【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

東大寺~お水取り~

2014-02-28 | デジカメ紀行
「正倉院正倉整備工事見学」をおえ、二月堂方面へ。

二月堂
東大寺再建寺、大仏殿東方の丘陵地、東が高く西が低い傾斜地に、西を正面として建てられています。奈良時代(8世紀)創建、大小2体の十一面観音を本尊とする仏堂。1体は内陣中央に安置され、「大観音」(おおがんのん)と呼ばれ、もう1体は厨子に納められ、通常は大観音の手前に安置されているもので、「小観音」(こがんのん)と称される。2体共、秘仏です。現存する建物は1669年の再建で、平成17年12月、国宝に指定されています。

奈良の早春の風物詩である「お水取り」の行事が行われる建物として知られています。
「お水取り」は正式には修二会といい、8世紀から連綿と継続されている宗教行事です。
旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることから「二月堂」の名があるそうです。

 大仏殿&鹿

正倉見学を終え、東方面へ。
鹿たちがのんびり、草を食んでいました。
後ろの方に見えるのは、大仏殿の裏側です。

 講堂跡

柱跡でしょうか。規模の大きな飛び石のよう・・・。

 二月堂への道1 石畳のなだらかな坂道を上がって行きます。


 二月堂への道2


 二月堂への道3

振り返ってみました。

 お願い

この坂道にある溝に掲げてありました。

 二月堂&階段1


堂の手前左右(南北)の階段で、堂への通路となっています。北側の階段は屋根付きで「登廊」と称され、練行衆が参籠宿舎から二月堂へ上堂する時にここを通るそうです。
右手に見えている木が、「良弁杉」です。

奈良の民話伝説によると
昔、近江の国、滋賀に仲のよい夫婦がいました。二人には子供が有りませんので、毎日毎日、観音様にお願いしました。すると二人には男の子が産まれました。観音様が授けてくださったのか、二人はお守りに小さな金の観音様を作り、その子の首にかけて大事に育てました。ある日、畑で仕事をしているとき、突然大きなワシが現れ、木陰で寝ていた赤子をさらってしまいました。二人は必死で追いかけましたが、とうとうワシは見えなくなってしまいました。ワシは奈良まで飛んでゆき、二月堂の下の杉にひっかけてその赤子を食べようとしましたが、その子の胸のあたりから後光が射してワシの目がくらみ食べることが出来ず、飛び去っていきました。その杉にひかかっている赤子を見つけたお坊さんがその子を降ろして見ると、懐に観音様のお守りが入れてありました。その子は良弁と名づけられ、後に立派なお坊さんになり東大寺の建立に力を尽くしました。ワシにさらわれてから30年間、全国を探し回っていた母親とも杉の木の下でめぐり会い二人は幸せにくらしました。 その後、杉の木は「良弁杉」と名付けられ、今も東大寺二月堂の前にあります。


二月堂&階段2

南側の階段で、3月12日深夜の「水取り」の時に若狭井へ下りる際に使用されるそうです。

 「階段2」に埋め込まれている石段の模様です。
石段









階段の 全体にあるわけではなく、下の方三段と、上から二段あたりに見られました。
意味は・・・?。

二月堂から 奈良市街を望みます。

左手、山の前のほうに見えるのが、横から見た大仏殿です。

二月堂(南面) 廊下の周りに「吊り灯篭」があり、夜には灯がともり、幻想的だそうです。


二月堂&鹿

こういう風景を見ると「奈良だなあ」って感じ。

手水舎 屋形細工、

透かし彫りなどの彫刻が見られ「すごい!」の一言。

灯篭いろいろ

二月堂参拝の後休憩場へ向かう途中で見られました。

松明見本

休憩所に修二会で使われる「たいまつ」の見本がおいてありました。

興成神社(こうじょうじんじゃ)

二月堂の西、やや下辺りにあります。

興成神社説明


閼伽井屋

高札の左には「若狭井」の石碑が建っています。

閼伽井屋高札


瓦、鵜

閼伽井屋の屋根にいます。

四月堂




毎年4月に法華三昧が行われるので「四月堂」と言われる三昧堂。御本尊に十一面観音立像(平安時代・重文)、普賢菩薩騎象像(平安時代)、阿弥陀如来坐像(鎌倉時代・重文)等を安置。
二重屋根の形式を持つお堂です。創建は治安元年(1021)、鎌倉時代に再建。

