【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

旧閑谷(しずたに)学校

2017-05-31 | デジカメ紀行
和気藤公園、和気神社を後にし・・・。

旧閑谷学校
江戸時代前期の寛文10年(1670)に岡山藩主池田光政によって創建された、現存する世界最古の庶民のための公立学校です。
初めて閑谷の地に来観した池田光政は、「山水清閑、宜しく読書講学すべき地」と称賛、地方のリーダーを養成する学校の設立を決めました。
この学校の永続を願う藩主の意を受けた家臣津田永忠は、約30年かけて、元禄14年(1701)に現在とほぼ同様の外観を持つ、堅固で壮麗な学校を完成させました。

平成27年(2015)4月には「近世日本の教育遺産群」として特別史跡旧弘道館、史跡足利学校跡、史跡咸宜園跡などとともに最初の日本遺産に認定されました。学ぶ心・礼節を重んじた近世の教育が、近代化の原動力となり、現代にも受け継がれていることが認められたのです。
開校以来、講堂の床に正座して論語を学ぶ姿は旧閑谷学校の伝統だそうです。今日もここに学ぶ研修生の論語を朗誦する声がこの谷に響いています。

学校の手前に

手水舎


受付を済ませ・・・。

校門(こうもん)






屋根は備前焼の本瓦葺き、棟に鯱を載せた正門。
廟の正門として建てられたもので閑谷学校の校門でもあり、中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで鶴鳴門とも呼ばれています。
両脇に花頭窓のある付属屋を付けるなど中国の建築様式を模しており、貞享三年(1686)の造営。重要文化財。

瓦に

岡山藩主池田家の家紋・揚羽蝶。

石塀(せきへい)



300年を経て今も整然たる姿をたたえています。
学校全体を取り囲む765mに及ぶ石塀は、備前焼瓦と並んで、旧閑谷学校に独特の景観を生み出しています。 重要文化財。

閑谷神社(しずたにじんじゃ)

閑谷学校の創始者、池田光政を祀っています。
もとは「東御堂」、または光政の謚をとって「芳烈祠」と呼ばれていました。
本殿内には御神体として光政の座像が安置されています。重要文化財。

楷の木(かいのき)

四季を通して情緒豊かな「学問の木」。
聖廟前に植えられた二本の楷の木は、中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り苗に育てられた内の2本です。
紅葉の季節には美しく色づく楷の木を見ることができます。


聖廟(せいびょう)
儒学の祖、孔子の徳を称える最も重要な施設。
孔子廟、西御堂とも呼ばれ、最も重要な施設として中央の一番高い所に配されています。重要文化財。
奥の大成殿には孔子像が安置され、毎年10月には儒学の祖、孔子の徳を称える「釈菜(せきさい)」の儀式が行われます。
(楷の木の後方)

天皇陛下お手植えの木


講堂(こうどう)

「学問の殿堂」、旧閑谷学校を代表する国宝。
講堂は入母屋造り、しころ葺きの大屋根と火灯窓が壮重な独特の外観を形作っています。 重要文化財。国宝。

創建当時は「茅葺き」でしたが、その後改築され現在の堅牢な
「備前焼瓦」に葺き替えられました。
内部は十本の欅の丸柱で支えた内室と、その四方を囲む入側とで
成されています。
拭き漆の床は生徒たちによってよく磨かれており、火灯窓から入る光を
やわらかく反射させています。





小斎(しょうさい)

藩主が臨学の際に使用する、御成の間。
屋根はこけら葺きで簡素な数寄屋風に作られています。
現存する建造物の中では、最も古い姿を残しています。重要文化財。

習芸斎(しゅうげいさい)

農民たちも学んだ、教室として使われた施設。
毎月三と八の付く日は「五経」と「小学」、朔日(ついたち)には農民も聴講することができる「朱文公学規」の講釈が行われました。重要文化財。

飲室(いんしつ)



教師と生徒たちが、湯茶を喫した休憩室。
中央の炉のふちには「斯爐中炭火之外不許薪火」と彫り込まれており、
火の使用に厳重な注意がはらわれていました。重要文化財。

飲室入り口


飲室門(いんしつもん)

日通いの生徒や、毎月朔日(ついたち)の朱文公学規講釈に出席する
聴講者が出入りする通用門でした。重要文化財。

文庫(ぶんこ)

閑谷学校の教科書・参考書をおさめた書庫で、中央の階段を上がった
左右の床に八千点余が所蔵されていました。
漆喰塗で固めた上を瓦葺きにした置屋根式で、前室には三重の土の戸を含む六層の戸が設けられているそう。重要文化財。

