【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

2015紅葉&「南天九猿」

2015-12-30 | 花だより
今年のモミジ。
天候の関係(寒くなったと思えば、暖かくなったり・・・)で、例年より紅葉が遅れ、色付きもよくなかったようです。

源光庵(11月4日)


観菩提寺(11月5日)


橿原神宮(11月20日)


伊勢神宮(11月21日)




一休寺(11月22日)







紅葉と言えば「赤」を連想しますが、「緑」「黄」も綺麗です。
 
天候のせいでしょうか、我が家では、サクラソウが咲きました。





友達と作ってみました。

「南天九猿」


「南天九猿」とは、ナンテンの枝の上に、フウセンカズラの種を使用したサルの人形を9体のせた縁起物です。

「難(南)が転(天)じて苦(九)が去る(猿)」
という意味が込められているそうです。








バトンタッチ

羊から猿へ。昨年と同様、卵の殻を使って作ってみました。

今年も残すところあと1日。来年はどんな年になるでしょうか。
皆さま良いお年をお迎えください。

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伊勢神宮

2015-12-25 | デジカメ紀行
「お伊勢さん」「大神宮さん」
と親しく呼ばれる伊勢神宮は、正式には「神宮」といいます。

神宮には
皇室の御祖先の神と仰ぎ、私たち国民の大御祖神(おおみおやがみ)として崇敬を集める天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りする内宮(ないくう)皇大神宮(こうたいじんぐう)と、衣食住を始め産業の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)をお祀りする外宮(げくう)豊受大神宮(とようけだいじんぐう)を始め、14所の別宮(べつぐう)、43所の摂社(せっしゃ)、24所の末社(まっしゃ)、42所の所管社(しょかんしゃ)があります。これら125の宮社全てをふくめて「神宮」といいます。

11月21日、内宮へ。
内宮、皇大神宮(こうたいじんぐう)
神路山(かみじやま)、島路山(しまじやま)の麓、五十鈴川のほとりに鎮座する皇大神宮は、皇室の御祖神であり日本人の大御祖神である天照大御神をお祀りしています。
今から二千年前、皇位のしるしとして受け継がれる三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)をご神体として伊勢の地にお祀りし、国家の守護神として崇める伊勢信仰は平安末期より全国に広がりがみられました。現在でも全国の神社の本宗として特別に崇敬を集めます。

内宮おかげ参道

駐車場から「内宮おかげ参道」と名付けられた地下道を通って、
おはらい通りへ向かいます。


地下道の壁面には屏風が並べられています。


「おはらい通り(旧参宮街道)」を進みます。
宇治橋から五十鈴川に沿って800mほど石畳の通りです。切妻・入母屋・妻入り様式の町並みが軒を連ねています。
土産物店や飲食店や商家が建ち並び、歴史的建造物なども見られます。

旧慶光院客殿(現、神宮祭主職舎)


五十鈴川郵便局



レトロな雰囲気がたっぷりです。

この辺りでは、猫がのんびり・・・。




汚水管マンホールの蓋

「おかげまいり」と呼ばれる、江戸時代のお伊勢まいりをする人々が
描かれています。


中部電力株式会社の社章が入っています。

おはらい通りを通り抜けると、宇治橋(うじばし)が見えてきます。

域内地図


内宮の入口である宇治橋をわたり、玉砂利を敷き詰めた長い参道を進むと、神域。
「心のふるさと」と称される日本の原風景が広がります。

宇治橋鳥居

聖界と俗界との架け橋といわれる宇治橋は、五十鈴川に架けられた全長101.8mの純日本風木造反り橋。宇治橋の外側と内側に立つ鳥居は、外宮・内宮それぞれの旧御正殿の棟持柱(むなもちばしら)が使われています。
内宮のお参りは宇治橋の前で一礼し、緑豊かな神路山(かみじやま)、島路山(しまじやま)の四季の移ろいを感じながら宇治橋を渡ることから始まります。




