近江八幡市(おうみはちまんし)は、滋賀県中部、琵琶湖東岸に位置する市。
豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展しました。近江商人の発祥の地。
近世の風情がよく残る新町通り、永原町通り、八幡堀沿いの町並み、日牟禮八幡宮境内地は「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。広さ13.1haの地区で、地区内の建築物180、工作物93が伝統的建造物として特定されています。
1991年4月30日に種別「商家町」で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。
新町3丁目辺りで・・・
右手に見えるのが
左手に見える板塀は伝統的建造物を利用した飲食店
郷土資料館、歴史民俗資料館、旧家等が並んでいます。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズが住み、多くの近代建築作品を遺した地としても知られている。2005年9月1日には水郷地域160ヘクタールが景観法に基づく「景観計画区域」に指定。2006年1月26日には「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定。
明治38年(1905年)に創業者W・M・ヴォーリズがキリスト教の伝道を志し、近江商人の士官学校と言われた滋賀県八幡商業学校に英語教師として赴任。
ここで近江商人を目指す若き青年たちと出会うことになる一方、課外で自主的に開催していたバイブルクラスに生徒が数多く集うようになったことが、仏教の色濃い地域との宗教的な対立を生むことになり、これが原因で2年後の契約更改時に教師の職 を解かれることになってしまいます。
しかしW・M・ヴォーリズは、1964年(昭和39年)5月7日、83歳の生涯を終えるまで近江八幡に留まり、キリスト教伝道とその主義に基づくさまざまな事業展開を行ないました。
社名の由来は創業者ヴォーリズの愛した『近江』の地名と、クリスチャン精神に基づき目的に向かって心を一つにする仲間という意味を持った『兄弟』を合わせて命名されたそうです。
近江兄弟社の向かい側の広場にヴォーリズの像が建てられています。
歩いていると・・・
各町内から出てきた「左義長」が、日牟禮八幡宮へ向かいます。
平安時代に宮中で、毬杖・毬打(ぎっちょう・ぎちょう)と呼ばれる道具を使用して行う打毬(だきゅう)と言う正月のめでたい遊戯がありました。
左義長はこの打毬で破損した毬杖を、清涼殿の東庭で青竹を束ね立てたものに結び、さらに扇子や短冊などを吊るし、陰陽師(おんみょうじ)が謡いはやしながらこれを焼く行事が起源とされ、この毬杖を3つ結んだことから各書物には、三毬杖・三鞠打・三木張、散鬼打、などと記され、しだいに左義長と呼ばれるようになったと考えられます。
現在、正月15日前後に、どんど焼、さいとやき、三九郎焼(さんくろうやき)、ほちょじ、ほっけんぎょうなどの名称で、正月の松飾りや注連縄(しめなわ)を集めて焼く火祭りの行事として行われ、この火にあたると若返るとか、餅を焼いて食べると病気をしないなどと言われています。
左義長まつりには、旧城下町の各町から13基が奉納され、3月14日・15日に近い土・日曜日に行われます。
今年は3月11、12日。
左義長は松明、ダシ、十二月(赤紙)の3つの部分を一本(基)にし、前後に棒を通し、つり縄で括り固め御輿のように担ぐように作り上げます(これ全体を左義長と呼びます)。
前方となる正面に「ダシ」と呼ぶ作り物は町内の人々の手作りで、その年の干支に因んだ物をテーマに制作されます。
今年のテーマは「鶏」。
干支の作り物を「むし」と呼び、背景は円形、方形、扇形など「台」と呼ぶ部分を作り取り付けます。
穀物(大豆、黒豆、小豆、胡麻等)や海産物(鰹節、昆布、するめ、干魚等)の食物を使って作られます。
毎年、年が明けると本格的な準備に入るそうです。
左義長の担い手は踊子(おどりこ)と呼ばれ、その服装は、揃いの半纏を羽織る姿が一般的ですが、女物の長襦袢を着用したり、化粧をするなどの、変装も見られます。
変装は、織田信長が自らの正体を隠すために派手な出で立ちで参加したとの話を、近世の人々が変装するものと解釈したのではないかと言われています。
左義長を担ぐ人々は口々に「チョウヤレ・チョウヤレ(左義長さしあげ)」と「マッセ・マッセ(左義長めしませ)」と掛け声を発しています。
前日、日牟禮八幡宮で行事順を決める「みくじ祭」があり、土曜日は13時に左義長が日牟禮八幡宮へ勢揃いします(この時に山車コンクールの審査も行われるそう)。14時から渡御(旧町内巡行)が行われ、17時半頃からは山車コンクールの表彰式が行われます。
