙漉き道具をテーマごとに展示。



お昼ご飯は「越前そば」


お店に展示されていました。和紙で折られています。
ご自由にお持ち帰り下さいとの事。



マンホールの蓋

市の伝統産業である「越前和紙」の紙漉がデザインされています。




北陸自動車道・南条サービスエリア下り線に・・・。

ダイノベンチと呼ばれる長椅子。

恐竜の“恐竜博士”。

丸ぶち眼鏡に白衣を着て、右手には恐竜の専門書、掲げた左手のひらには鳥脚類ヒプシロフォドンの頭骨。


革靴は、3本指になっています。(恐竜博士のモチーフはフクイラプトルです)

説明文は公式サイトを参考にしました。


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西国第十番札所 明星山 三室戸寺

2023-06-11 | 花だより
「夜もすがら月をみむろとわけゆけば 宇治の川瀬にたつはしらなみ」
の御詠歌できこえる、西国三十三箇所霊場十番の観音霊場、明星山三室戸寺は、観音応現の霊地であり、光仁天皇勅願の精舎です。
本尊は千手観音像、厳重な秘仏です。
寺伝によれば、宝亀元年(770年)光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建。
明星山、三室戸寺は西国観音霊場十番の札所で、本山修験宗の別格本山です。 約1200年前(宝亀元年西暦770年)、光仁天皇の勅願により、三室戸寺の奥、岩淵より出現された千手観音菩薩を御本尊として創建されました。
開創以来、歴代天皇・貴族の崇拝を集め、堂塔伽藍が整いました。
光仁天皇の開創以来千有余年の間、皇室より庶民にいたるまで、私達の悩みの一切を必ずお救い下さる、大慈大悲の観世音菩薩の信仰の中心として、三室戸寺への尊崇は厚く続けられました。

6月1日訪れました。


三室戸寺の入口に架かる小さな橋を蛇体橋といいます。

この橋名の由来民話です。
宇治の三室戸寺には、参道の入り口に小さい橋がある。名を蛇体橋というてな、 なんでも雨の降る日には橋の裏側に、蛇の影が現れるのやそうな。 ずっと、昔のことや。山城の綺田(かばた)村に、三室戸の観音さまを信仰している心のやさしい娘がいた。
ある時、娘は村人が蟹(かに)を殺そうとしているのに出くわし、 「魚の干物をあげるから、逃がしてやっておくれ」と頼んで、蟹を助けてやった。 さて、ある日のこと。その娘の父親が畑に行くと、蛇が蛙(かえる)を飲み込もうとしていた。 そこで父親は、「蛙を放してやりなさい。放したら、わしの娘をやるから。」と、蛇に言うたのや。蛇はすぐに蛙を放し、やぶの中に消えていった。
その夜、蛇はりりしい若者に姿を変え、父親のところへやってきた。 「約束通り、娘をもらいにきたぞ。」 父親はびっくりぎょうてん。 「三日後に、来てくれ」 と、言い逃れをして蛇を帰したのや。
三日後、娘は戸をしっかり閉めて部屋に閉じこもると、三室戸の観音さまを念じながら、一心に観音経を唱えた。 恐ろしくて気が遠くなりそうなのを必死でこらえてな。 外で娘を待っていた若者は、ついにしびれを切らし、蛇の姿にもどると、尾で戸を打ち破った。 「観音さま!」 娘が叫んだとたん、たくさんの蟹がこつぜんと現れ、はさみをふり立てて蛇に切りかかった。怒り狂う蛇を退治したのや。
翌日、娘は三室戸寺へお礼参りに、出かけた。途中で雨が降りだし、三室戸寺についたころには、本降りになっていた。 娘が参道の橋を渡り、なにやら気配を感じて振りかえると、橋の上に蛇が横たわっていた。 蛇は悲しげな目で娘をじっと見つめると、橋の裏側にまわり、ふっと姿を消したのや。 雨が降る日には蛇の影が現れる。 いつしか人々は、この橋を蛇体橋と呼ぶようになったのや。
娘は蛇を供養するため、蛇の姿をした宇賀神の木像(非公開)を奉納したと伝えられています。


<境内図>


蛇体橋を渡り、受付を済ませ、進みます。







右手下方にアジサイ園が見えます。



<山門>



山門をくぐると、見えてきます。



<あじさいのアート>



今年も60段もの石段に景気の回復に向けた願いが描かれています。
古くからウサギに縁のあるお寺で、本堂に続く60段の石段にはおよそ700株のポットアジサイを使用しコロナからの脱却と飛躍、それに景気上昇を願い、月に向かう「あじさい花うさぎ図」が描かれました。