モミジも少し色付き始めています。


神苑を見ながら進みます。





第二鳥居

奥の方に見えているのが神楽殿。

神楽殿
銅板葺、入母屋造の建物が、内宮神楽殿です。お神札授与所、御饌殿、神楽殿等が並んでいます。







第一鳥居を抜けてきました。


五十鈴川御手洗場



*正宮(撮影は階段の下までです)へ

*御正殿(ごしょうでん)
「唯一神明造」(ゆいいつしんめいづくり)という日本古来の建築様式を伝える御正殿。屋根は萱葺きで、10本の鰹木(かつおぎ)がのせられ、先端が水平に切られた4本の千木(ちぎ)が高くそびえています。
唯一神明造は檜の素木を用いて高床式の穀倉の形式から発展したものといわれ、現在まで脈々と受け継がれています。

*古殿地(こでんち)
御正宮(ごしょうぐう)には東西に同じ広さの敷地があり、20年に一度の式年遷宮(しきねんせんぐう)ごとに社殿が新しく造り替えられます。

お参りをすませ・・・。
外幣殿( げへいでん)
 
神明造の高床式の建物。内宮は正宮御垣の外にあります。

四至神( みやのめぐりのかみ)

内宮神域の守り神、四至とは神域の四方を意味します。社殿や御垣はなく、石畳の上に祀られます。神様をお祀りする場所ですので「二拝、二拍手、一拝」の作法でお参りくださいと。

伊勢うどん

お昼にピッタリ。

昼食を済ませおかげ横丁へ。
お蔭参り(お伊勢参り)で賑わった江戸時代末期から明治時代初期の門前町の町並みを再現しています。

おかげ横丁案内版


おかげ横丁の風景

屋根の上には偶然にも来年の干支の「猿」が。









十月桜



宇治橋から撮りました。






紅葉には少し早かったようです。

伊勢神宮公式サイト、伊勢市観光協会ホームページを参考にしました。


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元伊勢籠神社

2015-12-25 | デジカメ紀行
お伊勢さまのふるさと「 元伊勢籠神社(もといせこのじんじゃ)」

京都府宮津市にあり、有名な天橋立の北付根に南向きにあります。

籠神社の創建は奈良時代の養老三年(719年)。
伊勢神宮に奉られる天照大神、豊受大神がこの地から伊勢に移されたという故事から元伊勢と呼ばれています。

奈良時代に丹後の国の一の宮となり、平安時代の「延喜式」には名神大社となり、山陰道唯一の大社であり、最高の社格と由緒を誇っています。

真名井神社境内地であった真名井川の川辺に一旦遷宮し、その後奈良時代元正天皇の御代に、二十七代目当主海部直愛志(あまべのあたええし)が、現在の籠神社の地へと遷宮、それを契機に主祭神を籠神社海部家の祖神である彦火明命とし、相殿に豊受大神・天照大神・海神・天水分神を併せ祀り創祀されました。

<天の浮橋神話>
神代の時代、天にいたイザナギノミコト(男神)が地上の籠神社の奥宮眞名井神社にいたイザナミノミコト(女神)のもとに通うために使っていた梯子が天橋立であったというお話で、現在は男と女を結ぶ良縁成就の地として伝えられています。


境内見取り図(パンフレットより)




境内社は、恵美須彦火火出見命之社、天照大神和魂社、春日大明神社、猿田彦神社、真名井稲荷神社。

お百度石


さざれ石


手水舎


神門


神門の左右にある狛犬





神門をくぐると、正面に拝殿。その後方に本殿があります。

パンフレットより


本殿は伊勢神宮と同じ「唯一神明造り」です。柱は丸く棟持柱や心御柱があります。
社殿は高床式の素木造りで全て直線的です。

屋根は前後二方向に勾配を持つ「切妻造」で、棟と平行して入り口がある「平入り型」になっています。屋根の両端には屋根を貫いた千木(ちぎ)が天に向かって聳えています。
御本宮である籠神社の本殿の千木は天に対して水平に切る「内そぎ」となっており、千木と千木の間にある勝男木(かつおぎ)は十本(偶数)です。

