【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

子安地蔵寺(こやすじぞうじ)

2021-04-28 | 花だより
子安地蔵寺(こやすじぞうじ)は、和歌山県橋本市菖蒲谷にある高野山真言宗の寺院。
山号は易産山(いさんざん)。「ふじの寺」として知られています。





天平9年(737年)の春、奈良の大仏で有名な東大寺建立に力を尽くした、「行基菩薩」によって開基されました。
ご本尊「地蔵菩薩」は行基菩薩自らが彫られたもので、日本最勝・日本最古の地蔵菩薩です。ご本尊は安産祈願の為に、この地に安置されたものですから「子安地蔵さん」と呼ばれています。
天正9年(1581年)、織田信長勢・信孝による高野攻めの際、その兵火に遭い伽藍境内は焼失してしまいましたが、ご本尊は人里離れた山中に難を逃れ、村人によって発見されました。その地は「かくれがた」と呼ばれ、今も残されています。
その後、紀州藩主・徳川頼宣公の姫君の難産を救ったことで、正保5年(1648年)に頼宣公によって伽藍境内が再興されました。それ以降、歴代藩主をはじめ、臣下の方々も度々ご参詣されました。

「紀伊之国13仏霊場」、「関西花の寺25カ所」の札所。
子安地蔵寺の花暦は、春のツバキと桜で始まり、華麗なフジの季節が終わると、サツキやアジサイが咲き継ぎ、秋になるとキンモクセイが芳香を放ちます。また、ハギなど秋の山野草も楚々として情趣を誘います。冬にはサザンカが咲きます。







<長屋門>



お馴染みの「顔」がお出迎え。

  



門をくぐります。



幹の中から覗いています。




<本堂(左奥)と水子地蔵尊(手前右)>



階段を上がって、振り返ります。





<本堂>







  



本堂の横へまわります。










<鐘楼>





境内には、色々な花が植えられています。



極小輪の椿( エリナカスケード)





  

  

  


  


  


  
  
     
  

  

  

  

  
 

説明文は公式サイトを参考にしました。

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塩岳山 楞厳寺(りょうごんじ)

2021-04-25 | デジカメ紀行
楞厳寺(りょうごんじ)



京都府綾部市にある楞厳寺は、四季のカラスを描いた長井一禾の襖絵により「カラス寺」として親しまれています。
境内のボダイジュ、サルスベリ、ツバキが「三古木」として知られるほか、4月中旬~下旬にはツツジが参詣者を魅了します。

<三古木>
「綾部の古木名木100選」に選ばれた樹木。
ツバキ - 樹齢約400年。白、桃色、赤の咲き分けになっています。
菩提樹 - 樹齢約500年。初夏に白い花が咲き、後に球形の実ができます。
サルスベリ - 樹齢約400年。

「関西花の寺25ヶ所」の第2番札所としても知られています。

7月〜8月下旬、境内の1万平方メートルの池が20数種の蓮で埋めつくされます。
本堂向かいの「大師山」には、ミツバツツジが咲いています。
自生していたミツバツツジが、檀家(だんか)の人達の手入れにより、今では数千株が山の斜面に根を広げています。





<庫裡>

長井一禾により描かれた四季の鴉の襖絵が有名。



春 - 「育雛の間」両親のカラスが巣にえさを運び、三羽の雛を育てている姿が描かれている。
夏 - 「高野杉に鴉」高野山に老杉とカラスが描かれている。
秋 - 「湖畔の鴉」湖のほとりで休息するカラスと川に通じる広大な空間を飛来するカラスが描かれている。
冬 - 「雪中反哺の孝」巣立ちした三羽のカラスが成長してから親に恩返しする姿が描かれている。

長井 一禾(ながい いっか)
明治2年(1869年)~ 昭和15年(1940年))は、明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師。


庫裡の前の庭に

<第一番札所>



庫裡の裏側から、向かいの「大師山」方面。



本堂へ向かいます。




途中にあるのが・・・。

<宝筐印塔>





<日限地蔵堂>


さらに階段を上がると・・・。

<本堂>




元禄時代に建立。柱などの主要部分が松材であったため、老朽化により、2002年(平成14年)春に改築に着手し、2003年(平成15年)秋に完成しました。本堂内陣は折上げ格天井で、枠数96面の秋田杉の板に岩絵具で彩色された様々の花の絵が描かれています。