あじさいを見ながら、石段を上がって行きます。



<手水所>





<宇賀神の像>

気軽に触れてもらおうと、木像に似せた石像を設置。
財運・金運の蛇神で、頭は老翁、体は蛇で蓮に乗っています。宇賀神を撫でると、財運(金運)・良運がつくといわれています。


<本堂(江戸時代・府文化財)>



文化11年(1814年)に再建。重層入母屋造の重厚な建物で、秘仏の千手観音立像が安置されています。



本堂の前に。

<勝運祈願の宝勝牛(牛玉)>

三室戸寺に観音詣でをしていた富右衛門というお百姓が飼っていた弱々しい牛が、観音様のご利益で立派な牛になり、 地域一番の権兵衛の牛に戦い勝ち、その時に得た報奨金をもとに、牛の仲買人として成功したという故事によります。
この宝勝牛がくわえている牛玉の観音様に触れると、勝運に恵まれるといいます。
牛の腹には小さな覗き窓があり、そこから胎内におさめられた牛の木像が見えます。


<運勝祈願の手形 横綱 貴乃花・若乃花>

若乃花関は平成10年の春場所直前に絵馬を奉納し、優勝。


<狛兎>

狛牛と対面して兎が安置されています。
三室戸寺のある地域は、古来より、菟道(うじ)と言われ、 仁徳天皇の弟、菟道稚郎子は宇治天皇とも称され、応神天皇と宇治の豪族、和邇氏の娘との間に生まれた皇子です。宇治の本拠としていたので、こう呼ばれていたようです。
菟道稚郎子が宇治に来た際、兎が道案内したとの伝承もあり、兎と縁があります。
御影石製で、高さ150cm、幅90cm。幅60cmの大きな玉を抱いていますが、玉の中に卵型の石があり、それが立てば願いが通じると云われています。


<阿弥陀堂(江戸時代・府文化財)>



<鐘楼(江戸時代・府文化財)>



<三重塔(江戸時代・府文化財)>

建立の全高16メートル。


<浮船古跡碑>









続いて、アジサイ園へ向かいます。


庭園「与楽園」 5,000坪。中根金作によって1989年(平成元年)に作庭された枯山水庭園と池泉回遊式庭園、広庭からなっています。5月は2万株のツツジ、一千本のシャクナゲ、6月は1万株のアジサイ、7月はハス、秋は紅葉の名所にもなっています。




























  


  


  


  


  


  


  
    



















  



<御朱印>
      
切り絵の御朱印です。



<汚水管マンホールの蓋>

宇治橋と市の木イロハモミジのデザイン。


説明文は公式サイトを参考にしました。





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敦賀市赤レンガ倉庫

2023-06-03 | デジカメ紀行
福井県敦賀市金ケ崎町にある「赤レンガ倉庫」へ。

敦賀市は、古くから大陸と日本の交流が日本海を介して行われてきた中で、天然の良港を有し、後背地に京阪神、中京の2大都市圏が控える交通の要衝として発展してきました。
この立地を活かし日本海側で初めて敦賀-長浜間に鉄道が敷設されました。その後、敦賀-ウラジオストク間の直通定期船の就航と新橋-金ヶ崎間の欧亜国際連絡列車の運行により、わが国と大陸ヨーロッパをつなぐ国際都市となり、敦賀市の発展は「鉄道と港」とともにあったといえます。
金ヶ崎周辺地区は、定期就航船や欧亜国際連絡列車の発着拠点として発展を演出した舞台であるとともに、港まち敦賀を象徴する地区といえます。

5月28日訪れました。
駐車場に車を停め、向かいます。先ず目にはいってくるのが扁額。







続いて











赤レンガ倉庫バス停


銀河鉄道?


シンボルロード化事業(敦賀駅前から相生町通り気比神宮前まで)により整備された道路に、敦賀市の将来都市像「世界とふれあう港まち、魅力あふれる交流都市敦賀」を目指し、現在市のイメージである「科学都市敦賀、歴史を引き継いだ港、並びに敦賀駅」と将来ビジョンを重ね合わせたキャラクター像27体が設置されました。「銀河鉄道999=鉄道・科学・未来」、「宇宙戦艦ヤマト=港・科学・未来」がモチーフ。





<

ラッピングバスも走っています。(敦賀市サイトを参考にしました)