神明造の本殿高欄上に、「五色の座玉(ごしきのすえたま)」という飾りがあり、五行を示す、青(緑)・黄・赤・白・黒の五色。
伊勢神宮御正殿と、籠神社のみに許されているものだそうです。元伊勢宮として、又山陰道第一の大社として昔から祀られてきた証で、神社建築史上特に貴重なものとされています。

神明造りのお社は他にもありますが、規模、様式とも伊勢神宮に近似しているお社は籠神社以外になく、籠神社と伊勢神宮が古代から深い繋がりがあったことを物語っているとのこと。

境内を出て・・・。
亀石



亀石の上にも本物の亀がいました。

籠神社から真名井神社へ。

真名井神社は飛鳥時代の初め頃まで「与謝宮(吉佐宮)」と呼ばれていました。

籠神社の奥宮 真名井神社は、別名を久志濱宮(くしはまのみや)ともいいます。
〝くし〟とは霊妙なる不思議なパワーの源を意味し、この地に神代の昔、豊受大神が天降られ、五穀と養蚕を丹波地方に伝えられた。 この丹波という地名は豊かに稔る田を豊受大神がご覧になって、「あなにえし田庭」(なんとすばらしい田の庭よ)と喜こばれた事から名付けられ、水気根源、五穀豊穣の大神として崇敬が厚い。
養老三年(719年)以前の本宮がこの眞名井神社で、本殿の裏に縄文晩(2,500年前)からそのままの形を残す磐座(いわくら、社殿が造られる以前の斎場) があり、豊受大神、天照大神を始めとする神々が祀られています。人々の純真な祈りが捧げられ、あたりは清らかな空気に包まれた聖地になっています。





  

真名井神社境内案内図



鳥居の両脇には狛犬ならぬ、狛龍?。奥には本殿が見えています。

狛龍




本殿

真名井神社の本殿は一間社神明造で、屋根は桧皮葺です。真名井神社の千木は天に対して垂直に切る「外そぎ」となっており、
勝男木は五本(奇数)となっています。
本殿は参道から直接磐座が見えないように建っており、本殿裏手には神様が磐座から社にお移りになるときに使われる
神様用の出入り口があります。


磐座 (いわくら)は本殿の後ろにあります。
約2,500年前からそのままの形で祀られている古代の祭祀場。特に気が強く集まる場所。

真名井原波せき地蔵堂

説明板


真名井の水

天の眞名井の水というご霊水が湧き出ています。
この霊水は、三代目祖神(そじん)天村雲命(あめのむらくものみこと)が高天の原(天上の神々の住む世界)にまいのぼり、琥珀(こはく)の鉢に天上のお水を持ち帰って、やわした(合わせた)と伝えられるご霊水です。
霊験あらたかなこの眞名井の水を汲みに、近隣府県はもとより全国各地から訪れる人が絶えず、
眞名井神社は知る人ぞ知る日本最古の
「パワースポット」となっています。

おみくじ

扇子、傘とも開くと・・・。


汚水管マンホールの蓋

日本三景の一つ、天橋立のデザイン。

仕切り弁ハンドホールの蓋

天橋立と文殊の智恵の輪。

京都府宮津市の仕切弁

中央に描かれてる宮津市章はみやづの頭文字「ミ」のMを中心に円の先端は「ヤ」全体を通して「ツ」を表し、Mを天橋立に見た波状で観光と海港をイメージしたものです 。

籠神社公式ホームページ、パンフレット等を参考にしました。

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酬恩庵 一休寺

2015-12-12 | デジカメ紀行
とんちの一休さんのお寺として知られている酬恩庵一休寺。

当時の元の名は妙勝寺。鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始めです。
元弘の戦火にかかり復興せずにいたものを、六代の法孫に当たる一休禅師が康正年中(1455~6年)、宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名しました。
禅師はここで後半の生涯を送り、八十一歳で大徳寺住職となった時もこの寺から通われ、文明13年(1481年)11月21日八十八歳で病没。
一休寺で静かに眠っています。
禅師が晩年を過ごされたことにより「一休寺」の通称が知られるに至ったそうです。

