【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

三十三間堂

2024-03-21 | デジカメ紀行

「三十三間堂」、正式には蓮華王院(れんげおういん)と言います。

天台宗の古刹。鎌倉時代に再建された本堂は南北約120メートルの長大なお堂で国宝に指定されています。

堂内の内陣にある柱間が33あることから「三十三間堂」と通称されています。

 

大的大会(おおまとたいかい)

江戸時代の「通し矢」にちなむ弓道大会で、全国から二千人が参加し、楊枝のお加持と同日に行なわれます。特に新成人の晴れ着姿での競技は、正月ならではの華やかさで、京都の風物詩のひとつになっています。

 

3月3日、春桃会(もものほうえ)

「三十三間堂」の名前にちなんで「三」の重なる〈桃の節句〉に行なわれる法会で、華道池坊の献華式と華展や千体観音像を特設の高壇から遥拝するなど、縁日(無料公開)のみの慶祝行事が催され、限定の女性専用「桃のお守り」も授与されます。

 

 出かけてきました。

本堂(西側から)

 

(南側から)

 

(南東側から)

 

(東側から)

 

平安後期、後白河院が、「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」と呼ぶ院御所内に、権勢を誇った平清盛の資財協力によって創建されました。そのお堂は建長元年(1249)、市中からの火災により焼失し、鎌倉期・文永3年(1266)に再建されたのが現存のお堂です。当時は朱塗りの外装で、堂内は、花や雲文様の極彩色で飾られたといい、今もわずかにその名残を留めています。
地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートルの長大なお堂は、和様、入母屋造り本瓦葺き。

 

安置されている本尊千手観音坐像はじめ千体千手観音立像など諸仏すべてが国宝です。
千手観音立像は、平成30年(2018)にそのすべてが国宝指定されたことを記念して、国立博物館に寄託されていた像が本堂に還座し、1,001体が勢ぞろいしました。

同年に二十八部衆像と風神・雷神像の配置が、鎌倉時代の版画やこれまでの学術研究に基づき、本来の状態に戻されました。

 

=千体千手観音立像=

千体の観音像は正式に「十一面千手千眼観世音菩薩(じゅういちめんせんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)」と呼ばれ、観音が困苦の衆生を救うために「十一面と千手千眼」の姿を具備されたものとされます。
堂内では、前後10列の階段状の壇上に等身大の1000体の観音立像が整然と並ぶ形状は、三十三間堂ならではの特徴です。各像は、頭上に十一の顔をつけ、両脇に四十手をもつ通形で、中尊同様の造像法で作られています。
千体の中、124体は、お堂が創建された平安期の尊像、その他が、鎌倉期に16年かけて再興された像です。その約500体には作者名が残され、運慶、快慶で有名な慶派をはじめ、院派、円派と呼ばれる当時の造仏に携わる多くの集団が国家的規模で参加したことが伺えます。
その後、大正から昭和の修理と4度の大修理を繰り返し、平成30年(2018)に約50年の修復を終え千体仏すべてが国宝に指定されました。 

=千手観音坐像=

本堂の中央に、左右の千手観音立像にかこまれて安置されているのが、中尊の千手観音坐像。 

=風神雷神像=

ともにインド最古の聖典とされる「リグ・ヴェーダ」に登場する神で、自然現象を神格化した原初的な神々です。
風神は、ヴァーユと呼ばれ、数頭立ての馬車で天を駆けて悪神を追い払い、富貴栄達を授ける神とされ、一方の雷神は、ヴァルナという水神だといわれます。
仏教では、仏法を守る役目とともに、悪をこらしめ、善を勧めて風雨を調える神と信じられています。
その像形は、古代の信仰や伝説的空想によって、全く日本化されており、後世の二神のイメージを決定づけた名作で、お堂の再建時に造像を統括した湛慶が、その作成に深くかかわっているとされます。 

=二十八部衆像=

古代インドに起源をもつ神々で千手観音に従って仏教と、その信者を守るとされます。いずれも檜材の寄木造り、玉眼を用いた彩色像で、それぞれが迫真的な表情や姿態を見せる鎌倉彫刻の傑作です。

(残念ながら、堂内は撮影禁止です)

 

2021年に整備された池泉回遊式庭園を回ります。

 

<夜泣せん

本堂創建の翌年(1165)六月七日、堂僧が夢のお告げにより発見したという霊泉で「『古今著聞集』には「いつも冷たく美味く汲んでも尽きず、汲まぬ時は余らざる不思議な泉。」と記されています。