火除山(ひよけやま)

この山の西側に学舎や学房(寄宿舎)などがあり、そこからの出火が講堂などに及ばないようにするため、防火の目的でつくられた人工の山。


火除山の横を通り抜け




閑谷学校資料館

校舎を利用した資料館です。
明治38年(1905)、学房跡に「私立中学閑谷黌」の本館として
建設されました。
現在はその本館部分を資料館として公開し、旧閑谷学校の貴重な資料が展示されています。登録有形文化財。







説明文は公式ホームページ、ウィキペディアより。



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和気の藤

2017-05-30 | 花だより
「藤の花咲く郷」
その昔、その名の通り、この藤野の地は藤が咲き乱れる原野であったと伝えられています。
そこで、この地で誕生した和気清麻呂公の生誕1250年を記念して「藤の花咲く郷公園整備」により昭和60年に藤公園が完成しました。

約7,000㎡の園内に、幅7m、総延長500mの藤棚があります。
北は函館北海道・函館の藤、南は鹿児島県・坊津の藤。野生の藤が生息しない沖縄を除く全国46都道府県の著名な藤と、国外では中国・韓国産の藤を集めています。
国指定天然記念物7種類、市町村指定天然記念物26種類、その他19種類。
約100種類150本の紫・ピンク・白の藤が咲き乱れる「日本一の藤の公園」です。

5月5日訪れました。

駐車場に車を停め向かいます。

霞橋

社頭を流れる日笠川に架かる橋で、
「俗界と聖界の境にある橋」とされます。


橋を渡ると見えてくるのが、この像。

和気清麻呂(わけのきよまろ)公




和気清麻呂は、奈良時代末期から平安時代初期の貴族。
備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。


日本彫塑界の大御所、故朝倉文夫作のこの像は高さ4.63mの青銅製。
清麻呂公生誕1250年を記念して、清麻呂公の故郷である和気町に寄贈されました。

この像の左方向が藤公園、右に和気神社があります。

藤公園へ向かう道には、ご当地B級グルメの屋台や備前焼の販売などもあります。


対岸から・・・。


顔はめ看板


公園の藤


























その他の花達











何かを製作中
  

できたのがこれ!。


野点を楽しむことも出来ます。



藤を堪能したあとは・・・。

和氣神社(和気神社) (わけじんじゃ)



御祭神は、鐸石別命、弟彦王命、和気清麻呂、和気広虫姫命など和気氏一族9祭神。
鐸石別命は垂仁天皇の皇子で、命の曽孫弟彦王が軍功によりこの地に土着し、一族は備前及び美作に栄えました。
弟彦王の12代の孫が和気清麻呂、広虫姉弟であり、ともに朝廷に仕え、清麻呂公は、奈良時代から平安時代の転換期に大きな役割をはたした人物で、なかでも道鏡事件、平安遷都などでの活躍。
広虫姫は戦乱による多くの孤児を養育し、その仁愛慈育の生涯は女性の鏡と称えられました。

鳥居前、拝殿前には全国的にも珍しい狛亥(イノシシ)があります。
これは、猪が清麻呂の宇佐神宮参拝の際に護衛を行ったり、足を患った際に霊泉に案内したとされ、猪は清麻呂の守護とされてきたことに由来します。

ご神徳は足腰・健康の守護、厄除開運・災い除けなど。
わが国最初の孤児院を開設した和気広虫に由来して、安産(子供の守り神)としても敬われています。

また、明治初期に邑久大工・田淵勝義の技をかけて建築された一連の社殿は、和気町指定文化財になっています。

これは、鳥居の前にある狛イノシシ。




イノシシの横には、さざれ石が。


大絵馬

高さ8m、幅10mの日本一の大絵馬。中央にその年の干支を配し、回りは清麻呂公絵巻の絵画をめぐらしています。

随神門

本殿、拝殿に続き、明治28年に造営されました。随身の姿の守護神像を左右に安置した神社の門です。

手水舎


拝殿


現存の建物は、明治18年より順次建替えられ、本殿、幣殿・釣殿・拝殿、随神門が一連の建造物となっています。
門弟60余人を有し、関西一の大棟梁といわれた、
宮大工田淵勝義の手により造営されました。


本殿

明治20年に建替えられました。幣殿、釣殿、拝殿からなります。

天神社(天満宮)