北隣は東大寺開山の良弁の像を祀り、庭に奈良三名椿の一つ「のりこぼし」がある開山堂です。
「のりこぼし」は、残念ながら非公開なので、塀の間から覗いて下さいとのこと。

東大寺案内図


ざくろ

閼伽井屋辺りで見つけました。

法華堂1


正面(礼堂)。一般に三月堂(さんがつどう)として知られる、東大寺境内東方の丘陵部に位置する、奈良時代(8世紀)建立の仏堂。国宝に指定。東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の1つで、堂内に安置する10体の仏像も奈良時代の作だそうです。本尊は不空羂索観音立像。手前に建つ石灯籠は重要文化財です。

法華堂が位置する東方丘陵部の一画を「上院」(じょういん)と称します。大仏開眼(752年)以前から、東大寺の前身寺院があった場所で、法華堂はその主要堂宇の1つです。

法華堂2

建物西側です。

向かって左半分(北側)の4間分が奈良時代、右半分の4間分(南側)が鎌倉時代の建築。
右端から数えて4本目の柱の上には組物がなく、代わりに実用上は必要のない雨樋が入っているそうで、正堂と礼堂が本来別棟で、
ここに雨樋があった名残だそう。

法華堂を後にし、下(西)方面へ。
鐘楼1


梵鐘

   
梵鐘は、大仏開眼供養の前年751年に鋳造されたと伝えられています。
鋳造された鐘は天平勝宝4年4月8日に天皇が行幸して懸けられたそうです。
巨大な梵鐘だけに、当初からこの丘の上で鋳造されたものらしく、重さ26.364トン、直径は2.708メートル、高さは3.853メートルもある大鐘で、音は長く響き「奈良太郎」と呼ばれて
「日本三名鐘」の一つとされています。現在の鐘楼は、鎌倉時代(1207~10年)に、栄西によって再建されたものです。国宝に指定。室町時代の文献には、南都(奈良)八景の第一に「東大寺の鐘」が挙げられています。

俊乗堂(しゅんじょうどう)    

鐘楼の北側に元禄年間、公慶上人が重源上人の遺徳を讃えて建立。
堂内中央に国宝「重源上人坐像」が安置されているそうです。

念仏堂


鐘楼のすぐ東の位置にあります。方3間、単層、寄棟造りで本瓦葺きの建物で国の重要文化財に指定されています。ここの屋根は錣葺(しころぶき)屋根という屋根の上半分を切り離し、寄棟屋根を載せたようなたような珍しいもの。本尊は鎌倉時代に造られた地蔵菩薩坐像で国の重要文化財に指定されています。

大仏殿方面へ

鐘楼のある広場から、大仏殿方面へ向かいます。
東側からの大仏殿です。
右手の木々が茂っている向こうに隠れているのが辛国社。
辛国社(からくにしゃ)

天狗社とも呼ばれる。

市内の阿字万字(あぜまめ)町の人々の間では辛国神社(からくにじんじゃ)として崇敬されているようです。石灯籠などの刻銘から、明治三十六年前後から天狗社が辛国社という名称にかわったようです。良弁僧正が東大寺創建時にさまざまな障害を加える天狗達を改心させて、仏法護持を誓約させて祀ったものだそう。この神社の前、大仏殿までの道を「猫段」と言うんだとか。ここで転ぶと猫になると言われたことから来ているようです。

境内の様子・・・ 、
馬酔木1

馬酔木2


鹿親子

おっぱいが欲しいー。

鹿





    
椿





鏡池&石碑 

もどってきました。

南大門

国宝。

平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置する。上層の正面中央に、「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられているのは、古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、2006年10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて新調されたものだそうです。ウィキペデイアを参考にしました。

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院。金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺です。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されています。

東大寺はどこからでも入ることができ、気が付けば「境内」って感じです。
東大寺といえば、「大仏さま」。
とてつもなく広く、「見る」「お参りする」ところが多く・・・。改めてびっくり。(まだまだ見残しあり。)
時間がたりないですね。

【3月14日:お水取り】




















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正倉院~正倉院正倉整備工事現場公開~

2014-02-23 | デジカメ紀行
「正倉院」は東大寺大仏殿の北西に位置する、高床の大規模な校倉造(あぜくらづくり)の倉庫です。
屋根は寄棟造、瓦葺。
規模は正面約33.1メートル、奥行約9.3メートル、床下の柱の高さ約2.5メートル。

聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設。
「古都奈良の文化財」の「東大寺」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。