紅葉を求めて、行ってきました。

駐車場に車を停め、一休寺へ。
顔ハメ看板

今何かと人気があるようですね。

地図(パンフレットより)




塀を抜け、参道へ。


左手に参道が続きます。

一休禅師墨蹟碑

「諸悪莫作」「衆善奉行」
一休和尚筆七仏通戒偈「悪いことはするな、よいことをせよ」の意。

手水舎


総門は右手になります。





総門とは禅宗寺院における表門のことです。 総門前には金春禅竹による屋敷跡があったと伝えられています。京都府指定文化財。


石畳の参道が続きます。







拝観受付を済ませ・・・。

浴室

慶安3年、加賀藩主前田利常により、方丈等再建時に修復されたもの。(重要文化財に指定。)

浴室の向こうに見えているのは

絵馬奉納所



アニメでおなじみの顔が見られます。

三本杉

元は一休禅師、蓮如上人、蜷川新衛門の三人によるお手植えの杉として500年の緑を湛えていましたが、 寿命となり今は昭和40年に植えられた
2代目です。

一休禅師墓

菊花のすかしぼりから中を眺めてみると、禅院式枯山水の庭園を
見ることができます。

禅師は文明13年(1481)11月21日に88歳で示寂されたがこれに先立って文明7年(1475)ここに寿塔を立て慈楊塔と名付けられた。
前面の庭は禅院式枯山水の様式。 現在墓所は宮内庁が御陵墓として管理をされており、門扉に菊花の紋があります。

中門(方丈への門、京都府指定文化財に指定)をくぐり、石段を下ると庫裏の入口です。

庫裏

その前に植えられているのは枝のたれさがった姿がめずらしい
「しだれ松」です。
樹齢は約400年になります。

サザンカ


唐門

中門を入って右手にあり、欄間には獅子と鳳の彫刻がほどこされています。この門は、方丈へ通じる玄関になっています。1650年(慶安三年)の方丈再建の時に新築されたもので、重要文化財に指定されています。


庫裏は僧侶の居住の場であり時食を調える台所です。この庫裏は1650年(慶安3年)方丈新築時に同じように前田家の手で改築されたもので、 江戸初期の建築様式をそのまま残しています。重要文化財に指定されています。

かまど


排煙


正面には囲炉裏


屏風絵表面


裏面


方丈は住職の接客や仏事を行うところです。江戸時代慶安3年(1650)に加賀三代目藩主前田利常公の寄進により再建されました。同候は元和元年(1615)大阪夏の陣で大阪に向かう途中、 当寺に参詣、一休禅師への崇敬の念を起こすとともに寺の荒廃を嘆き、酬恩庵再興に乗り出しました。
重要文化財に指定。

庭は撮影出来るんですが、方丈内の部屋は撮影禁止です。
  方丈中央の内陣を昭堂と称しここに一休禅師の木像を安置してあります。
  パンフレットより
  この木像は一休禅師逝去の年に高弟墨済禅師に命じて作らせたもので、自身の頭髪と髭を植えたとされています。

  襖絵は狩野探幽斎守信の49歳の時の筆によるもので、ショウショウ八景、林和靖、陶淵明が描かれています。
  今現在あるのは複製画で、本物は寺の宝物殿に収蔵されています。

  一休禅師が81才で大徳寺の住職になった際、ここから紫野まで乗って通ったという輿が置かれています。

南庭

サツキの刈込があり西部に大きい蘇鉄が 植えられている典型的な江戸時代の禅苑庭園。刈込から軒下までは白砂が敷き詰められています。

後ろに見えているのは、一休禅師の墓(宗純王廟)と虎丘庵です。
虎丘庵はもと、京都東山の麓にあったものを一休禅師が74歳の時、応仁の乱のためこちらに移築したものです。
茶室造りの静寂穏雅な建物で屋根は檜皮葺。 周囲庭園(名勝指定)は禅院枯山水。作者は茶道の祖といわれる村田珠光と伝えられています。

