【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

建仁寺、両足院、半夏生

2015-06-28 | デジカメ紀行
建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号し、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西です。明和2年(1765年)の建立。


西門から入ります。

法堂が見えてきました。


法堂(はっとう)の天井画「双龍図」は、平成14年(2002)に建仁寺創建800年を記念して、日本画家の小泉淳作画伯が約2年の歳月をかけて取り組んだ壮大な作品。畳108畳にも及ぶ水墨画の迫力に圧倒されます。

本坊から、方丈、法堂へと続けて拝観できますが、前回訪れていたので、今回は両足院へ・・・。


両足院(りょうそくいん)は建仁寺の第35世龍山徳見(りゅうざんとっけん)が開山しました。臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。
本尊の木造阿弥陀如来立像は、鞍馬毘沙門天の胎内仏だったとされています。
戦国時代 、 比叡山が織田信長によって焼き討ちにあった際、鞍馬の僧が尊像の安全を危惧し、比喜多養清(室町将軍の茶家、筑前黒田家京都御用達)のところへ、尊像を疎開させたものです。

黒田家必勝の御守護関が原の会戦に黒田長政が、関東方として出陣する際、この尊像を内兜に収めて奮戦し、勝利を収めたといわれています。そのあと尊像は代々黒田家で信仰されましたが、維新の変革で明治10年ごろ寄進され、毘沙門天堂に祀られました。
龍山徳見が元から連れ帰った中国の林浄因が、日本で初めて餡入りの饅頭を作ったと伝えられています。「おまんじゅうの始祖」の寺でもあり、今も「饅頭屋町」という町名が烏丸通三条下ルの辺りに残っているそうです。

庭園は、白砂と苔に青松が美しい唐門前庭。枯山水庭園の方丈前庭。そして京都府指定名勝庭園の池泉廻遊式庭園からなっています。

前庭



丸窓と唐門前庭の立砂が見えます。左手が方丈前庭です。

方丈の東側にある方丈前庭、枯山水庭園。

書院前の庭園入口の中門。その向こうに茶室が見えます。

両足院では庭園の池の周囲に約800株の、ハンゲショウが植えられています。ハンゲショウはドクダミ科の多年草。

  ←クリックで拡大します。

夏至を過ぎた頃に長さ10~15cmほどの穂状花序を葉の付けねにつけ、花のすぐ下に位置する葉の表面が白く変化し花弁の役目を果たします。
化粧のおしろいにちなんで名前がついたとされています。葉の片面(表面)だけが白くなることから古くはカタシログサ(片白草)とも呼ばれています。
また、花期が終わると葉の色はまた緑色になります。「葉は上から3枚目までしか白くならないんですよ。」とも。




池の北側には織田信長の弟織田有楽斎好みの如庵の写し「水月亭」。外から中が覗けるように、にじり口があけてあります。「腰張りに中国の暦が貼ってあります。」と言われたので遠くから中を撮ってみました。

なんとなく、雰囲気だけでも・・・。

その右には六帖席の「臨池亭」が並んでいます。

半夏生の清々しい姿に癒され、毘沙門天堂へ。

本尊の毘沙門さんは、脇仏に閻魔大王、不動明王をおまつりしています。毘沙門天堂の狛犬は、寅。香炉や灯篭にも、寅が浮き彫りされていることから、寅年生まれの方やご縁のある方がよくお参りされるそうです。


  

建仁寺境内を少しぶらぶら・・・。
茶碑

茶苑

栄西禅師がもたらした茶の將来800年(平成3年)を記念して、植樹栽培した覆い下茶園です。
毎年5月10日頃、初摘みした茶葉を石臼で挽いた抹茶を、御開山歳忌(6月5日)にお供えし、
ご遺徳茶恩に感謝の誠をささげているそうです。
建仁寺の境内を歩いていると、道の横にも茶の樹をみかけます。

三門が見えてきました。
三門

「望闕楼」(ぼうけつろう)の別称がある。静岡県浜松市(旧浜名郡雄踏町)の安寧寺から大正12年(1923年)に移築したもので、江戸時代末期の建築です。
空門・無相門・無作門の三解脱門。「御所を望む楼閣」という意味で「望闕楼」と名づけられました。楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者と十六羅漢が祀られています。