建立時期は不明。光明皇后が夫聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した756年(天平勝宝8)前後とみるのが通説。759年(天平宝字3年)以降、宝物出納の記録が残っていることから、この年までに建立されていたことがわかるようです。

正倉院宝庫は、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)に区分され、北倉は主に聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が、
中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが、南倉には東大寺の什器類が納められていたそうです。

宝庫は長年、宝物を守ってきましたが、1952年(昭和27年)に鉄筋コンクリート造の東宝庫、1962年(昭和37年)には同じく鉄筋コンクリート造の西宝庫が完成し、翌1963年(昭和38年)、宝物類はそちらへ移され、現在、宝物の大部分は西宝庫に収納、東宝庫には修理中の品や、西宝庫に収納スペースのない、大量の染織品が収納されているそうです。(wikipediaより)

大正2年に解体修理が行われたようです。

「正倉院正倉整備工事現場公開
正倉院正倉は,奈良時代の八世紀中頃に創建され,1,200年以上の歴史を有する国宝指定の建造物ですが,大正2年に実施された解体修理から約100年を経過し,傷みが徐々に進行して雨漏りが懸念される状態となったことから,本年(平成23年度)より屋根の葺き替えを主とする整備工事を行うこととなりました。
つきましては,文化財建造物の保存修理について理解を深めていただく機会と致しまして,この工事期間中に計5回の現場公開の実施を予定しております。」

宮内庁の正倉院正倉整備工事現場公開(1~5回)がありますとの案内を見つけました。

申し込みにより抽選です。
「5回目(2月7日)最終回」に当選し、行ってきました。

中門

東大寺中門です。
朝9時前、人もまばらです。正倉院へ向かいます。

金堂(大仏殿)

塀の間からです。

正倉院

パンフレットより。
向かって右から、北倉、中倉、南倉。
北倉と南倉は校倉造り、中倉は北倉と南倉の壁を南北両サイドに利用した板倉造り。

正倉院へ

左手にあるのが、東宝庫のある敷地です。

入り口

正倉院全体が工事のため、覆われています。

基礎1


基礎2

床下には直径約60センチの丸柱が自然石の礎石の上に並んで、本屋を支えています。

二階部分を見上げると

見えているのは南倉です。

 
勅封(ちょくふう)


聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がされており、宝庫の扉の開封には勅使(天皇からの使い)が立ち会うことが必要とされていたそうです。
「勅封」という言葉は本来「天皇の署名入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること」を指します。
見本に付けられていました。

二階

入り口が見えています。

写真は二階部分
内部1,


内部2,


内部3

3っある入り口からなかを見ると、各部屋が二階だてになっています。

角、木組み

北倉と南倉は大きな三角材(校木・あぜき)を井桁に組み上げています。校倉造りです。

三階へあがると展示場になっていて、屋根を見下ろせるようになっています。

屋根模型1,


屋根模型2

構造がわかるように模型が置かれています。

構造

パンフレットより。 難しい!、よくわかりませんが補強されたよう。

瓦見本1,


瓦見本2

造られた時代やグラム数が書いてある瓦が手で触れるように置かれています。一枚3~4キログラムもあるんですねえ。

瓦展示見本1,


瓦展示見本2

おろされた各年代の瓦が展示されています。

屋根、写真

葺き替え途中の写真等も展示されています。

「桶巻き作り、一枚作り」と瓦の成形方法の違いも図解されていました。。

屋根は35,432枚もの瓦で葺かれていたそうです。奈良時代の瓦が平瓦で738枚、丸瓦が105本残っており、その他平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代(慶長、元禄、天保)、明治時代、大正時代の瓦が確認できたそうです。
天平時代から以降の時代のものが大事に使用されており、今回も使えるものはそのまま使用するそうです。
そのような古い時代の人が造った「瓦」を触れられるなんて感激です。

屋根1,


屋根2

正倉院の屋根部分は、ぐるりと一周できるようになっています。軒先が目線にあるので、大迫力、圧巻。
           
瓦1,


瓦2,


瓦3,


瓦4


南面から東面にかけて見られた丸瓦です。南面が最も環境が良いため奈良時代の瓦が使用されているそうです。残りの古瓦も南面、東面中央部分に使用。西面、北面は新規補足瓦を使用されているそうです。

鬼瓦1,


鬼瓦2,


鬼瓦3,


鬼瓦4

四方の鬼瓦です。

鳥衾瓦(とりぶすまかわら)