学問成就や、子育ての神として信仰されています。
初宮詣の際、「名付け石」を奉納する慣わしがあります。

狛イノシシ




こちらは、拝殿前に。


絵馬殿


昔より奉納された絵馬が掲げられています。


続いて「閑谷学校」へ寄ります。

説明文は公式ホームページ、パンフレット、ウィキペディアを参考にしました。

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馬見丘陵公園、チューリップ

2017-05-22 | 花だより
馬見丘陵は、香芝市・広陵町・河合町など2市3町に跨る標高70m程度の東西約3km、南北約7kmに及ぶ低い丘陵地で、この丘陵は馬見古墳群のエリアと一致し、古墳の集積地となっています。

園内には約36万球、70品種のチューリップが植えられています。

「チューリップフェア」が4月8日から16日まで、開催されました。

4月24日訪れました。









































他にもいろいろな花達が・・・。























チューリップは最盛期を過ぎていたようですが、十分楽しむことができました。
足元に植えられていた青い「ネモフィラ」が咲きほこっていました。

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桜 2017

2017-05-19 | 花だより
靭公園 寒緋桜(カンヒザクラ) 3月9日撮影






浜松 海棠桜 4月5日撮影




幼稚園付近 4月8日撮影




近くの公園 4月8日~4月12日撮影














東一口(いもあらい)前川堤 4月15日撮影






郡上八幡 しだれ桜 4月23日撮影






九頭竜湖 4月23日撮影






馬見丘陵公園 4月24日撮影


布目ダム 4月28日撮影


来年はどんな桜が見られるでしょうか・・・。

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郡上八幡 PartⅡ

2017-05-17 | デジカメ紀行
郡上八幡は狭い町ながら、13もの寺院が甍を連ねます。
郡上八幡が「小京都」の異名をもつゆえんだそうです。

市街地には、17世紀に城下の防火などを目的に築造された水路が巡らされています。現在、一部は整備され観光資源となっていますが、多くは生活用水として利用され続けています。
1996年に「水の郷百選」に認定されました。

「宗祇水」へ向かいます。





宗祇水

宗祇水(名水百選)別名「白雲水」。
文明年間蓮歌の宗匠飯尾宗祇が東常縁から古今伝授を受けるため、この泉のほとりに草庵を結び、この清水を愛用したところから名づけられました。
昭和60年全国名水百選の一番手として指定を受けました。

=宗祇水を超えたところに=

小駄良川にかかる清水橋&小駄良川




=橋を渡ったところに=

親農薬師

1781年(天明元年)に安置奉安された薬師如来で商売繁盛の他、
諸難諸病を取り払うとして信仰されています。


=清水橋のたもと辺りから=

吉田川の遊歩道、土手

長良川の上流で3つの川が合流し、町中に水路が流れる水の町。
(小駄良川と吉田川の合流地点辺りです)
その川のひとつ、吉田川の河畔に植えられているのが「サトラレ桜」。
映画「サトラレ」のロケ地となり、そう呼ばれるようになったそう。


郡上八幡城天守閣から見えていた愛宕公園には、ソメイヨシノが約80本植えられています。
郡上八幡城主・遠藤慶隆が植えたとされる「墨染めの桜」があります。
岐阜県の飛騨美濃さくら33選にも選定。

=通りや店の表示=










本町、職人町・・・。
玄関には色紙が、掲げられています。

=本町辺り=

郡上踊りの石像


=職人町辺り=


袖壁が見られます。

蓮生寺


長敬寺

鍛冶屋町、職人町のつきあたりに見えるお寺。
1601年(慶長6年)に郡上八幡城主遠藤慶隆により東常縁の玄孫にあたる正勧坊正欽を招請し当寺を創建、遠藤家の菩提所としたのが
開基とされ、境内には遠藤慶隆の墓所があります。

長敬寺本堂




水路の守り


古い町並みをさらに散策。

安養寺


1256年(康元元年)親鸞聖人の直弟である西信が近江の蒲生郡に堂を
建て安要寺とし、後に美濃に転じてから蓮如の命により
安養寺と改められました。
郡上八幡へは城主井上氏の入部とともに移転。浄土真宗の布教の展開により「郡上御坊」の呼び名で隆盛を誇りました。
間口、奥行きともに16間という壮大な本堂。木造の建造物としては
岐阜県下で最大のものといわれます。

