【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

尼崎散歩、世界の貯金箱博物館~

2023-12-25 | デジカメ紀行
=世界の貯金箱博物館=
貯金箱には、それらが作られた時代背景が色濃く反映されており、貯金箱を通して時代の変遷を知ることができます。
昭和40年中頃から、貯蓄と人々の暮らしの関わりを示す貴重な資料として「貯金箱」にスポットをあて、美術商や骨董商などから随時収集を増やしました。

尼崎信用金庫としての収集、取引先から家にあったものや旅先でのお土産、当金庫の役職員が旅行や視察の都度見つけたものなど、皆さんの善意で貯金箱が集まりました。
コレクションが増えるにつれ生活文化の資料として、美術品や、骨董品として鑑賞に値することがわかりました。

尼崎にひとつの“文化の器”を作るため、「尼信記念館」(尼崎信用金庫が大正10(1921)年に創業した当時の本店)を改修し、昭和59(1984)年4月に「昔の貯金箱博物館」として、貯金箱約600点収蔵展示、一般に公開。

収蔵する貯金箱が7,000点を超えたことから、現在の場所(2代目本店)に移転し、名称も「世界の貯金箱博物館」と改称、リニューアルオープンしました。

12月1日訪れました。

館に入ると目に入ってくるのは・・・。

「クリスマス」の貯金箱



「眠っているサンタクロース」はめずらしいそうです。






編み物の靴下の貯金箱がツリーに。


貯金箱のルーツというと、アジアでは今から2100年前、前漢時代のもので、中国の雲南省、滇王(てんおう)一族の墓から出土した「貯貝器(ちょばいき)」だろうと考えられています。


貯金箱のうつりかわり


何でできてるの?


最も古いものは土で、その後、文明の発達とともに焼物、青銅、鉄、金、銀、銅、その他の金属が使われます。
木や紙も用いられ、アジアでは竹も。
その他、皮、ガラス、石膏、ゴム、コルク、珍しいものではヤシの実やその他の果実、布、毛糸、などもあります。
最近はもっぱらプラスチック類全盛の感があります。

当時は「子安貝(こやすがい)」がお金として使われていました。
今も財貨に関する漢字には「貝」という字がいています。

ヨーロッパでは、貴金属の小片などをいれてもらうために教会に置かれた「献金箱」が貯金箱のルーツ。
日本では、縄文時代のカメが元祖・貯金箱。
中世ヨーロッパに、鍵付き貯金箱が出現。
花のお江戸は、千両箱。
明治時代、やきものの貯金箱が全盛。

日本で、今のような公共的で国民大衆を対象とした金融のしくみができたのは、明治になり欧米の近代的な制度がとり入れられてからです。
明治時代に入り、銀行制度や郵便貯金制度がととのい、国民一般から受け入れられたお金は、金融機関を通して、いろいろな産業の発達のために使われました。
開国後の富国強兵や産業振興のため、勤倹節約の思想が高まるとともに、貯金箱も江戸時代の壺や銭箱、銭筒に代わって、一般の人々を対象としたものがたくさんあらわれるようになりました。

明治初期の貯金箱は一般に「貯金玉(ちょきんだま)」と呼ばれていました。これは、持っているとどんな願いごともかなう"如意の玉(にょいのたま)"つまり「宝珠(ほうじゅ)」を形どっています。大きな目的のために小銭を少しずつ貯める器として、これを選んだ先人の知恵だそう。


(公式サイトより)


アメリカでは、カラクリ貯金箱が大ブーム。


日本と外国の貯金箱を比較してみると、どちらも縁起物が多いという点が似ています。
欧米のものは鍵つきが多く、お金がいっぱいにならなくても、鍵をあけさえすれば、必要に応じて使えます。
これに対して日本のものは割らないとお金が取り出せないものが多く、日本の貯金箱が「貯める」器として登場したのにくらべ、西欧のものは「献金」の器としてあらわれたという文化の違いによるものかもしれません。