大棟などのはずれに突出する丸瓦。

参観記念スタンプ

参観記念に押しました。

見学を終え、二月堂方面へ・・・。

写真は、下調べなしで出かけるので「とりあえず撮っとこかなー」って感じでパチリ。家に帰り色々調べていると、「これがかー」とか「あれっ、そんなんあった?」「ピンボケ」とか・・・。 残念な時も多いです。
 
 

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神戸南京町春節祭

2014-02-15 | デジカメ紀行
2月1日、神戸南京町の春節祭へ行ってきました。

旧暦で節句を祝う中国では、旧暦のお正月を「春節」として盛大に祝います。
この時期の中国は爆竹が鳴り響き、祝い事にはかかせない龍や獅子が舞い踊り、おおいに賑わいます。
南京町でも旧暦の正月に合わせ、1987年(昭和62年)から「春節」をアレンジし「春節祭」として開催が始まりました。
その後、昭和天皇崩御の年と阪神淡路大震災の年の2回は中止となりましたが、2014年は28年目、26回目の開催となります。

南京町(なんきんまち)は、神戸市中央区の元町通と栄町通にまたがる狭いエリアの通称で1997年(平成9年)には、神戸市の地域無形民俗文化財に指定されました。横浜中華街、長崎新地中華街とともに日本三大チャイナタウンの一つに数えられ、東西約200m、南北110mの範囲に100あまりの店が並びます。南京町の中央通りは、十字路になっていて中央の広場には「あずまや」、東は「長安門」、西は「西安門」、南は「南楼門(海榮門に改名)」という名前の門があり、北は元町商店街につながっています。(wikipediaより)

西安門


長安門


海榮門

南京町3方向にある門です。

あずまや


高さ6.8m、直径3mの六角堂で、二層式の屋根とともに、朱色の柱、天井に龍が描かれています。商売繁盛の神様としても 信仰される「関聖帝君」(関帝=三国志の英雄・関羽)を祀る祭壇があり、参拝をすることができます。(パンフより)

参拝の後は、西遊記登場人物(孫悟空、猪八戒、沙悟浄、三蔵法師)と記念撮影。

  
記念撮影を済ませ、お線香をたてます。
お線香

お線香と言っても日本のとは違い、直径7㍉ぐらい、長さは30㌢ぐらいあったかな?

春節祭   パンフより


獅子舞
 
南京町を練り歩いています。なかなか近寄れず・・・。

ステージ
 
中国雑技団による「変瞼」、「変面」とも呼ばれ、一瞬にして顔の面が変わる。
中国、四川地方の伝統芸能だそうです。

 
舞踊。衣装が色鮮やかです。
ステージは観客が多く、人垣の間からです。

中国獅子
 
大理石製(北門)

百獣の王ライオンは、獅子になって中国からやってきました。南京町安堵の守りとして北の入り口にいる雄雌2頭の獅子、雄は願いをかなえ、雌は子宝を授けるそうです。

南京町商店街




「小龍包」で超有名人気店、 屋台等があります。


ホカホカ    せいろには、暖かそうな万頭などが。


サンプルですが・・・
  
ショーウィンドウには美味しそうな御馳走のサンプルが並べられ、食欲をそそります。

パンダ&コーラ

コーラの自動販売機の上に。

大丸で今話題の車が展示されていました。

助手席には、獅子舞の獅子が座っています。
後方には「どこでもドア」が。子供達が出たり入ったりして遊んでました。


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神戸南京町からJR三宮へ

2014-02-14 | デジカメ紀行
神戸南京町からJR三ノ宮までぶらぶら散策。
途中、大丸神戸店のすぐ傍にある、「三宮神社」へ寄りました。

三宮神社(さんのみやじんじゃ)は兵庫県神戸市中央区三宮町に鎮座する神社。生田神社の八柱の裔神を祀った一宮から八宮までの神社(生田裔神八社)の中の三柱目に当たり、祭神としては水の神:湍津姫命(たきつひめのみこと)を祀っています。
航海の安全と商工業の繁栄を守る神として、古くから一般の崇敬厚い神社。古い記録がなく、いつ創設されたかなどについては未詳。
境内に「河原霊社」や「史蹟 神戸事件発生地碑」と当時の大砲が置かれています。
慶応4年(明治元年、1868年)には、三宮神社前において、岡山藩(備前藩)兵と外国兵の衝突が発生し、明治政府初の外交事件となりました。これを神戸事件あるいは、備前事件と呼ぶそうです。(wikipediaより)