<梵鐘>

綾部藩に時を知らせる鐘として1792年(寛政4年)に鋳造されました。廃藩後、綾部町が保管していたものを1949年(昭和24年)に招致したもの。


大師山の方へ向かいます。



ミツバツツジのトンネル、札所等をを通り抜けます。













木々のあいだから、お寺を見て。










  


  


  



山を抜け、池の反対側へ出てきました。
















  



<一禾の筆塚>


筆塚の前にあるのが

<弐番札所>



説明文は公式サイト、パンフレットを参考にしました。


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太陽の周りに虹色の輪

2021-04-24 | デジカメ紀行
4月23日、車中から、カメラでパチリ。

以前ニュースで、見ていた現象「ハロ」。


ひこうき雲が横切っています。



電線、ちいさくヘリコプターも映り込んでいますが・・・。


「ハロ」
太陽の周りに現れる、虹のような光の輪のことをハロ・日暈(ひがさ)ともいいます。
ハロは、雲の中にある氷の粒に太陽の光が屈折してできる現象。うすい雲が太陽にかかった時に見えます。

ハロが見られるときは、天気下り坂のサインといわれており、低気圧や前線が接近して天気が崩れる前触れといわれています。低気圧や前線が接近してくると、空高い所から空気が湿ってきて薄い雲ができますが、そこでハロ(日暈)が発生します。

説明文は「株式会社ウェザーニューズ」より。

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馬見丘陵公園、チューリップフェアー

2021-04-18 | 花だより
昭和40年代後半より丘陵西部では真美ヶ丘や西大和ニュータウンなどの大規模宅地開発が始まりましたが、丘陵東部に位置する馬見丘陵公園は、これらの開発から自然や古墳群を保全するため、「歴史と自然に囲まれた憩いの空間」を目指して、昭和59年8月に都市公園(広域公園)として都市計画決定し、同年度より公園事業に着手しました。
平成24年6月、馬見丘陵公園は中央エリア及び南エリアの一部を開園し、全面開園しました。
馬見丘陵は、香芝市・広陵町・河合町など2市3町に跨る標高70m程度の東西約3km、南北約7kmに及ぶ低い丘陵地で、この丘陵は馬見古墳群のエリアと一致し、古墳の集積地となっています。

4月9日訪れました。





駐車場に車を停め散策します。

地元のお店も見えます。











桜は、散りかけていましたが、足元にはネモフィラが綺麗に咲いています。



























花サポーターの方たちの花壇や、地元や学校の方たちの作品が並んでいます。






















オオヤマザクラ













  

  



    




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法隆寺

2021-04-17 | デジカメ紀行
法隆寺
推古15年(607)、聖徳太子と推古天皇により創建されたと伝わります。
「日本書紀」には、天智9年(670)に伽藍を焼失したとの記述があり、8世紀初頭に現伽藍が完成したと考えられます。現存する世界最古の木造建築群として往時の姿を今に伝えています。

4月5日訪れました。




参道は松並木になっており、参道を抜けたところに南大門(国宝)があります。


<南大門>


境内は西院と東院に大きく分かれ、国宝・重要文化財の建築物は55棟。
全体は大垣(重要文化財)と呼ばれる築地塀に囲まれています。
法隆寺式伽藍配置と呼ばれる配置になっており、寺の中心である西院伽藍には、五重塔(国宝)と金堂(国宝)が並び、中門(国宝)と大講堂(国宝)をつないで回廊(国宝)が囲む。東に向かって東大門(国宝)を抜けたところに夢殿(国宝)のある東院伽藍が見えます。国宝は38件・150点、重要文化財を含めると約3000点。
法隆寺地域の仏教建造物として、平成5年(1993)に、世界文化遺産に登録されました。












~東院伽藍~(夢殿)方面



<手水舎>



<中門(国宝)>

入母屋造の二重門。正面は四間二戸、側面は三間。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)ですが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立っています。

左右に塑造金剛力士立像を安置。

  



【聖徳太子1400年遠忌】
法隆寺(斑鳩町)で3日から営まれていた聖徳太子の1400年遠忌(おんき)の「御聖諱(ごしょうき)法要」が5日、結願(けちがん、最終日)を迎えました。 
太子像が安置された大講堂の前に設けられた舞台で法要が行われました。法隆寺の僧侶らが声明(しょうみょう)を唱え、南都楽所(なんとがくそ)が舞楽(ぶがく)を奉納。
清水寺貫主(かんす)が慶讃文(けいさんもん)を読み上げ、僧侶らが「太子和讃」を唱え、偉人の遺徳をたたえました。