どの国の貯金箱も時代の意識や生活感情をよく反映しています。


「あれ」に関する展示。


「尼崎信用金庫のタイガース貯金」



二階の展示室へ




















猫バスも走っています。



世界の貯金箱博物館を出て尼崎駅へ向かいます。

=寺町界隈=






大きな鳥居が見えてきました。

<天空にそびえ立つ大鳥居>

阪神電車高架沿いにひときわ目立つ朱色の大鳥居。
高さ17m、笠木22m、柱直径1.6m。鳥居に掲げられている額面は畳3枚分の大きさで、その荘厳なる雄姿はまさに尼崎のシンボルとなっています。

現在の社地は東に向かって狭くなる細長の三角形をしており、拝殿等の建築物は西側に寄せられている。社地のほぼ中央に大鳥居が建てられており、周囲には遊具やベンチ等が設置され、普段は神田公園の名称で開放されています。


<尼崎えびす神社>


「事代主神社」の社号標


醍醐天皇時代以前の創建であると伝承されています。
古代からえびす様は海の神様、漁業航海を守る神様として漁業人から崇拝されてきました。
漁業航海を守る海の神様としてえびす様と同一視された事代主(ことしろぬし)が主祭神とされた。
海の市・尼崎でも「えべっさん」の愛称でお祭りされ、深いご神徳を受けたことにより漁業人たちの生活が栄えたといわれます。
その繁栄ぶりが現在の商業、工業の発展へとつながり、尼崎の躍進と共に当神社も商売繁盛の神様「尼のえべっさん」として知られるようになりました。

<えびす像>

この石造のえびす様は「しあわせえびす」とも言います。
お顔は「願い事は何じゃ?」と言わんばかりの優しくて寛容な赴き。まず、心を込めて願いごとを言いながら、えびす様のお体をさすり、次にご自分のお体をさすって下さいと。
お体がふっと軽くなり、えびす様のお顔がより笑顔に見えれば願いが叶う兆しだそうです。


<願掛けきつねさん>



稲荷大明神の守神であるきつねさん。
神社の境内には高宝院稲荷のお社があります。お稲荷さんは稲、食物の神様でありましたが、現代では産業全般、商売繁盛の神様として崇められています。稲荷神をお守りしているのがきつねさん。
きつねさんが、願い事をひとつ稲荷神へと運んでくださるよう祈願いたします。これが「願掛けきつね」神事です。



<勝負運の願掛け馬 勝ち馬さん>

この神馬は人々の願いを神様に伝え、勝負運、そして自分自身に打ち勝つ力を授けてくれると言われています。


<招きうさぎさん>

この一対のうさぎさんは、令和元年に再建された尼崎城北隣にあった通称「うさぎ針(うさぎ鍼)」として親しまれていた浅井鍼灸院さんの入り口の門柱の上に置かれていました。
「うさぎ鍼」というのは、鍼のなかでも「鑱鍼(ざんしん)」と言われるタイプのもので、主に子供の肌を摩擦する手技で、「うさぎ鍼」という呼び名が江戸時代以来知られていました。
大正時代の貴重なうさぎの石像です。開運招福、病気平癒の「招きうさぎさん」です。


<拝殿>

奥に本殿が納められています。


=マンホール=


尼崎城と松が描かれ、市章と「尼崎城」と「消火栓」の文字と管理ナンバー入りです。
尼崎城は江戸初期に大阪城の西の守りの要として築かれ、1873年の廃城令を受け取り壊されましたが、尼崎市に本社のある家電量販店の創始者の方が私財10億円を投じて天守と付櫓復元することになり、築上400年となる2018年8月に完成。
丸型消火栓蓋。