東庭は大小の石が立ちまた横になる様を十六羅漢になぞらえたとされています。

北庭

禅院枯山水としての蓬莱庭園です。東北隅に約2メートルの巨石を配し、
観音石として用いられています。
これに他の集団石組で枯滝落水の様子が表現されています。
石塔や石灯籠、手水鉢なども見られました。

禅院枯山水の蓬莱庭園とは?。
蓬莱山の滝から水が流れ落ち海へ流れるさまを、水を使わないで石組みで表現した禅宗寺院独特の庭のことです。

これら三方からなる庭園は江戸初期のものとしては第一流であり当代庭園の白眉と言われ、国の名勝に指定されています。
この作庭は石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の3名の合作とされています。

東司(御手洗い)




庫裏の手前の建物です。重要文化財に指定されています。
重要文化財の御手洗いは、全国でも数少なく、 1650年(慶安三年)、
方丈再建の時に新築されたものです。
昔の状態そのままに残っている御手洗いは少なく、大変珍しい
ものだそうです。





本堂への門


振りかえると・・・。


本堂

仏殿ともいい内部には本尊釈迦如来坐像、文殊普賢菩薩像が
安置されています。
現在みられる本堂は、室町幕府6代将軍足利義教により建立されました。
当本堂は山城・大和地方の唐様建築中で最も古い建造物です。
重要文化財に指定されています。
1429年から1441年の永享年間に 室町幕府六代目将軍足利義教公の
帰依により建立されました。




一休像


開山堂

本堂を奥に入ると、開山堂がたっています
このあたりは妙勝寺の旧跡にあたるところです。大正時代に改築。
様式は昔のものを残しています。
堂内部には妙勝寺を創建した大応国師(南浦紹明)の木像が安置されています。
これは一休禅師が荒廃をした妙勝寺を再建し、63歳の時につくられた
ものです。
25才の時に、中国の唐に渡って禅を学び、ここ「妙勝寺」でその教えを
弟子たちに伝えていました。
大応国師の弟子大燈国師が大徳寺を作った人です。
晩年はここ妙勝寺で暮らしたそうです。

少年一休像

少年時代の一休さん。手に箒をもち掃除をしています。
現在の世の中の汚れもこの箒で一掃して明るい世の中にしたいとの願いがこめられているようです。

少し進むと放生池。


四角い池には、鴨が泳いでいました。


何やら青い動くものが見えたので・・・。




「カワセミ」でした。ズームして撮りました。

「このはしわたるな」

お約束。真ん中を通りました。

木々の間を出口の方へ歩きます。

宇宙人っぽいのやら、自画像のようなものまで色々なお地蔵様が
並んでいます。





「当たり前のことが当たり前にできるように努力したい」



一休さん

背中にはネズミが。

鐘楼

慶安3年、加賀藩主前田利常により、方丈等再建時に修復されたもの。重要文化財に指定。

待月軒、江庵入り口


あまりの綺麗さに、チョット身を乗り出して。


開山忌 (11/21)
11/21は一休禅師のご命日です。禅師の遺徳をしのんで法要が行われます。 酬恩庵の紅葉は例年、京都市内より一週間ほど早くこの日にあわせたかのように境内が真っ赤に染まるんだとか・・・。

22日に訪れたんですが、本当に素敵でした。

汚水管マンホール蓋

市の花ヒラドツツジと、中央に市章がデザインされています。
下部に「きょうたなべ」「おすい」と書いてあります。
市章は、京田辺の田の文字をかたどり、丸い円は市民の融和を意味し、横に突き出た部分は
無限にのびゆく京田辺市を表現したもの。


一休寺公式ホームページ、パンフレットを参考にしました。

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橿原神宮

2015-12-06 | デジカメ紀行
橿原神宮
日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。
天照大神(あまてらすおおかみ)の血を引く神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと、後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から東に向かい、苦難を乗り越え、畝傍山(うねびやま)の東南の麓に橿原宮を創建されました。