日曜日には、午前中から各町の左義長が旧城下町を中心に自由に練り歩き、「組合せ」(左義長のけんか)が行われます。そして20時からみくじ祭での奉納順に従い左義長は順次奉火され(一番から五番までは一斉奉火)、最後の左義長が燃えるまで、続くそうです。
近江八幡の左義長まつりは、「天下の奇祭」とも呼ばれます。
また、この祭りが終わると本格的な春が訪れることから、「湖国に春を告げるお祭り」などとも言われます。
国選択の無形民俗文化財です。
後ろに見える白雲館は、明治10年(1877年)に小学校(旧八幡東学校)として建てられました。
国登録有形文化財。現在は、市の観光案内所として使われています。
白雲館の前に、日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)へ続く参道があります。
鳥居をくぐって行きます。
JR近江八幡駅の北西約2.3km、八幡山(271.9m)の南麓にある神社。
御神紋は「左三ッ巴」。
誉田別尊(ほんたわけのみこと)・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・比売神(ひめかみ)の三神を祭神とする旧八幡町の総社です。
平安時代の創建といわれ、京都府八幡市の石清水八幡宮の神霊を勧請したもの。
エノキやムクの樹が生い茂る神域は約4万4000平方メートル。
楼門前では、左義長がぐるぐる回ります。
今年の順番が書かれていました。
参道に並んだ「左義長」
食べ物でできているとは思えません。
今にも飛び立ちそうな「鶏」たちです。
街なかで見かけました。
説明文は日牟禮八幡宮公式ホームページ、ウィキペディアを参考にしました。
豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展しました。近江商人の発祥の地。
近世の風情がよく残る新町通り、永原町通り、八幡堀沿いの町並み、日牟禮八幡宮境内地は「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。広さ13.1haの地区で、地区内の建築物180、工作物93が伝統的建造物として特定されています。
1991年4月30日に種別「商家町」で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。
新町3丁目辺りで・・・
右手に見えるのが
市立資料館、旧伴家住宅
左手に見える板塀は伝統的建造物を利用した飲食店
内部の様子
郷土資料館、歴史民俗資料館、旧家等が並んでいます。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズが住み、多くの近代建築作品を遺した地としても知られている。2005年9月1日には水郷地域160ヘクタールが景観法に基づく「景観計画区域」に指定。2006年1月26日には「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定。
株式会社近江兄弟社(おうみきょうだいしゃ)
軟膏薬「近江兄弟社メンターム」を中心に、医薬品・医薬部外品・化粧品等のスキンケア商品を製造販売。
軟膏薬「近江兄弟社メンターム」を中心に、医薬品・医薬部外品・化粧品等のスキンケア商品を製造販売。
明治38年(1905年)に創業者W・M・ヴォーリズがキリスト教の伝道を志し、近江商人の士官学校と言われた滋賀県八幡商業学校に英語教師として赴任。
ここで近江商人を目指す若き青年たちと出会うことになる一方、課外で自主的に開催していたバイブルクラスに生徒が数多く集うようになったことが、仏教の色濃い地域との宗教的な対立を生むことになり、これが原因で2年後の契約更改時に教師の職 を解かれることになってしまいます。
しかしW・M・ヴォーリズは、1964年(昭和39年)5月7日、83歳の生涯を終えるまで近江八幡に留まり、キリスト教伝道とその主義に基づくさまざまな事業展開を行ないました。
社名の由来は創業者ヴォーリズの愛した『近江』の地名と、クリスチャン精神に基づき目的に向かって心を一つにする仲間という意味を持った『兄弟』を合わせて命名されたそうです。
近江兄弟社の向かい側の広場にヴォーリズの像が建てられています。
歩いていると・・・
飛び出し坊や
手に持っているのは、「アユ」
手に持っているのは、「アユ」
各町内から出てきた「左義長」が、日牟禮八幡宮へ向かいます。
平安時代に宮中で、毬杖・毬打(ぎっちょう・ぎちょう)と呼ばれる道具を使用して行う打毬(だきゅう)と言う正月のめでたい遊戯がありました。
左義長はこの打毬で破損した毬杖を、清涼殿の東庭で青竹を束ね立てたものに結び、さらに扇子や短冊などを吊るし、陰陽師(おんみょうじ)が謡いはやしながらこれを焼く行事が起源とされ、この毬杖を3つ結んだことから各書物には、三毬杖・三鞠打・三木張、散鬼打、などと記され、しだいに左義長と呼ばれるようになったと考えられます。