三宮神社

鳥居と石碑です。

拝殿  

お詣りしました。

お宮さんにお詣りをしてから自分の干支の位置に立ち写真を撮り、御神符、お守り等を受け取ると「無病息災、厄除招福、家内安全、進学成就、交通安全、社運隆昌、商売繁盛、良縁結実等」が得られると、伝えられているそうです。

干支

この上に立つのかな?。

大砲

後ろに白梅と「手水舎」がみえます。
白梅は蕾固しでした。

紅梅

咲き始め。

消火栓蓋


神戸港、ポートタワー、六甲山のぶどうとワイン、パン屋さん、神戸大橋と花火、風見鶏の館、ロープウェイ、布引の滝、中華街など神戸の名物満載です。

マンホール1

ポートアイランドと背景の六甲山には市章と港のマークが入っています。

マンホール2   

ルミナリエのデザインです

石畳案内

交差点あたりの歩道に埋め込まれていました。
神戸では、「山側」「海側」って表示をよく見かけますね。

おしゃれなパン屋さん、新しくできた「ホテル ケーニヒスクローネ」等をみながら駅に到着です。

今日は朝から雪が降り続いてます。10㌢以上積もっているようです。
大屋根から、雪が落下中で、「ドーン、ドーン」と地響きがしています。
庭に出てみました。
「赤芽ねこやなぎ」

寒そう・・・可愛い・・・(2014.2.14)


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京の冬の旅~阿弥陀寺・妙顕寺・報恩時~

2014-02-08 | デジカメ紀行

京の冬の旅
非公開文化財特別公開 ~秘められた京の美をたずねて~


普段は見学できない庭園、建築、襖絵、仏像・・・が、期間限定(1月10日~3月18日)で特別公開されます。
まずは、1月23日、阿弥陀寺、妙顕寺、報恩寺の三ケ寺へ行ってきました。

京阪電車出町柳駅から歩くことに。
河合橋、出町橋と渡り、寺町へ向かいます。

写真は さぎ、トンビ、

トンビ ほんとうに「ピーヒョロロ・・・」って鳴くんですね。上空を旋回していました。
チョット一休み?。

鳥達 鳥、鳥、鳥・・・。写真小さいですが、綺麗に並んでいます。

鳥達 出町橋からです。

阿弥陀寺(あみだじ)は、京都市上京区にある浄土宗の寺院です。山号は蓮台山。院号は総見院。
本尊は阿弥陀如来。
「花曼荼羅に彩られた織田信長の眠る寺」
織田信長や正親天皇(おおぎまち)の帰依を受けた清玉上人(せいぎょく)の開山で、織田信長公本廟所。
本能寺の変の際、上人は本能寺に駆け付け信長の遺骸を寺に運び、本能寺・二条城で討死した織田家中百余名と共に供養・埋葬されたそう。
織田信長(天徳院)・信忠(景徳院)父子墓と、森成利(蘭丸)等の墓があります。
本堂天井は、上田幸子氏筆「彩華来迎花浄土の図」です。

三門 

門の前に「織田信長公本廟」の碑があります。

本堂   

本尊の阿弥陀如来の傍に織田信長、信忠父子の木像が安置されています。

庫裏


境内


鐘楼


芭蕉翁歌碑

「春立つや 新年古き 米五升」

南天

おたふく南天

鎮守社


阿弥陀堂を後にし、上京区寺之内にある「妙顕寺」へ。
日蓮宗、勅願寺、大本山。
境内は約一万坪、堂宇だけでも六千坪あり、周囲に塔頭が九ヶ寺あります。
「尾形光琳ゆかりの寺 三つの庭園美」

妙顕寺説明


梵鐘&ソメイヨシノ

梵鐘は京都府指定有形文化財。
ソメイヨシノは「区民の誇りの木」だそうです。

三門


三菩薩堂

宗祖、朗師、像師が奉られているそうです。

鬼子母神堂(尊神堂)

鬼子母神が奉られています。
鬼子母神とは安産や子供の守護神、さらには最悪を除き福をもたらす神として、あがめられています。
また天皇自ら参拝されたお堂でもあり、天拝鬼子母神堂とも言われているそうです。