第一代天皇として即位されたのは、今からおよそ2,600余年前、紀元元年です。
日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、日本の原点ともいえます。
第一代神武天皇と、皇后の媛たたら五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)をお祀りしています。

神武天皇は、天照大神の天孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)より四代目に当たり、正式には「神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)」。皇后の媛たたら五十鈴媛命は、大物主命の御娘に当たる方です。

天照大神が天孫、瓊瓊杵尊に言われた「豊葦原の瑞穂(とよあしはらのみずほ)国はわが子孫の君たるべき国なり」との言葉通り、神武天皇が国内を統一、畝傍山の東南、橿原の地に皇居を造り、即位の礼が行われました。
明治時代に入り、天皇の御聖徳を永遠に尊び敬いたいという思いから、この地に神宮創建をという請願が民間有志より出されました。明治天皇がこれを深くほめたたえ、元京都御所の賢所(かしこどころ)と神嘉殿を下げ渡され、明治23年4月2日、官幣大社、橿原神宮となりました。

「本日から11月30日まで御創健125年以来、神職か選ばれた者しか入れない橿原神宮。
内院に後門からの御本殿参拝と非公開の勅使館並びに文華殿、貴賓館の三庭園が特別に公開となります。」

勅使館、文華殿の庭園は知る人ぞ知る隠れた紅葉の名所と言われているそうです。

表参道(おもてさんどう)一の鳥居

表参道広場から西に向かって、大参道が真っすぐ延びています。

宮川にかかる神橋を渡ると二の鳥居があります。


南手水舎

南神門前の広場にあります。ここで手を洗い、
口を濯ぎ、心身を清めます。


手水を済ませ、南神門の石段を上がり、神域に入ります。

南神門

南神門は素木建の八脚門で屋根は切妻造の銅板葺です。



神門をくぐると・・・。

外拝殿(げはいでん)

背後には畝傍山が控えています。


外拝殿
両脇に長い廻廊を連ねた入母屋造りの外拝殿は、昭和14年に完成した建物で「昭和の神社建築の粋ともいうべき豪壮さがうかがわれます」と。
外拝殿の石階段を上ると、正面に内拝殿が見え、その屋根越しに幣殿の千木、鰹木が金色に輝いてそびえています。

絵馬

外拝殿の外側には絵馬が立て掛けられています。今頃は、来年の干支「申」に代わっていることでしょうね。

紅葉


サザンカ

外拝殿に入ると

回廊には、つり灯篭、塀には「神武天皇御一代記御絵巻」①~⑳までが展示されています。




釣燈篭には、「 実付き抱き柏」のおしるしが・・・。

神武天皇御一代記御絵巻

①は


神職さんのお話を聞きながら、内拝殿、本殿、幣殿と廻ります。
まず、「神域」に入る前に、お祓いをしてもらいます。身が引き締まります。

パンフレットより




内拝殿(ないはいでん)
内拝殿は紀元祭その他重要な祭典に使用され、また特別参拝の拝殿となります。

本殿、幣殿(ほんでん、へいでん)
橿原神宮の社殿は、創建の御由緒から、本殿は専ら御祭神の御鎮座される御殿とされ、幣殿では祭典の諸儀が行われます。
幣殿は、屋根に千木、棟の上には鰹木を置くなどの様式です。

内拝殿を・・・

内拝殿の屋根越しに幣殿の千木、鰹木が見えます。


#内拝殿、幣殿、本殿は一直線に並び、本殿の方へとだんだん高くなっています。

#伊東忠太が内拝殿、幣殿の設計を担当。他に、明治神宮等の設計もされていて、それぞれの、良い所が取り入れられているんだそうです。

#「菊の御紋が、TDLのかくれミッキーのように、色々な所に見られますよ」とのこと。リラックスムードです。
釘隠しや、扉の・・・等キョロキョロしながら進みます。


#門扉に付けられている金具等は、取り外され、磨いてまたもとへもどされるんだとか。再利用です。

#国中から樫の木などの献木が奉納されましたが、国内だけでは集まらず、台湾からも輸入されたそうです。


内陣を固める脇障子の上には、漆塗りの欄間があります。欄間には、二重の「×」がデザインされ、バツは罰に通じるとも言われ一般に使われることはありません。お寺や神社では結界や禁止を表し、通常の領域とは違う聖域を表しているそうです。