気比神宮



バス停の前に恐竜が・・・。




恐竜博士と一緒に写真が撮れるダイノベンチ。スタンディングポーズの恐竜博士3代目。2022年3月に県内7か所に設置されたうちの一つだそうです。








敦賀赤レンガ倉庫は、明治38年(1905)にアメリカの石油会社「紐育(ニューヨーク)スタンダードカンパニー」によって建設された石油貯蔵用の倉庫です(建築面積2685.18㎡)。欧亜国際連絡列車が発着する敦賀港駅からロシアを経てヨーロッパにつながる国際都市として敦賀が繁栄した時代、明治中期から昭和初期の敦賀港を象徴する施設となっています。外国人技師による設計といわれ、レンガはオランダから取り寄せて積み上げられたといわれており、柱の内側に壁を設け、内壁に柱のない空間になっているのが大きな特徴です。
煉瓦造(イギリス積)、木造小屋組瓦葺。



2009年1月、北棟・南棟・煉瓦塀が国の登録有形文化財に登録されました。
2015年に建物の補強・修復工事が完了し、北棟が「ジオラマ館」、南棟が「レストラン館」として、同年10月14日(鉄道の日)に開館しました。



=ジオラマ館=





明治後期から昭和初期にかけての敦賀のまちなみを鉄道と港のジオラマで再現し、「運転体験」や「ライブ映像」、「AR」などのエンターテイメントで、敦賀の歴史を楽しく学ぶことができる国内最大級のジオラマ館です。
第二次世界大戦中に多くのユダヤ難民の命を救った杉原千畝氏の偉業に関する人道の港のエピソードや北陸新幹線といった進化する交通の要衝敦賀を映像で演出することで、過去を体感し、近未来に思いをはせることができます。

全長約27メートル、最大奥行き約7.5メートルの大きさを誇る鉄道と港のジオラマ「ノスタルジオラマ」。
D51・1号機をはじめとする蒸気機関車、ディーゼル機関車、敦賀の特徴となるスイッチバックなどの鉄道模型、自走式の船や自動車が走っています。







まちなみは、『いま蘇る みなとまち敦賀の町並み』気比史学会創立10周年記念出版(1988年)の昭和20年(敦賀空襲被災時)の復元地図を参考に往時のまちなみを約80分の1スケールで再現されています。

明治時代、敦賀は日本とヨーロッパを結ぶ玄関でした。
新橋から敦賀・金ケ崎直通の欧亜国際連絡列車が運行され、ウラジオストク直行便に連絡していました。明治後期から昭和初期の街には、西洋的な近代建築も数多く、シルクハットの紳士やドレス姿の淑女が歩く異国情緒に満ちあふれていました。その頃の華やかな敦賀の様子を再現しています。


=赤れんがcafe=



=オープンガーデン=

キッチンカー











  

  



赤レンガ倉庫の近くに

=洲崎の高燈籠(すざきのたかとうろう)=


旧笙ノ川河口の左岸、かつて洲崎の浜と呼ばれた海岸近くに石造りの高燈籠が建っています。享和二年(1802)に、船道頭(ふなどうがしら)を務めた廻船業者・荘山(庄山)清兵衛が建てたもので、荘山の高燈籠とも呼ばれています。
近世、敦賀湊への移入品は主として北陸・奥羽地方諸藩の米穀、次いで松前物と呼ばれた昆布、身欠き鰊(ニシン)、魚肥などでした。一方、移出品としては、美濃、近江、北伊勢等で産出したお茶が最たるもので、現川崎町一帯には茶商が軒を並べたことから茶町と呼ばれていました。その茶町の一角に居を構えていた清兵衛が、自邸・荘山屋敷の一隅に私費を投じて建てたのが、この高燈籠です。
高燈籠は、底辺の大きさ2.3m四方、高さ7.46mで、台石を下から谷積みと布積みとで2段に高く積重ね、その上に火袋を置き、二重の笠と請花・宝珠を載せています。日本海側では現存する最古の和式灯台といわれており、敦賀湊の歴史を物語る遺産として福井県の史跡に指定されています。

燈籠とは、本来は神仏に献灯するために建てられたもので、後に庭園の装飾などに取り入れられました。それとは別に町の辻燈など、照明用として建てられた高いものが高燈籠で、このうち港近くに建てられたものが灯台の役目を果たしました。


お昼ご飯はこちら。
=日本海さかな街=


日本海側最大級の海鮮市場 60店舗が集結!
敦賀港直送の魚介が並ぶ鮮魚店をはじめ、水産加工の店、昆布・珍味・銘菓の専門店など約40店と、海鮮丼・寿司・焼き鯖・特産品の専門店やレストランなど15店舗の飲食店が軒を連ねる巨大海鮮市場です。


次回、キャラクター像27体を巡ってみたいと思います。

説明文は公式サイトを参考にしました。


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