大玄関&庫裏

こちらから中へ・・・。

大本堂

信徒の家紋をあしらった総けやき造りの天井が見られます。

三っの異なる庭を見ることが出来ます。
・光琳曲水の庭

書院の前、信徒であった尾形光琳の屏風絵を元に作られたと言う「光琳曲水の庭」です。
樹齢400年の赤松、梅、白砂、コケ等が見られます。

・坪庭

五角形の庭、苔地に孟宗竹です。
 
・龍華飛翔の庭

客殿前にある枯山水の庭です。
貴人を迎える勅使門に面した「四海唱導の庭」。
白砂、カエデ、サクラ等が植えられています。

イブキ&灯篭&本堂

灯篭は「妙顕寺型灯篭」と言うそうです。
イブキは「区民の誇りの木」。

椿


妙顕寺を後にして、同じく寺之内にある、すぐ近くの報恩寺へ。
浄土宗、堯天山(ぎょうてんざん) 佛牙院(ぶつがいん) 鳴虎(なきとら)報恩寺。

「鳴虎」を伝える黒田長政ゆかりの寺。
戦国武将・黒田長政の宿舎となった報恩寺。
客殿には、快慶作と伝わる御本尊・阿弥陀三尊像や、大河ドラマの主人公・黒田官兵衛と息子の長政の位牌が安置されています。
長政が息を引き取ったといわれる「最期の部屋」、豊臣秀吉ゆかりの「鳴虎図」(複製)、秀吉と織田信長の肖像画などを見ることができます。
「鳴虎図」とは
中国の画人四明陶佾(しめいとういつ)が描く猛虎の絵を、豊臣秀吉の望みで、聚楽第の床へ飾ったところ、夜中に虎の鳴き声が聞こえ、秀吉は一晩中安眠できず、すぐに寺へ戻されたことから鳴虎として有名になりました。
虎が谷川の水を飲んでいる後ろに松が描かれ、二羽のカササギがとまっています。中国の山岳地帯のようです。
毛が一本一本細かく描かれていて立体的に見え、左からと、右から見るのと違った姿(長さが違って)に見えます。

本堂と庫裏は1788年(天明8年)の天明の大火で類焼し、それ以後再建されていないそうです。

三門&橋

門前の石橋には慶長7年(1602)架橋の刻銘があり、今は埋められた小川(こがわ)の名残をとどめています。
橋は重要文化財。
 
報恩寺


庭園1,2,3





白砂、枯山水庭園です。

境内1,2

竹細工が置かれていたりちょっとした演出が・・・。


ユズリハ(楪、交譲木または譲葉)ユズリハ科

梵鐘

重要文化財。高さ123.5センチ、口径73センチ、素文の銅鐘です。
「撞かずの鐘」と言われています。

京都新聞、ふるさと昔語りによると (記事の一部を紹介します)
織屋の町、西陣の一角に浄土宗の報恩寺がある。昔、つらい奉公や夜なべの仕事に励んだ織女(おへこ)たちは、報恩寺の朝夕の鐘で、仕事の始めや終わりの時間を知った。今は、除夜以外は突かれることのない「つかずの鐘」から、悲しい音色と逸話が響いてくる。江戸時代、寺の近くに古い織屋があった。店には十五歳の丁稚(でっち)と十三歳の織女が働いていたが、二人はなぜか仲が悪く、顔を合わすとけんかするなどいがみあっていた。ある時、二人は報恩寺の夕方の鐘の数をめぐって口論になった。織女は「九つ」、丁稚は「八つ」と主張する。そして間違った方が何でもすると約束した。
年上で悪知恵のはたらく丁稚がこっそり店を抜けて寺男に問うと、正解は織女のいうように「九つ」。そこで丁稚は「今日だけは数を八つにしてほしい」と頼み、事情を知らない寺男は気軽に引き受けた。
その日の夕方、鐘の数を数えていたところ、九つ目が鳴らない。丁稚から、さんざん悪口を浴びせられた織女は悔しさのあまり、鐘楼に帯をかけ首をつってしまう。以来、恨めしげな表情の織女の霊が現れるようになり、以来、寺も鐘を撞くのをやめ、代々「つかずの鐘」として伝わってきたという。

足利執権、畠山持国が陣鐘に用いた鐘で、全面に梵字の銘が刻印されている銘鐘で、平安時代後期の作。
今は除夜のみ、一般の人でも「108」までなら先着順で撞く事ができるそうです。

稲荷大明神

正一位 いなり大明神が祀られています。

お茶室、お茶



近くの「俵屋吉富、京菓子資料館」で休憩、ホット一息です。

この時期は花が少なく、さみしいです。春への準備中ですね。

「京都冬の旅」、お寺へ行く時、厚手の靴下は必須アイテムです。
冬ならではの景色もいいもんですが、とにかく「さ・む・い」(笑)。

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