【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

寂照院 

2023-02-13 | デジカメ紀行


京都府長岡京市奥海印寺にある寂照院(じゃくしょういん)。

織田信長が立ち寄ったお寺。
弘仁10年(819)、空海の十大弟子の一人・道雄僧都によって創建された海印寺の塔頭10院の中のひとつです。道雄がこの地に着いたときの椎の大木がそびえ、その木の上に千手観音の姿が光り輝いて現れたので、その姿を仰いで本尊にされたことが始まりと伝わります。永禄11(1568)年9月27日、織田信長を従えて上洛した足利義昭が西岡を制圧する際、ここに陣を置いたとの記録が残っています。

<仁王門>


<仁王像>
  

南北朝時代の康永3(1344)年造立。

仁王像造立に際して結縁勧進が行われました。結縁勧進とは、像などを建てるときに寄付などを募ることで、寂照院の仁王像を建てるときの「結縁交名」には乙訓郡やその近辺の村の人々の名前が約700余名書かれていました。この「結縁交名」の文は、「御成敗式目」の裏紙が使われていました。この「御成敗式目」は康永2(1343)年以前のもので二番目に古い写しと推定されています。



仁王門をくぐって境内に入ると、「日本孟宗竹発祥の地」の石碑があり、正面に階段と、近代的な本堂が見えてきます。

<日本孟宗竹発祥の地の石碑>


安貞元年(1227)に道元禅師が中国江南地方から持ち帰り、日本で初めて孟宗竹(もうそうちく)をこの地に植えたといわれています。

<本堂>


本堂などの伽藍の痛みが激しく廃寺の危機に陥りましたが、支援等もあり再建されたそうです。

本堂には鎌倉時代の千手観音菩薩や平安時代の妙見菩薩、日本最古といわれる水子地蔵尊など多くの仏像が祀られています。

本堂奥には、古墳時代の後期7世紀初めに造られたと考えられる走田9号墳があります。





地元有力者の墓と推定される円墳で、須恵器7点や家形石棺などが出土しました。





<地蔵尊>


<薬医門>

本柱の後ろに控え柱を建て、本柱を冠木(かぶき)で繋ぎ、その上に女梁(めうつばり)・男梁(おうつばり)をかけ、切妻屋根をのせた門のことだそうです。


境内の東側には孟宗竹林があり、府登録天然記念物になっています。














寂照院本堂の後方(北側)に見えている走田神社へ。

=走田神社=

初穂(走り穂)を作る田んぼ、早稲田という意味です。

ご祭神は、春日の四柱神・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・武甕槌神(たけみかづちのかみ)・経津主神(ふつぬしのかみ)・姫大神です。
平安時代中期の法令集『延喜式』の神名帳に記載されていた「式内社」で、平安時代から格式の高い神社であったことが分かります。



鳥居をくぐり参道の石段を登って行きます。





参道の途中に吊り下げられている、勧請縄。
毎年1月に氏子たちが集まって太さ20センチほどのしめ縄を作ります。
しめ縄には12個の御幣(榊)が取り付けられ、この御幣の下がり方によって年間の気候や豊凶を占っていました。
大正ごろに「米相場」という先物取引が流行してからは、次第にお米の価格が上がるか下がるかを占うようになったようです。

1月13日に的矢射(まとやうち)の儀式、弓講が行われます。昔、奥海印寺城主だった高橋勘解由左衛門の子孫によって今も継承されています。2人で6本ずつ、計12本の矢を直径1.3メートル程の的に向かって射ます。12本の矢はそれぞれ月を表しており、的の真ん中の黒点に命中すればその月は豊作だと判定します。

お千度詣りやとんど等の行事もあります。



走田神社からは、明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉が天下を分けて戦った山崎の戦いの古戦場を一望することができます。
高く突き出た天王山のふもとを流れる小泉川(円明寺川)を挟んで、光秀軍と秀吉軍が対峙しました。
小泉川は京都縦貫自動車道の高架の下を流れています。

境内
<手水舎>



<拝殿>



<本殿>

<狛犬>
  

  


      


マンホール


長岡京市の下水道マンホールのふたのうち、約9000個は、竹とたけのこをデザインしています。
中心に、「長」の字をデザインした市章が刻まれ、その字の上の方向に下水道管の水が流れています。
重いふたを開けなくても、水がどちらの方向に流れているかが分かるようになっています。

説明文は公式サイトを参考にしました。
写真は2021年4月30日に撮ったものです。

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