夜のしじまに湧き出す音がすすり泣きに似ることから夜泣き泉と言われるようになり、いつからか地蔵尊が奉られ、その「前掛け」を持ちかえり子供の枕の下に敷けば夜泣きが治癒するとの信仰がうまれました。今もそのご利益を求める参拝が続いているそうです。

 

<東庭池泉回遊式庭園>

昭和36年(1961)の後白河法皇770回忌記念事業の際に、「昭和の小堀遠州」と称えられた作庭家・中根金作氏により造園されました。その後、中根金作氏を祖父にもつ中根行宏氏、直紀氏により庭園の整備がすすみ、令和3年(2021年)に保存工事が完了しました。

 

 

 

 

<鐘楼>

 

 

 

 

 

 

 

栁と・・・

 

ソプラノ歌手・雨谷麻世さんによる奉納コンサートや子供たちの歌が披露されました。

 

 

=しょうぐうさん=

一隅を照らす運動から生まれたゆるキャラだそうです。

 

 

 

 

 

説明文は公式サイトを参考にしました。


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馬見丘陵公園(河津桜)

2024-03-17 | 花だより

=馬見丘陵公園=

昭和40年代後半より丘陵西部では真美ヶ丘や西大和ニュータウンなどの大規模宅地開発が始まりましたが、丘陵東部に位置する馬見丘陵公園は、これらの開発から自然や古墳群を保全するため、「歴史と自然に囲まれた憩いの空間」を目指して、昭和59年8月に都市公園(広域公園)として都市計画決定し、同年度より公園事業に着手しました。
平成24年6月、馬見丘陵公園は中央エリア及び南エリアの一部を開園し、全面開園しました。
馬見丘陵は、香芝市・広陵町・河合町など2市3町に跨る標高70m程度の東西約3km、南北約7kmに及ぶ低い丘陵地で、この丘陵は馬見古墳群のエリアと一致し、古墳の集積地となっています。

3月17日、満開の河津桜です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

説明文は公式サイトを参考にしました。


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高取町「町家の雛(ひな)めぐり」

2024-03-15 | デジカメ紀行

日本三大山城に数えられる高取城跡の城下町、奈良県高取町の土佐街道沿いで、春を彩る「町家の雛(ひな)めぐり」が始まりました。

18回目の今年で幕を閉じます。

3月1日から31日まで。

沿道の町家に飾られた華やかなひな人形は、長年風物詩として親しまれてきました。

 

土佐街道沿いには江戸から明治時代の町家も多く、由緒あるひな人形も残っており、土佐街道沿いの商店や町家、約50軒に、持ち主の思いを伝えるメッセージも添え、飾られています。

 

「ジャンボ雛」

竹や角材、布などで外観を製作し、ペンキを塗って仕上げたもので、写真撮影スポットです。

 

 

 

<一般のご家庭に>

 

展示されている家庭の「思い出」

 

 

くすり資料館へ

 

「くすり資料館」で

 

 

 

高取町は、『竹取物語』発祥の地ともいわれ、それに因んで竹筒の中に収まる雛人形も見かけます。

 

 

 

「雛の里親館」で

メイン会場は米蔵を改装。住民らから寄贈された500体を17段のひな壇に並べています。お雛様の隣には、町の人々による手作りの「つるし雛」が。

幕末の文久3年・1863年の貴重なものもあるそうです。 会場の設営や17段もあるひな壇への飾りつけは1カ月かけて行い、街道沿いの菜の花は秋から丹精して育てられたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

=変わり雛、麻雀卓を囲む雛人形=

 

=ひな祭りの歴史=

京都で生まれた「ひいな遊び」が江戸に広まって、庶民に定着したのが「ひな祭り」で、江戸時代中期には、現在のようなひな壇飾りが飾られるようになりましたが、当時の雛人形は高価なもので、庶民の手にはとても届きませんでした。そこで、雛壇代わりに、庶民の手作りで子供や孫の初節句を祝おうという親心から生まれたのがつるし雛だそうです。
今では、桃(長寿)、猿っ子(魔除け)、三角(薬袋香袋)を基本として約50種類の細工があるといわれています。

手作りかかしを街道沿いに並べる「かかし祭り」も平成21年から続けられてきましたが昨年10月に終了。

昨秋の「かかし祭り」で展示した将棋藤井聡太八冠のかかしも並べられています。

 

 

 

 

 

 

 

「じいちゃん・ばあちゃんの館」で

 

=奈良一閑張のジャンボ雛=

竹かご等に和紙を幾重にも張り重ね、漆の代わりに柿渋の汁で何度も塗り固めて作られているそう。
一閑張は、江戸時代の寛永年間(1630年頃)、中国・明の学者である飛来一閑(ひきいっかん)が、創始した漆工芸の技法です。