現在、正月15日前後に、どんど焼、さいとやき、三九郎焼(さんくろうやき)、ほちょじ、ほっけんぎょうなどの名称で、正月の松飾りや注連縄(しめなわ)を集めて焼く火祭りの行事として行われ、この火にあたると若返るとか、餅を焼いて食べると病気をしないなどと言われています。
左義長まつりには、旧城下町の各町から13基が奉納され、3月14日・15日に近い土・日曜日に行われます。
今年は3月11、12日。
左義長は松明、ダシ、十二月(赤紙)の3つの部分を一本(基)にし、前後に棒を通し、つり縄で括り固め御輿のように担ぐように作り上げます(これ全体を左義長と呼びます)。
前方となる正面に「ダシ」と呼ぶ作り物は町内の人々の手作りで、その年の干支に因んだ物をテーマに制作されます。
今年のテーマは「鶏」。
干支の作り物を「むし」と呼び、背景は円形、方形、扇形など「台」と呼ぶ部分を作り取り付けます。
穀物(大豆、黒豆、小豆、胡麻等)や海産物(鰹節、昆布、するめ、干魚等)の食物を使って作られます。
毎年、年が明けると本格的な準備に入るそうです。
左義長の担い手は踊子(おどりこ)と呼ばれ、その服装は、揃いの半纏を羽織る姿が一般的ですが、女物の長襦袢を着用したり、化粧をするなどの、変装も見られます。
変装は、織田信長が自らの正体を隠すために派手な出で立ちで参加したとの話を、近世の人々が変装するものと解釈したのではないかと言われています。
左義長を担ぐ人々は口々に「チョウヤレ・チョウヤレ(左義長さしあげ)」と「マッセ・マッセ(左義長めしませ)」と掛け声を発しています。
前日、日牟禮八幡宮で行事順を決める「みくじ祭」があり、土曜日は13時に左義長が日牟禮八幡宮へ勢揃いします(この時に山車コンクールの審査も行われるそう)。14時から渡御(旧町内巡行)が行われ、17時半頃からは山車コンクールの表彰式が行われます。
日曜日には、午前中から各町の左義長が旧城下町を中心に自由に練り歩き、「組合せ」(左義長のけんか)が行われます。そして20時からみくじ祭での奉納順に従い左義長は順次奉火され(一番から五番までは一斉奉火)、最後の左義長が燃えるまで、続くそうです。
近江八幡の左義長まつりは、「天下の奇祭」とも呼ばれます。
また、この祭りが終わると本格的な春が訪れることから、「湖国に春を告げるお祭り」などとも言われます。
国選択の無形民俗文化財です。
2基の左義長が「けんか」です。
後ろに見える白雲館は、明治10年(1877年)に小学校(旧八幡東学校)として建てられました。
国登録有形文化財。現在は、市の観光案内所として使われています。
白雲館の前に、日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)へ続く参道があります。
日牟禮八幡宮、鳥居
鳥居をくぐって行きます。
八幡堀り
JR近江八幡駅の北西約2.3km、八幡山(271.9m)の南麓にある神社。
御神紋は「左三ッ巴」。
誉田別尊(ほんたわけのみこと)・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・比売神(ひめかみ)の三神を祭神とする旧八幡町の総社です。
平安時代の創建といわれ、京都府八幡市の石清水八幡宮の神霊を勧請したもの。
エノキやムクの樹が生い茂る神域は約4万4000平方メートル。
楼門
楼門前では、左義長がぐるぐる回ります。
今年の順番が書かれていました。
手水舎
能楽台
拝殿
入母屋造 間口三間三尺 奥行三間三尺
拝殿にはダシが置かれています。
本殿
三間社流造 千鳥破風向拝付 間口三間三尺 奥行三間
各町内の踊子達もお参りです。
能楽台
拝殿
入母屋造 間口三間三尺 奥行三間三尺
拝殿にはダシが置かれています。
本殿
三間社流造 千鳥破風向拝付 間口三間三尺 奥行三間
各町内の踊子達もお参りです。
参道に並んだ「左義長」
食べ物でできているとは思えません。
今にも飛び立ちそうな「鶏」たちです。
街なかで見かけました。
汚水管マンホールの蓋
八幡堀の両側に白壁の蔵の風景と奥には八幡山。
近江商人のそろばん玉の柄の暖簾と市の木・サクラのデザイン。
公募で選ばれた物です。
上記と同デザインのカラーシールデザイン。
外周は蔓性の枝の規格模様。
汚水管マンホールの蓋
防火水槽の蓋
近江八幡市章が付いています。
八幡堀の両側に白壁の蔵の風景と奥には八幡山。
近江商人のそろばん玉の柄の暖簾と市の木・サクラのデザイン。
公募で選ばれた物です。
上記と同デザインのカラーシールデザイン。
外周は蔓性の枝の規格模様。
汚水管マンホールの蓋
防火水槽の蓋
近江八幡市章が付いています。
説明文は日牟禮八幡宮公式ホームページ、ウィキペディアを参考にしました。