綺麗な水に住む蛍やトンボや魚。その周りに市の花・キョウチクトウが デザインされています。
「あまがさき」「げすい」の表示。
下水管マンホール蓋。



市章と上の花は市の花キョウチクトウ、 下の花は市の草花ベゴニアが描かれています。
水道小型蓋(小)。

説明文は公式サイトを参考にしました。




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禅定寺、ころ柿

2023-12-15 | デジカメ紀行
京都府綴喜郡宇治田原町にある禅定寺。
正しくは、白華補陀落山観音妙智院禅定寺(びゃくげほだらくさんかんのんみょうちいんぜんじょうじ)。

12月10日訪れました。

奈良東大寺の別当であった平崇(へいそ)上人が、平安時代中期、正暦二年(991年)に建立した華厳宗の寺院で、創立当時は、藤原摂関家とのつながりも深く、広大な山林を所有し、多くの堂塔が建てられました。
戦国時代には、寺運は衰退しましたが、江戸時代前期に禅定寺中興の祖とされている月舟(げっしゅう)が再興し、曹洞宗の寺院として整備され現在に至っています。
現在も、開基当時に造立されたと伝えられる十一面観音立像等の仏像などの数々の重要文化財が保存されるとともに、五輪石塔や山門などの歴史的遺産が周囲の自然環境と一体となって歴史的風土を形成しています。









<壱の門>


仁王門が見えてきました。


左手に「柿屋」が見えたのでお話を伺うことに。

町内で一番小さな禅定寺の柿屋。








毎年11月に入ると、刈り取りの終わった田んぼに「柿屋」が立ち始めます。
全て手作りで、屋根の部分は風が抜ける仕組みになっていて、棚にたくさんの柿が並べられ、乾燥させます。
古老柿は、「鶴の子柿」という小ぶりの渋柿を使います。
ある程度乾いてきた柿を柿屋から下ろし、むしろに広げます。
転がして、表に白い粉がふいたら完成。


禅定寺では、毎年十二月十八日(納め観音)に観音様に、「ころ柿」をお供えして一年の感謝法恩を祈祷して新しい年を迎えます。「この柿を口にすると、諸々の病、怨、悉く退散し、福寿円満安楽の因がかき込むのです」
(観音利生記より) 

=観音様と孤娘柿=
昔々宇治田原の里もお米や作物があまりできない年がありました。そんな秋のある日、どこからか一人の娘がやって来ました。しばらく村において欲しいと云うので、村人達はやさしく迎え入れました。娘は、ある日、村に沢山ある「つるの子」という渋柿をとって、きれいに皮をむいて、藁をひいた上にやさしく置いて冷たい風にあてていました。しばらくすると、その柿に白い粉がふいて、今まで渋くて食べられなかった柿が、甘くて美味しいお菓子のようになっていました。
娘は、この柿の作り方を村人に教えると、村人達の暖かな心に感謝して村を去って行きました。村人達は、不思議に思って後を追いました。すると、禅定寺の丑寅、お寺の山の中にある大きな岩(美女石)の辺りで姿を消してしまいました。村人達は、あの娘は、禅定寺の観音様の化身だと分かったのです。それから、この柿を「孤娘柿」と名付けて、宇治田原の名産となりました。

このお話で娘が観音の姿を現したという「美女石(びじょせき)」近くに「おとめ観音(柿の木観音)」と名付けられた像が平成5年に「ころ柿の観音像」として安置されました。
光背に柿の葉、台座は柿のへた、手のひらには柿、柿のネックレスを付けて・・・。


(公式サイトより)

先の発祥伝承では「孤娘柿」、白く粉を吹いた様子を老人に例えて「古老柿」、ころころ転がすから「ころ柿」。一般的には「古老柿」が使用されているようです。


<仁王門>

享保四年(1719年) 府指定有形文化財指定(平成二十六年)





<金剛力士像>江戸期 
  



<手水舎>





<五輪塔>

南北朝時代の北朝 康永元年(1342年)12月4日、当時、禅定寺の財産管理者に男子の跡継ぎがなく、長女の蘭雀女のために、その妹が建てたと伝えられます。宇治田原町指定文化財。