放生池から三門を・・・。

後ろは法堂です。




放生池に咲いています。

「桔梗」に惹かれて・・・。
禅居庵

建仁寺第23世、清拙正澄(せいせつしょうちょう)(1274-1339年)が晩年退隠された塔頭寺院。
小笠原貞宗が元弘年中に創建。

桔梗




境内で・・・。

説明文は、案内の方々のお話、ウィキペディア、ホームページを参考にしました。






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下鴨神社「式年遷宮」Part1

2015-06-21 | デジカメ紀行
下鴨神社
正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」とよびます。
京都は鴨川を中心に町づくりがなされており、鴨川の下流にまつられているお社というところから「下鴨(しもがも)さん」とか「下鴨神社(しもがも)」と親しくよばれています。
東西の両本殿はともに国宝に指定。
祭神 : 西殿は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)。東殿は玉依媛命 (たまよりひめのみこと)。

定められた年限に社殿を新しくし、神様にお遷(うつ)りいただく祭儀「式年遷宮」は、21年ごとに行われており、平成27年に第34回目となる正遷宮が斎行されます。本来の式年遷宮は、ご神体を除くすべての建物を新しくするための宮移しのことを指しますが、下鴨神社はその社殿のほとんどが国宝や重要文化財に指定されているため、すべてを新しくすることはできないので、屋根の檜皮葺の葺き替えや建具・金具の補修、漆喰壁の塗り替えなど、大修理を行って傷んだところを直し、装いを新たにして祭儀を行うこととしています。

今回の大修理は、下鴨神社では平成19年から始まり、節目で神事やお祭りが行われてきました。平成27年4月に修理が完成した本殿に神様がお遷りになる正遷宮が斎行されました。

下鴨神社へは何度となく訪れているんですが、今回「特別公開」に出かけてきました。

平成24年6月、式年遷宮にかかわる
 「仮殿石拾神事(かりでんいしひろいしんじ)」:(本殿の御垣内(みかきうち)を敷き詰める石を拾って磐座(いわくら)を洗い清め、さらに神威を増していただくことを願い乞う神事)に始まり、
 「仮殿地鎮祭(かりでんじちんさい)」

 「仮殿木造始祭( かりでんこづくりはじめさい)」

 「仮殿解除神事(かりでんげじょしんじ)」

 「仮遷宮(かりせんぐう)」

 「新殿獅子狛御飾の儀(しんでんししこまおかざりのぎ)」:平成27年3月19日(木)普段は御殿の奥に収められている獅子狛が塗りなおされて新しく本殿に据えられます。

下鴨神社の情報誌「MIKAGE」の表紙の写真です。
見にくいですが、向かって左側の獅子狛は銀と青色、右側は金と緑です。


「お白石持(しろいしもち)」:「お白石(しろいし)」は神社本殿の御垣内(みかきうち)に敷き詰められている白く清らかな石のことで、お祓いを済ませたこの白石を本殿御垣内に戻す神事です。 白石を積み上げた糺の森の石置場から、白布に包んでご本殿前にお納めします。


鳥居の前で手続きをして


輪橋(反り橋)辺りです。この橋の向こう側にあるみたらしの池で石を清め


ここに納めます。

「新殿解除(しんでんげじょ)神事・御服御神寳讀合の儀」

「御遷座(ごぜんざ)の儀」『正遷宮』

「御奉幣(ごほうへい)の儀・饗膳の儀」
天皇陛下からの五色の絹などの供え物を捧げる奉幣(ほうべい)祭が営まれ、 天皇陛下からの供物を神様に捧げる「御奉幣(ほうべい)の儀」があり、直会(なおらい)の「饗膳(きょうぜん)の儀」で締めくくられます。


楼門

楼門の前に・・・。


「献茶祭」
平成27年4月30日(木)奉祝行事として表千家による「献茶祭」が「舞殿」等で行われました。
舞殿は下鴨神社境内の中央にあり、葵祭の時天皇の勅使が御祭文を奏上され東游が奉納される場所です。(重要文化財)


左後方が楼門、右後方は神服殿(しんぷくでん)。








中門のほうへ運ばれます。


中門

「神殿昇殿参拝・一番祈祷」
新しい神殿の普段は神主しか入れない聖域「本殿前の弊殿」でお参りすることができます。
また、大炊殿(重文)、三井神社(重文)なども公開されました。

本殿は撮影禁止です。

三井神社
御本宮の摂社で、媛神様とそのご両親の神がまつられる社が東西に並んでいます。

右、伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)加茂建角身命の妻神。
中央、加茂建角身命。
左、玉依媛命 加茂建角身命と伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)のお子神。