 

 

高取城の75分の1のスケールモデルを背景にした“大名行列”は壊れたり、汚れたりして段飾りができなくなったお雛様を、来場者に違う形で見てもらえるように大名行列として再現したものです。

 

 

「西川美術」さんで

 

 

江戸時代の=享保雛=

8代将軍・徳川吉宗が活躍した江戸時代の享保年間に始まったもので、もともとは能面師が作ったとされるお顔が特徴です。

衣装は金襴が使用され、女雛には豪華な天冠、男雛の冠にも金が施されています。

 

=奈良一刀彫の段飾り=

奈良一刀彫は、平安時代後期に春日大社の祭礼で飾られたものが起源で、大胆で力強いノミ跡が残る造形と、繊細で緻密な極彩色が施されています。

 

土佐街道、街並み

 

 

 

こちらの建物におじゃまします・・・

 

 

  

 

 

 

 

 

コラボ🎶

 

高取町下土佐・恵比寿神社で

神職さんの姿も見えます。

近づいてみると・・・⁇

 

 

境内社に神農社があり、高取町や明日香村で薬を製造販売している製薬工業組合の人たちが参拝する行事があります。

 

 

 

 

<高取町マンホール>

中心部に町章を表し、周囲に町の花”サツキ”町の木”カエデ”を図案化したものです。

 

説明文は公式サイトを参考にしました。


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馬見丘陵公園、梅

2024-03-04 | 花だより

=馬見丘陵公園=

昭和40年代後半より丘陵西部では真美ヶ丘や西大和ニュータウンなどの大規模宅地開発が始まりましたが、丘陵東部に位置する馬見丘陵公園は、これらの開発から自然や古墳群を保全するため、「歴史と自然に囲まれた憩いの空間」を目指して、昭和59年8月に都市公園(広域公園)として都市計画決定し、同年度より公園事業に着手しました。
平成24年6月、馬見丘陵公園は中央エリア及び南エリアの一部を開園し、全面開園しました。
馬見丘陵は、香芝市・広陵町・河合町など2市3町に跨る標高70m程度の東西約3km、南北約7kmに及ぶ低い丘陵地で、この丘陵は馬見古墳群のエリアと一致し、古墳の集積地となっています。

2月13日に訪れました。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  

  

 

   

 

龍、ハリネズミ、孔雀・・・

 

    

 

説明文は公式サイトを参考にしました。

 


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城南宮

2024-03-03 | 花だより

城南宮

延暦13年(794年)の平安京遷都に際し、都の安泰と国の守護を願い、国常立尊(くにのとこたちのみこと)を八千矛神(やちほこのかみ)と息長帯日売尊(おきながたらしひめのみこと)に合わせ祀り、城南大神と崇めたことが城南宮の創建と伝えられています。遷都にあたり、桓武天皇は風水学に基づき、北に高くそびえる山があり、南が広く開けた湖沼があり、東に清き流れがあり、西に大きな道が続く四神相応の地に都を築きました。
四神とは、東の「青龍」、西の「白虎」、南の「朱雀」、北の「玄武」の聖獣を意味し、青龍は八坂神社、白虎は松尾大社、朱雀は城南宮、玄武は上賀茂神社(賀茂別雷神社)を配しそれぞれ天の四方の方角を守っています。城南宮は「平安城」の「南」に鎮まる「お宮」の意味です。
城南宮は、引越・工事・家相の心配を除く「方除(ほうよけ)の大社」と仰がれています。

家庭円満や厄除や安全祈願、車のお祓い。

住まいを清める御砂や方角の災いを除く方除御札を城南宮で授かる習慣があります。

曲水の宴が行われる神苑は、しだれ梅、椿、桜、藤、躑躅、青もみじ、秋の七草や紅葉に彩られ安らぎの庭になっています。

令和6年の”しだれ梅と椿まつり”は、2月18日から3月22日。

2月18日訪れました。

 

 

<東の鳥居>

 

 

 

<扁額>

 

 

<城南鳥居>

 

明神系の鳥居ですが、「貫」の部分が柱を貫通していない珍しいタイプ。

菊のご紋と中央には城南宮独特のご神紋、三光の御神紋。太陽・月・星を表しています。

 

この三光の紋は、 神功(じんぐう)皇后の軍船の旗印にち なんだもので、方除けの神徳を表して います。

 

<手水舎>

 

拝殿から本殿を

 

 

 

鳥居をくぐった所に植えられています。

 

 

<本殿>

 

   

 