<本堂>





江戸期 府指定有形文化財指定(平成二十六年)。
萱葺き屋根は、四年間をかけて平成十八年九月に修復されました。

本堂を拝観します。

<迷いの窓>


<悟りの窓>



<大涅槃図>



昔開創千年記念事業として、構想二年・制作三年余の歳月を掛けて、平成十一年四月八日に開眼法要を行いました。大涅槃図は、外壁の中央に釈迦涅槃図が描かれ、その周囲が煩悩の数(百八)に区分され、六十四の「私の仏様」と四十四の観音様が取り囲んでいます。

本堂の横には。

<観音堂>




府指定有形文化財登録。

<鎮守堂>





<弘法大師像>



境内の様子。

<梵鐘>

「禅定寺本堂椎鐘日記」によると、平清盛や源頼朝たちが争う源平の世の治承五年(1181年)に沙弥寂西が願主となり荘民達がわずかな費用を出し合って鐘を鋳造。ところが、百二十年後の正安三年(1301年)に破損して、再び寺僧や荘民達が協力して改鋳されました。朝夕の他に非常時にも打ち鳴らされ、いうならば、荘民達の生活の支えでした。が、この鐘も太平洋戦争で供出され、鐘楼のみ残されましたが、昭和五十四年(1979年)、京都嵐山・中川武治氏の発願により、当時と同じ鐘を復古し山里に鐘の響きを取り戻すことができました。


  



<坂村真民、詩碑>

平成元年九月十七日。「念ずれば花ひらく」


<記念植樹>















駐車場に。


説明文は公式サイトを参考にしました。







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龍穏寺(りょうおんじ)

2023-12-10 | デジカメ紀行
龍穏寺は京都府南丹市園部町に位置する曹洞宗の寺院。

12月8日訪れました。



龍穏寺は室町時代後期の1509年(永正6年)に仁江(にえ)の土豪・足立氏の金幡宗全が玉雲寺として創建しました。
江戸時代前期の1619年(元和5年)12月に但馬国出石藩藩主・小出吉親が入部して園部藩が成立すると徳雲寺が園部藩藩主・小出氏の菩提寺とされ、龍穏寺が園部藩家老・太田氏の菩提寺とされました。
船井ごおり三十三ヶ所観音霊場第2番札所です。御本尊は釈迦牟尼(しゃかむに・釈迦如来)です。

<山門>


山門をよこから・・・。



参道を上がって行きます。



両脇にはお地蔵様が。
  











上がって行った先にある山門


境内側から



<総門>


<扁額>


境内に入ります。




<手水舎>





<本堂>


<扁額>










<鐘楼>



<薬師堂>













<マンホール>

旧園部町の蓋で大きな町章とその中に町の花梅、町の木銀杏がデザインされています。



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千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)、「大根(だいこ)だき」

2023-12-07 | デジカメ紀行
京都市上京区にある千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう、大報恩寺)で、無病息災を願う「大根(だいこ)だき」が始まりました。
お釈迦様が修行中に悪魔の誘惑に負けず、12月8 日の夜明け前にさとりを 開かれた「さとりの日」を慶讃する法要「成道会(じょうどうえ)」に合わせて行われる伝統行事です。
鎌倉時代に住職が大根に釈迦の名を梵字(ぼんじ)で書いて悪魔除けとしたのが起源。
梵字を記して祈禱(きとう)をした大根が油揚げと大釜で煮込まれています。

「1年間無事に暮らせたことに感謝し、また来年も健康で過ごせるようにと願って食べていただきたい」との事。

8日も午前10時から頂けます。












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笠置寺

2023-12-06 | デジカメ紀行
笠置寺は京都府の南東部、奈良県境に位置する笠置町にあり、東西に流れる木津川の南岸、標高289メートルの笠置山を境内としています。