安養寺鐘楼


町のいろいろな所から見ることができます。



郡上八幡樂藝館

1904年開業の医院。展示施設として利用されています。
登録有形文化財。


こちらも登録有形文化財。


「奥美濃おもだか家民芸館」、「斎藤美術館」、「心の森ミュージアム遊童館」などがある、「美術館通り」とも言われている通りへ。

近くにあるのが・・・

やなかみずのこみち


敷き詰められた丸石には、遊び心あふれています。

「八幡町」にちなんで、長良川と吉田川の約8万個の磨かれた石が敷かれているそうです。



  

  

こみちに作られたテーブル。


こみちの奥には

稲荷明神


鳥居の足元に建てられた碑には、
「人間道路会議賞大賞」
「手づくり郷土(ふるさと)賞」
「生活の中に生きる水辺三十選」としるされています。

こんな表示も。



また、郡上八幡は食品サンプルの生産量日本一だそうです。。
郡上八幡に生まれ育ち、1932(昭和7年)大阪で食品サンプルの事業化に成功した食品サンプルの第一人者が岩崎瀧三氏です。
1995年に岐阜工場を設立、地域社会教育・福祉事業に貢献しました。
岩崎瀧三氏にとって食品サンプルの原点は、幼少期、ろうそくに火を灯した時に水面に落ちた一滴の蝋だそう。
食品サンプルはじまりの第一歩は「オムレツ」。「記念オム」と名づけられたそうです。

さんぷる工房

築百五十年の町家の中で食品サンプルを見て、ふれて、
作って楽しめる観光施設です。

=さんぷる工房北町館で=
レジの足元をみると・・・
床におちたソフトクリーム


カウンターに
こぼれた缶コーヒー

それぞれサンプルです。
本物のソフトクリームで一息いれ、さらに散策。

いがわこみち最長の水路。遊歩道として整備されています。







「掟」


白龍稲荷神社

街中にある小さな小高い岩の上にあります。
疫病を鎮めるために創建されたという神社で岩場の上にあります。


マンホール

清流を泳ぐアマゴのデザイン。


中央に市章。
市章は、全体の形は郡上市の「G」です。美しい山々、清らかな水、
太陽(花)を表しています。

説明は、公式ホームページ、ウィキペディアより。





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郡上八幡 PartⅠ

2017-05-15 | デジカメ紀行
長良川の上流に位置し、「宗祇水」に代表される清冽な水と夏の郡上おどりで有名な郡上八幡。

「郡上八幡北町」は城下町である大手町、柳町、職人町、鍛冶屋町を中心とした14.1ヘクタールの町家群が「統一された町家と水利施設が一体となって歴史的風致を伝えている」と国の重要伝統的建造物保存地区に選定されました。
柳町の家々は侍町のおもかげを残しており、隣家との境に袖壁をもつのが特徴。江戸時代から変わらない地元の暮らしを感じることができます。

岐阜県内では郡上八幡のほか、美濃市の「うだつのあがる歴史的町並み」、「城下町飛騨高山の町並み」、「白川郷、五箇山の合掌造り集落」などが重要伝統的建造物保存地区の選定を受けています。

4月23日訪れました。

郡上八幡旧庁舎記念館

登録有形文化財。
旧八幡町役場をリニューアルした郡上八幡の総合観光案内所です。
お土産・特産品販売コーナー、軽食処等があります。


観光案内所でお聞きしたところ「お城の駐車場がすいているうちに郡上八幡城へ行き、その後町並み散策はどうですか?」とのことでした。

「郡上踊り発祥の地」の碑

郡上八幡旧庁舎記念館の前に。


郡上おどり
毎年7月中旬から9月上旬まで延べ32夜にわたって開催される盆踊り。踊りは10種類あり、寺社の境内・一般の道路・街角の広場など、会場を移しながら開催されます。特にお盆の時期(8月13~16日)に明け方まで夜通し踊り続ける『盂蘭盆会(徹夜踊り)』が有名。踊りは一般参加も可能だそうです。
400余年の歴史があり、日本三大盆踊りの一つ。
1973年国の選択無形民俗文化財に選択され、1996年に重要無形民俗文化財に指定されました。

郡上八幡城へは、細いくねくねした坂を上がって行きます。
もちろん、歩いても行けます。

郡上八幡城(パンフレットより)

天空の城。
近年、人気急上昇の「雲海にそびえる天空の郡上八幡城」の眺め。雲海に浮かぶ郡上八幡城。
朝霧がたなびくのは冬の早朝。これは放射冷却と呼ばれる気象現象で大気中の水分の正常な自然循環を示すバロメーター。
空気中の湿度が高く、朝の冷え込みの強い時に見られます。