神苑へ

社殿の西に広がる「春の山」では、150本のしだれ梅がうすべに色や紅白の花を装い、春の訪れを告げます。 

 

 

 

 

 

 

 

 

=足元に蕗の薹=

 

=しだれ梅=

ウメは中国原産の花木で、早くに日本に渡ってきたといわれています。

『万葉集』では100首を超える歌が詠まれていることから、奈良時代にはすでに植栽されていたと考えられます。大別すると、食用など実の採取を目的とする「実梅」と観賞用の「花梅」に分けられ、鑑賞用といわれる「花梅」は、花だけではなく、香りや幹の形、枝ぶりなども楽しむことができます。
平安時代の末に編纂された『後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)』には、「梅香を さくらの花に 匂はせて 柳の枝に さかせてしがな」と詠まれた句が収められています。これは、中原致時(なかはらのむねとき)が香りの芳しい梅、花の色の美しい桜、そして柳のようなたおやかな枝、それぞれの良さが一体となった理想の花を思い浮かべて詠んだと考えられています。
江戸時代になり、園芸ブームが到来し、花を観賞するための花梅の品種改良がさかんに行われるようになりました。当時の文献に“しだれ梅”の記述が見られ、宝永7年(1710)の文献『増補地錦抄』には、「白八重ひとへ有 木はよくしだれて柳のごとし」とあります。 江戸時代中期の頃から、平安時代に中原致時が思い描いた三拍子揃った理想の花、“しだれ梅”が世に広まったと考えられます。

 

<しだれ梅と落ち椿>

 

椿は神苑内全域で見られます。

神苑入口から春の山、さらに平安の庭にかけて150品種・約400本の椿が次々に花開きます。

  

  

  

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  

 

   

 

    

 

=与謝野晶子の歌碑=

「五月雨に 築土くづれし 鳥羽殿の いぬゐの池に おもだかさきぬ」

いぬゐ(戍亥)は北西、おもだかは夏の季語の植物で、球根(沢瀉、たくしゃ)は生薬になります。

 

 

 

この辺りは奈良時代から平安時代にかけて宮中で催された歌会を再現した「曲水の宴」が行われます。

  

 

説明文は公式サイトを参考にしました。      


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鈴鹿の森庭園

2024-03-01 | 花だより

鈴鹿の森庭園

日本の伝統園芸文化のひとつであるしだれ梅の「仕立て技術」の存続と普及を目的とする研究栽培農園です。日本最古の「呉服(くれは)しだれ」をはじめ、匠の技と歴史が受け継がれた梅の名木が約200本。毎年、開花時期に合わせ一般公開されています。

鈴鹿山脈を借景に、桃色の大輪の花で彩られた早春の日本の美をご覧くださいと・・・。

一般公開は217()3月下旬(予定)

2月26日訪れました。

 

日本庭園の「見立て」

「鶴島・亀島」や「蓬莱山」といった古くから日本庭園に見られる手法を取り入れ、「梅」を背負った島や山を表現しています。

 

園内入口すぐの場所に植栽されているのは

「天の龍」

 

「地の龍」

どちらも樹齢100年以上と推定される呉服しだれで、現在品種が確認されている中では日本最古の呉服(くれは)しだれと考えられています。

呉服しだれ・・・花は2.5cm程度の中輪で淡紅色。満開のころには花弁のふちが白くなります(覆輪)。

 

 

 

「思いのまま」

 

花は2.5cm程度の中輪。1本の木に淡紅色や白色、絞り(花弁にまだらに色が入る)の花が咲く“絞り紅白咲き(源平咲き)”が特徴的な品種で、「輪違い」とも呼ばれます。

 

=展望台から=

鈴鹿山脈も見えます。

下に見えている白い花は

「玄海ツツジ」

ツツジの中でも特に開花が早い品種で、しだれ梅と同じ時期に花を咲かせます。白や濃いピンク色の花が園内をいっそう華やかに彩ります。

 

「藤牡丹しだれ」

花は2.5cm程度の中輪で淡紅色。蕾は紫色を帯びます。鉢植えで楽しめるしだれ梅の代表的な品種です。

 

「朱雀梅」(難波しだれ)

花色が明るく、よく目立つ。難波性しだれ梅の代表的品種。ほんのり紫がかった紅色が特徴。園内のしだれ梅の中で一番最後に開花します。

 

「酔心梅」

 

「青龍梅」

 

 

 

 

「左の龍門梅」

「右の龍門梅」

 

=ししおどし=

 

霧の演出がされています。

 

 

=水琴窟=

  

 

足元には水仙やパンジーが植えられています。

 

 

 

 

 

 

説明文は公式サイトを参考にしました。


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