五重塔に吹き流しが付けられ、境内の色々な所に幡(ばん)(旗)が飾られるなど寺全体がにぎやかな雰囲気に包まれていました。


法要が行われる舞台、大講堂が見えてきます。

<大講堂(国宝)>
桁行九間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺き。平安時代の延長3年(925年)に焼失後の、正暦元年(990年)に再建。薬師三尊像(平安時代、国宝)と四天王像(重文)を安置しています。







  

儀式で用いられる太鼓などは鎌倉時代に源頼朝から寄進されたもので、今でも現役で使われています。


<金堂(国宝)>

入母屋造の二重仏堂。桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。上層には部屋はなく、外観のみ。
二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため修理の際に付加されたもので、その年代については諸説あるそうです。

  



<五重塔(国宝)>

木造五重塔として現存世界最古のもの。高さは32.55m。
初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高く設計されていることが大きな特色です。五重目の屋根の一辺は、初重の屋根のおよそ半分のサイズです。塔身もまた、下層から上層へ行くにつれ、細くなっています。
五重塔は全体を心柱が貫く構造になっていますが、その心柱を支えるのが地下1.5mの深さにある大礎石。礎石の上部には舎利容器などが納められており、舎利容器の中には釈迦の遺骨が6粒納められています。

鎌がみえます。

鎌は約1メートルの木製の柄に、30センチほどの鉄製の刃が付けられています。
昭和の大修理を指揮した寺の元管主(住職)、佐伯定胤(じょういん)(故人)が書き残したとされる文書「佐伯定胤五重塔鎌表白」には、鎌倉時代に落雷で寺が火災になった際、4人の大工が命を賭して消し止め、駆け付けた西大寺の興正菩薩(ぼさつ)が鉄の鎌4本を五重塔に掲げて魔よけにしたことが記されています。
昭和の大修理に際し、約1300年前の創建時に使った古釘(くぎ)を再利用して鎌を作られたそうです。

<回廊(国宝)>

金堂などとほぼ同時期の建立。廊下であるとともに、聖域を区切る障壁でもあります。大講堂寄りの折れ曲がり部分より北は平安時代の建立で、当初の回廊は大講堂前で閉じており、大講堂は回廊外にあったそうです。

回廊からの桜。





回廊を進んで、大講堂へ。

大講堂内から、舞台を。



大講堂と桜



<上御堂>

鎌倉時代。奈良時代、天武天皇の皇子である舎人親王(とねりしんのう)の発願によって建立。現在の建物は鎌倉時代に再建。
堂内に、平安時代の釈迦三尊像と室町時代の四天王像が安置されています。





<聖霊院(聖徳太子像)>

鎌倉時代。東室、西室という建物(僧房)でした。
鎌倉時代に聖徳太子信仰の高揚にともなって、聖徳太子の尊像(平安末期)を安置するために、東室の南端部を改造したそうです。


<東大門(国宝)>

西院から東院へ向かう道筋に建ち、三棟造りという奈良時代を代表する建物の一つです。八脚門。


~東院伽藍~
東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立されました。
回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿(ゆめどの)が建っています。


夢殿がある東院伽藍から、法要が行われる金堂や五重塔が並ぶ西院伽藍への行列です。




























<夢殿(国宝)>







奈良時代の建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置しています。


<絵殿、舎利殿(重文)>

鎌倉時代の建立。絵殿には、聖徳太子一代の事蹟を描いた障子絵が納められています。舎利殿は聖徳太子が2歳の春に、合掌された掌中から出現したという舎利を安置しています。


<手水舎>





<鐘楼(国宝)>

鎌倉時代。袴腰(はかまごし)と呼ばれる形式の建物で、内部には「中宮寺」と刻印された奈良時代の梵鐘が吊るされています。


西大門へ向かいます。







  





<礼拝所>



<西大門>



マンホール

法隆寺の五重塔、竜田川と紅葉が描かれ、町の木「クロマツ」と町の花「サザンカ」が添えられ、周囲は法隆寺五重塔の高欄と同じ「卍崩し」の模様になっています。


説明文は公式サイト、パンフレットを参考にしました。





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佐保川、桜

2021-04-08 | 花だより
佐保川は、奈良市を代表する河川であり、世界遺産の奈良市春日奥山を源流に、奈良市から大和郡山市を流れ、途中で秋篠川や岩井川などと合流しながら、大和郡山市・川西町・安堵町の境界付近で大和川に合流しています。