本殿の裏の方へ回り、手を合わせ、3、40分で、出てきました。
貴重な体験でした。



内拝殿と外拝殿との間には、周囲を廻廊に囲まれた外院斎庭があります。広さは3200m²(約970坪)あり、紀元祭には全国から数千人の参列者で埋めつくされるんだそうです。


こんなところにも菊のデザイン。

檜皮葺


招霊(おがたま)の木の実(別名オガタマ、トキワコブシ)

拾ってきました。
形状から、神楽鈴が考え出されたと言われているそうです。


外拝殿を出て、お庭の拝観です。一か所目、勅使館(ちょくしかん)まで、案内していただきました。

勅使館への入り口です。


勅使参向の際に参籠、潔斎する建物で、広間、上壇の間、勅使の間、随員控室などがあります。
天皇陛下からの御幣物の実物を展示。

勅使館

屋根は入母屋造瓦葺で、大正6年の建造です。




庭園は、白砂や築山、池、橋等で構成され、
山水や名所を縮景した宸殿造です。

控室、勅使の間、上壇の間へといくにつれ、床の高さが上がっていきます。

御幣物が展示されていました。

御幣物(ごへいもつ)柳筥(やないぼこ)御祭文(ごさいぶん)

柳筥

絹の織物が入っています。


中央には菊の御紋が。


天井に取り付けられた、ペンダント類です。





建物を出て趣のある板塀に沿って前庭へ回ります。



向かい側から・・・



続いて二か所目、貴賓館(きひんかん)へ。
御皇族や各大臣の御休憩所として、昭和14年建造されました。


広間、上壇の間、展望室、応接室などからなり、入母屋造銅板葺、
車寄は唐破風造銅板葺です。






「が、いままで一度も使われていません」とのこと。


最後に三か所目、文華殿(ぶんかでん)へ。

昭和42年に、織田家旧柳本藩邸の表向御殿を移築、復元したもの。
江戸時代末期の天保15年に建立された屋形の一部分で、1万石藩邸の遺構として珍しい存在だそうです。昭和42年重要文化財に指定されました。

玄関


前庭


レトロな消火栓


入り口近くの紅葉です。


久米舞の衣装が展示されています。

昭和祭(しょうわさい)4月29日
新嘗祭(にいなめさい、農業祭、農産物品評会)11月23日
の、年二回、4人の舞人による久米舞が奏納されます。
久米舞:神武天皇が御東遷のみぎり宇陀において戦勝の宴でお詠みになった御製に、久米部の兵士らが合わせて舞ったのが起源だそうです。

下段

向かって右から、三乃間、二乃間、一乃間と続き、一乃間の後方に書院があります。
それぞれの部屋のあいだの欄間には、二重の「×」がデザインされています。

大書院(だいしょいん)

表座敷で殿様が家臣たちと対面したところです。格式高い造りで、下段の間より中段、上段と奥に入るにつれ床が高くなっています。


上段と中段、下段の室境にある極彩色鮮やかな彫刻の欄間に江戸時代の様式が遺されています。







「いわれの庭」と言われる庭園





古庭園の復元や作庭に辣腕を発揮した日本を代表する造園史家、森蘊(もりおさむ)の作。

記念に頂きました。

左下の包みには、檜皮葺が入っています。
「永きに亘り、御祭神の二柱の御神座をお守りしてまいりました。御屋根の尊い檜皮古材を皆様の家の守りとして、御家庭の安寧と御家運の隆昌を大前で、祈願しましたものを、慈にお頒け致します。」と。

橿原神宮御本殿特別参拝パンフレット、公式HPを参考にしました。

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