南北に末社が並んでいます。

手前から、白髭社。小杜社。諏訪社。

屋根の前の方が長くなっているのは、お参りする人達が雨に濡れないように配慮されているそうです。

大炊殿(おおいどの)
神饌の煮炊き、調理を行う台所です。



写真奥は土間になっており、おくどさんや水桶があり、手前は中の間で台所になっており、
流し台や用具類がおかれています。




奥の間は、調理した御神料を盛り付けたり、御神前へお供えする順に配膳棚に並べておく所です。

 
神社建築の中このような社殿が現存するのは非常にまれで、貴重な社殿なんだそうです。

葵の庭
大炊殿の周りの庭で、双葉葵が自生しており、御薬酒用の薬草木も栽培されるようになり、なかでもカリンの古木が有名になり「カリンの庭」とも呼ばれています。






境内で見られた花たち。





お詣りを終えて・・・。

糺の森方面です。

さるや休憩所ででチョットひといき。
暖簾

申餅と黒豆茶




説明は京都市観光協会ホームページ、パンフを参考にしました。



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近江神宮「漏刻祭」

2015-06-16 | デジカメ紀行
近江神宮は第38代天智天皇をお祀りし、琵琶湖西岸の天智天皇の古都・近江大津宮跡に鎮座、またの名を、 天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ)と言います。
御祭神は 天智天皇(てんじてんのう)。
御神徳 時の祖神 開運・導きの大神、文化・学芸・産業の守護神です。

境内地は約6万坪。社殿は近江造りあるいは昭和造りと呼ばれ、山麓の斜面に本殿・内外拝殿を回廊が取り囲み、近代神社建築の代表的なものとして、平成10年より国の登録文化財に指定されています。

訪れた6月10日は「時の記念日」。天智天皇の10年(671年)4月25日、漏刻と鐘鼓によって初めて時を知らせたという『日本書紀』の記事にもとづき、その日を太陽暦に換算して定められました。第1回時の記念日は大正9年(1920年)。


階段上に見えるのが「楼門」です。

楼門をくぐると目に入ってきます。

外拝殿



左右には狛犬が鎮座しています。
  

外拝殿から内拝殿を


外拝殿から振り返ってみると

内側から見た楼門です。

6月10日、時計の進歩を神前に報告する「漏刻祭」が開かれました。


内拝殿前の広場に、舞台(緑色の敷物)や奉納される「時計」(松の前あたりに)がセッティングされています。内拝殿後方に、ほんの少し屋根が見えているのが本殿です。


太鼓の音が響き、宮司さんや王朝装束をまとった時計を管理したとされる「漏刻博士」や、「女官」姿の女性達が厳かに入ってこられます。


内拝殿に続く内院回廊に座られたところ

宮司さんの祝詞、お祓いなどに続き・・・。

時計奉納



漏刻博士や、女官姿女性達が、国内時計メーカーの新作の腕時計や掛け時計の7種を神前に奉納されます。

舞楽奉納







女人舞楽・原笙会による舞楽が行われました。
4人舞「柳花苑」だそうです。

「時」に感謝し、時計業界の発展を願って、関係者の方たちの玉ぐし奉典などがあり、漏刻祭が終了しました。

境内には時計館宝物館(世界の時計約2300点を集めた時計をテーマとする博物館)、漏刻・日時計なども設けられています。

漏刻

日本最古の時計である漏刻の復元模型
原理は、水の流れ方が一定であることを利用したもので、四段の水槽の上段から順々に水が落ちていき、最下段の水槽に水が入ると、その水の量が増すに従ってそこに浮かべてある矢が浮き上がり、矢に付けた目盛を読むことにより時刻を知るようにしたものだそうです。水槽を四段にすることにより、水槽の中の水量によって水圧が変わり流量も変わるのを防ぐことができます。

古代火時計

中国で使われていた火時計の復元模型



漏刻祭の始まる前に撮影

漏刻祭が終わって撮影

銅球の数が減っていて、時間のたったのがわかります。


日時計




自動車清祓所(旧大津裁判所本館車寄)

明治23年(1890年)の建築で、昭和46年(1971年)に移築されました。

手水舎


神楽殿


栖松遥拝殿


小倉百人一首の巻頭の天智天皇の
「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」は広く親しまれ、歌かるたの祖神としても仰がれています。

かるた祭「かるた開きの儀」も行われています。近年は百人一首競技かるたが漫画やドラマ「ちはやふる」でも取り上げられるなど、正月の名人位クイーン位決定戦はよく知られています。境内には奉納された板かるたの額も展示されています。