万葉集などの歌枕としても有名な佐保川一帯には、奈良市内中央部を南北に貫く形で約5キロに渡り、壮大な桜並木が広がっています。
奈良市恋の窪、佐保川・奈良県図書情報館付近は、川べりに広いオープンスペースがあり、食べ物を広げて歓談される方の姿も見られます。

約1300年前、平城京に都が移され、前の都だった藤原京(現在の橿原市)からいろんな建築資材を運ぶ際、初瀬川を下り佐保川を舟でさかのぼって運んだ記録が残っています。

3月26日訪れました。

奈良県図書情報館辺りから、佐保川の東側を南方面へ向かいます。









オープンスペースが見えてきます。




親子連れが水遊びをしたり、弁当を広げたり・・・。


キャンバスを前にされている方も・・・。



南方面



北方面


佐保川の西側から。



















  

  
説明文は公式サイトを参考にしました。




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高瀬川、桜

2021-04-06 | 花だより
高瀬川は京都市内の東側を流れる有名な鴨川のすぐ西側を並行するように流れる南北の川です。

1611年に商人の角倉了以・素庵父子によって京の街と伏見を結ぶためにつくられた運河です。
現在は鴨川において京都側と伏見側で分断されていて、上流は「高瀬川」、下流はを「東高瀬川」「新高瀬川」と呼ばれています。

昔は荷物の揚げ降ろしをする船入は9カ所ありましたが、現存するのは木屋町二条にある一之舟入のみです。一之舟入を出たところでは復元された高瀬舟を見ることができ、春になると桜の名所としても賑わいます。また、周辺には数多くの幕末の事変を示す石碑が残されています。








3月22日、高瀬川に沿って、四条から仏光寺辺りまで、ぶらぶらしました。







  


仏光寺辺りで寄り道。

北方面


南方面

広い方の川が鴨川、幅の狭い方がみそそぎ川。
鴨川沿いも、桜や雪柳が満開です。

みそそぎ川は、丸太町通の下で鴨川から取水され、鴨川右岸河川敷を南に流れて、五条手前で再び鴨川に戻される運河。
名の由来は、古くから鴨川そのものが「みそぎ」をする川であり、そこからきているのではないかともいわれています。
用途は高瀬川への導水です。
この水路に夏、川端の料亭から「床」が張り出します。

再び高瀬川へ。




  
鴨も気持ちよさそう・・・。


説明文は公式サイトを参考にしました。


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達磨寺

2021-04-04 | デジカメ紀行
だるま発祥の地
『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せっていた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くなりました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。

聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。
これが、聖徳太子が飢人のためにつくったお墓、すなわち達磨大師の墓とされ、鎌倉時代にその上にお堂が建てられました。

3月20日訪れました。




<西門>


<門の前にある雪丸像>



門をくぐると、左手に本堂が見えます。


手前の藤の木の幹。



<雪丸像>





聖徳大師の飼い犬で、人の言葉を理解でき、お経を読むことができたとされる雪丸。
王寺町のマスコットキャラクターの雪丸はこの像から誕生。


<露盤>





<本堂>



平成16年(2002)に建て替えられました。数多くの文化財が展示されています。

本尊として木造聖徳太子像、国指定重要文化財・鎌倉時代。
木造達磨坐像、国指定重要文化財・室町時代。
木造千手観音坐像、王寺町指定文化財・室町時代。 


<手水舎>




<一夜竹>



達磨大師御杖竹ともいわれる。
伝説によると、達磨大師が携えていた竹杖を挿したところ、一夜にして芽が出てきたといい、毎月タケノコができるともいう。
蓬莱竹(ホウライチク)という種類の竹で、直径が2.5cm、節間が30cmくらいの竹が300本ほど群生しています。
もとは熱帯・亜熱帯のインドシナ原産で九州・沖純地方では生垣として植えられており、一部では野生化しています。


<問答石>

推古天皇21年(613)に聖徳太子と飢者に身をやつした達磨大師が出会い、歌を詠み交わした場所と伝えられる。
横に伏せているように見えるのが(達磨石)でそこから南に約10mのところにあるのが(太子石)とされる。

(達磨石)                           (太子石)

   
 



<鐘楼堂>

明治24年(1891)に再建。


<薬師石>



眼を閉じて近寄り、両手で抱けば病気が全癒すると伝えられる石。
寛政3年(1791)『大和名所図会』に見える当寺の境内絵図にも「やくし石」が描かれているそうです。


<方丈>



寛文7年(1667)に建立。屋根が左右非対称の造りになっている珍しい構造。(奈良県の重要文化財)



  

  

  



<山門(南門)>


説明文は公式サイトを参考にしました。



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