笠置寺の創建は古く、すでに2000年前から笠置山の巨石は信仰の対象となっていました。このことは笠置山の中心をなす大岩石の前から弥生時代の有樋式石剣が発見されたことによってわかりますが、実際に建物が建てられ人が住み着いたのは1300年前。
1300年前、東大寺の実忠和尚、その師 良弁僧正によって笠置山の大岩石に仏像が彫刻され、その仏を中心として笠置山全体が一大修験行場として栄えました。平安時代 永承7年(1052)以後、末法思想の流行とともに笠置寺の磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰を受けました。
鎌倉時代 建久2年(1191)藤原貞慶(後の解脱上人)が日本の宗教改革者として、その運動を笠置寺から展開するとき、笠置山は宗教の山、信仰の山として全盛を極めましたが、元弘元年(1331)8月27日に倒幕計画に失敗した後醍醐天皇を当山に迎えたことにより、攻防1ヶ月、笠置山は全山焼亡。以後、室町時代に少々の復興をみたが、江戸中期より荒廃。明治初期に無住の寺となりました。明治9年、丈英和尚狐狸の住む荒れ寺に住して笠置寺の復興に尽くすこと20年、ようやく今日の山容となりました。

11月30日訪れました。

<境内図>

本堂、 正月堂をはじめ、大師堂、毘沙門堂、椿本護王宮、春日明神社、稲荷社、鐘楼、文化財収蔵庫と、堂宇が点在し、巨石を巡る、奈良時代に開かれた800mの修行場は、遊歩道として整備され自然を楽しむ場となっています。

駐車場に車を停めて坂道を登ってきました。







<山門>


山門をくぐります。

<筋土塀>









<解脱鐘>



蓮の花をモチーフに底部に六つの切り込みが施された釣鐘。
重要文化財に指定。






<鎮守社>











坂道を下り左手へ。





左上に<大師堂>を見ながら矢印に沿って進みます。




<笠置寺本堂・正月堂>



観音悔過法の会場として、東大寺実忠和尚によって建立された御堂を起源とします。
現在まで伝わる「お水取り」発祥の場です。

<弥勒磨崖仏>



奈良時代後期、高さ15.6m、幅15m
巨石に刻まれた仏は「天人の作」と伝えられ、遥かな未来に仏教を再興される仏ですが、元弘の戦乱の兵火を最後に焼亡したと言われています。


<十三重石塔>



重要文化財、鎌倉時代後期、花崗岩、高さ 470cm。
「元弘の乱」の戦死者を供養する塔と伝えられています。



正月堂の横を、さらに下って行きます。





<千手窟>



東大寺大仏殿建立のため良弁和尚が千手の秘法を行い、一大事業を成し遂げました。
実忠和尚はこの龍穴から弥勒の世界に至って、観音悔過法を学びました。


<伝虚空蔵磨崖仏>



岩肌に刻まれた9mの仏像は、記憶力がよくなるというご利益のある虚空蔵菩薩さま。
元弘の兵火に焼かれることもなく、姿をとどめています。



<胎内くぐり>

修行場のスタート場所。
岩の洞窟を母胎にたとえ、通り抜けることによって生まれ変わるとされました。


<野良猫「笠やん」の碑>



<太鼓石>

重なる巨石。
丸くはがれている部分の右脇をたたくと「ポンポン」と鼓のような音がするそう。


<ゆるぎ石>



後醍醐天皇の籠る笠置山を取り囲む鎌倉幕府軍。
元弘の戦乱において武器として使われた岩の残りは、端を押すとゴトゴトと動きます。







紅葉の季節から早春にかけて、放射冷却で冷え、風が穏やかな朝に谷間に立ちこめる川霧は雲海となります。
笠置山から見下ろす、朝日を受けて変わりゆく姿は、仙人にでもなったような気持ちにさせてくれます。


<後醍醐天皇行在所 >

山頂へと続く階段を登ると、後醍醐天皇の行在所跡です。












< もみじ公園>
80本を数えるもみじ公園。春には青もみじ、秋には錦に彩られます。








<大師堂>











巡って元に戻ってきました。

<毘沙門堂>





<稲荷社>






  








<御朱印>


説明文は公式サイトを参考にしました。

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