境内で見られた花たち





説明はウィキペディア、近江神宮ホームページを参考にしました。

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興福寺再建

2015-06-01 | デジカメ紀行
興福寺(こうふくじ)は、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院で、南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇りました。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。

興福寺の本堂にあたる重要な建物「中金堂(ちゅうこんどう)」。これまで7度焼失してきましたが、2018年の落慶を目指して再建中です。

そんな工事現場が一般公開される「興福寺 特別公開2015 中金堂再建現場」へ、4月4日、行ってきました。

あいにくの雨模様でしたが、多くの方が来られてました。

受付を済ませ、「中金堂」に関する資料の展示コーナーへ。(説明は、興福寺特別公開2015 中金堂再建現場Facebook参考)

工事現場の1階部分は撮影禁止ですが、それ以外は撮影できます。

20分の1サイズの中金堂模型

内部構造が一目でわかります。

三手先組物

実物大の「組物」の模型。

鴟尾レプリカ

こちらは瓦ですが、上棟した鴟尾は青銅だそうです。2分の1サイズ。


その他
 バーチャルリアリティゴーグルで360度見回してみて下さいと・・・。完成後の中金堂を疑似体験できます。「おー」って感じでした。
 中金堂再建の歩みとして、 今は見ることできない奈良時代の基壇や柱を据付ける写真も展示されていました。

槍鉋(やりがんな)の実演



古代の大工道具である槍鉋を使用しており、その槍鉋の職人技を目の前で見ることができます。
削り屑を持って帰れるように置かれていました。

いよいよ再建現場へ。

先ず3階部分に上がってきました。

瓦屋根を目線レベルで見ることができます。


頭上にはクレーンが取り付けられています。


瓦は、発掘調査により出土した創建当初の瓦を基に製作されました。

軒丸瓦は線鋸歯文縁複弁蓮花文、軒平瓦は下方に鋸歯文を入れた均整唐草文です。
中金堂の屋根に飾られている鬼瓦。北円堂付近で出土した奈良時代の鬼瓦をもとに復元したものです。 その出土した鬼瓦は、顔面左上半分と右目周辺が残っており、 現在 国宝館に展示されているそうです。


白い幕で覆われているのが「鴟尾(しび)」です。



魔除けや防火の願いを込めて大棟の両端に取り付けられます。高さ2.06m、重さは1.1t。全体に金箔が施されています。

瓦屋根の真ん中には、作業用の板が敷かれていました。


横から

2箇所に「撮影ポイント」という踊り場のようなスペースが設けられていて、外の景色が撮影できます。
こういう目線で見られるは最初で最後かも。


五重塔(国宝)は天平2年(730年)、光明皇后の発願で創建された。現存の塔は応永33年(1426年)頃の再建。高さ50.1メートル、木造の塔としては東寺五重塔に次ぎ、日本で2番目に高いそうです。
東金堂(国宝)は神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建されました。応永22年(1415年)の再建。

若草山方面


南円堂(重文)

弘仁4年(813年)、藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂追善のため創建した八角堂。現在の建物は寛政元年(1789年)の再建。
西国三十三所第9番札所です。

北円堂(国宝)

養老5年(721年)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇、元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させたもの。現在の建物は承元2年(1208年)頃の再建で、興福寺に現存している建物の中では最も古い建物だそう。

続いて2階部分へ降りてきました。

大屋根の下側の「裳階(もこし)」と呼ばれる屋根の高さです。

5m弱の深い軒を支えるため、木のパーツを3段階に組んで支える「三手先組物」という形です。朱色が鮮やか。軒をより広く出すことで、下に回廊のようなスペースが設けられたり、雨風も避けられ建物が長持ちするようになるんだそうです。





瓦を葺く前で、瓦や道具類が、きちんと並べられています。


「整理整頓」「安全第一」

工事進行中です。

1階へ下りてきました。

仏様がお入りになる1階部分は撮影禁止。等身大の仏さまのイラストが描かれたタペストリー(?)が、掛けられていました。

見学を終えて出てくると仏生会(花祭り)の法要が、南円堂前庭で営まれていました。

仏教を開いた釈迦の誕生日を祝う「仏生会(ぶっしょうえ)」。釈迦の誕生時は空から甘露の雨が降ったと伝えられ、法要では釈迦像に甘茶を供養します。
僧侶ら10人が南円堂前庭で読経。ツバキやキク、ヒバで飾られた花御堂の中に置かれた「釈迦誕生仏」に僧侶が甘茶を注ぎます。






私も手を合わせ、甘茶を注ぎました。また、甘茶も頂いてきました。

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