駐車場のすぐそばにあります。

首洗い井戸跡




地図


首洗い井戸跡や地図を見ながら進みます。

力石




見えてきました。







入場券


戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数が砦を築き、稲葉貞通、遠藤慶隆の興亡を経て大普請され、寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって幕府から城郭として認められるに至りました。
その後、井上氏・金森氏が相次いで入部。宝暦騒動で金森氏が改易された後、丹後国宮津藩から転封した青山幸道によって殿町に居館が築かれ、旧二の丸は本丸、旧本丸は桜の丸・松の丸に改められました。
明治4年(1871)の廃藩置県とともに廃城となった城は、翌年から石垣を残してすべて取りこわされ、現在の城は、昭和8年(1933)、当時の大垣城を参考に再建され、木造4層5階建の天守閣等は郡上市重要文化財に、一帯の城跡は県史跡に指定されています。

再建された木造の天守閣は、木造再建城としては日本最古のものであると言われています。

郡上八幡城から見おろすと町は魚の形をしているそうです。




顔ハメ看板




衣装を借り、スタッフさん(山内一豊の妻「千代」)と記念撮影。


入り口へ。



木造の階段が続きます。



天守閣へ上がってきました。

御神体




天守閣からの展望。

愛宕公園方面




吉田川方面




山内一豊の妻「千代」は郡上生まれで、賢夫人として名高い。
「千代」」は、弘治2年(1556)、初代郡上八幡城主遠藤盛数の娘として生まれました。千代が3歳のころ、盛数は病死、母の再婚、義父の敗北、流浪。波乱の時がはじまります。やがて千代は、尾張の一豊に嫁ぎました。一豊は信長、秀吉、家康に仕え、最後には土佐24万石の大名に出世しました。その影には、千代の内助の功があったといわれています。

「千代の知恵 賢妻の心得十箇条」が掲げられていました。

千代の知恵




















外にでて、塀の「□△○」から覗いてみました。






辺りの花達。





千代と?。

案内、説明をしてくださいます。

御朱印


美濃和紙職人の加納武さんの手漉きによる黒皮楮の美濃和紙を使用し、郡上八幡城の歴代城主5家の家紋を押印した御朱印です。
「4月に発生した熊本地震で、熊本城も甚大な被害を受けました。郡上八幡城では、同じ城郭としてお城らしい協力を検討しておりましたが、この度、今年度の御朱印の売上げ全額を「熊本城災害復旧支援金」として寄付させていただくこととなりました。」とのことです。

お城を後にし・・・。

郡上八幡城への道を少し上がった中腹にある城山公園へやってきました。

山内一豊と妻(千代)の像。



満開のしだれ桜。






公園の隣には。

岸剱神社(きしつるぎじんじゃ)


手水舎


毎年4月第3土・日曜日の春祭では、八幡神社、日吉神社とともに大神楽競演が行われます。

剣神社の大神楽(県指定重要無形民俗文化財)
江戸時代初期の慶長19年(1614年)、郡上郡気良村(後の明宝村、現・郡上市)はひどい旱魃に見舞われました。この地の神社の神主は雨乞いを行ないましたが効果はなく、宝剣を気良川の河原の岩で洗って雨乞いを行なうと、すぐに雨が降ってきたのだとか。しかし豪雨となり、岩の上の宝剣は大水で流されてしまい、数日後、郡上八幡城城下の吉田川の岩に宝剣が引っかかっているのを住民が見つけました。この知らせを受けた城主遠藤慶隆が、この宝剣を祀るために創建したのが始まり。
創建時は吉田川の川岸に位置していましたが、明治19年(1896年)に移転。明治40年(1907年)には白山神社を合祀。
昭和17年(1942年)、現在地(郡上八幡城本丸跡)に移転されたそうです。

岸剱神社の隣には。

秋葉三尺坊悟竹院

1521年(大永元年)に開基という開山以降22代を数える曹洞宗の古刹です。
1881年(明治12年)秋葉総本殿可睡斎より秋葉三尺坊大権現分身を請し、郡上の火防守護所となってから市民からは「秋葉さま」の名で超宗派的な信仰をあつめています。
早朝6時に始まって1日4回時を告げる鐘の音は、明治時代から100年以上にわたってただの1回も欠かすことなく続いている郡上八幡の自慢のひとつ。
町の人々の暮らしの中にすっかりとけ込んでいる刻(とき)の鐘だそうです。

ランチタイム。

蕎麦とほうば寿司


食後は城下町めぐりです。

説明文は、公式ホームページ、パンフレット、ウィキペディアより。



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