【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

観音寺(普賢寺大御堂)

2019-04-26 | 花だより
京都府京田辺市普賢寺の観音寺(普賢寺大御堂)周辺の田んぼで、菜の花が満開になり、1日から無料で摘み取りができるようになりました。





4月6日訪れました。

観音寺(普賢寺大御堂)カンノンジフゲンジオオミドウ

京都南部の南山城の古刹で、天武天皇の勅願により義淵僧正が創建。その後、聖武天皇の御願により良弁僧正が伽藍を増築し、息長山普賢教法寺と号し、十一面観音立像を安置したといわれています。1437年(永享9年)の火災により建物のほとんどが焼失、大御堂だけが再建され現在に至っています。
ご本尊の十一面観音立像は、奈良時代を代表する天平仏の代表的な仏像として国宝に指定されています。(JRおでかけネットより)

観音寺へ続く桜の参道の両脇には、菜の花畑があります。平成12(2000)年より、京田辺市観光協会と地元農家が稲刈り後の田んぼ約67ヘクタールを栽培し、毎年花見ウォークの会場になります。花見ウォークでは菜の花畑に入り、自由に摘み取ることもできます。

観音寺がみえてきました。




参道


本堂



本堂は昭和28(1953)年3月に再建。単層で入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんかわらぶき)で南に面しています。

本堂内は、住職さんの説明を受けて拝観できます。

十一面観音立像(国宝)を安置。像高172.7cm、奈良時代、8世紀の作。
一木造の心木のうえに木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて造形した木心乾漆造で、この技法は奈良時代から平安時代初期に多用されたようです。
頭上面の一部や台座蓮肉部も当初のものです。

絵による、般若心経

字の読めない人でもわかるように書かれたそうです。
これだけは撮影を許されました。

鐘楼

手前に「二月堂竹送り復活の地」という石碑がありました。

奈良に春を告げる「お水取り」の行事。東大寺、二月堂の舞台を駆けぬける松明の炎は有名です。
2月20日からの前行、3月1日から2週間にわたる本行に先立ち、2月中旬に行われる「竹送り」の行事があります。

松明に使われる真竹は、昔、京都山城地方などから送り竹の風習によって調達されていました。第二次世界大戦や昭和28年の風水害によりしばらくの間途絶えていましたが、昭和50年代に入り、京田辺市の山城松明講の人々によって40年ぶりに復活されました。

ここ観音寺(普賢寺)で、道中の安全を祈願する竹寄進の法要が行われ、7本の真竹は車を引いたり、肩に担いだりされ、東大寺に向かいます。
(奈良観光ボランティアガイドのサイト参考)


地祇(ちぎ)神社

本堂の脇にあります。




観音寺の鎮守とされ、大国主命など3柱を祀る式内社です。

境内で。


参道付近で。





汚水管ノンカラーマンホールです。
市の花「ヒラドツツジ」がデザインされています。
中央は京田辺市章。
京田辺の田の文字をかたどり、丸い円は市民の融和を意味し、横に突き出た部分は無限にのびゆく京田辺市を表現したもの。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高見の郷

2019-04-23 | 花だより
しだれ桜 高見の郷
私の家系はもともと檜(ひのき)や杉を育てる林業を営んでいました。
しかし、林業の衰退に伴い山はだんだん荒れて行きました。
そんな時、山を有効活用できないかと考えていた父と
花が好きで県外まで見に行く母から「高見の郷」は誕生しました。
日本全国桜の名所はたくさんありますが、しだれ桜ばかり1000本は大変珍しいです。
桜の成長を、私たちとともに見守っていただければ幸いです。  高見の郷代表 島崎照章
(ホームページより、転記)



 
奈良県吉野郡東吉野村杉谷。


名峰・高見山近く、標高650mの丘に、シダレザクラが1000本余り。
4月10日~4月30日オープン。2019年4月17日 現在、 8分咲き。


途中に設けられているパーキングから、受付までは送迎バスで。
受付を済ませ、かなりの坂道とカーブをシャトルバスで、天空の庭付近まで上がります。





着きました。



メインステージ辺り。店などが出ています。









いろいろな所に灯篭が置かれています。







記念桜苑 希望の森


記念碑と共にたくさんの桜が植えられています。









千年の丘(展望台)へ向かいます。

「一目千本」の桜の濃淡のピンクを、ユキヤナギの白、レンギョウの黄が彩ります。









さらに階段を上がります。







スミレも・・・。


お土産はこれ。ここでしか買えません。
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピンクムーン

2019-04-19 | デジカメ紀行
19日金曜日の夜に昇る月は「満月」で、平成最後の満月です。
さらに4月の満月は、ネイティブアメリカンには「ピンクムーン」と呼ばれてきたそうです。

月がピンク色に輝くわけではありませんが、桜などピンク色の花が咲く時期を照らす満月には、
ピッタリの俗称ですね。



屋根越しに(21:38撮影)



(21:41撮影)



少し雲が、かかってきました。(22:05撮影)


説明は、tenki.jp(一般財団法人日本気象協会が運営している天気予報を提供するウェブサイト)より。

ちなみに・・・
20日の月も綺麗。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

椿本チエイン千本桜バスツアー

2019-04-16 | 花だより
椿本チエイン千本桜バスツアー
2019年3月31日(日)
ことしも椿本チエイン工場内の芝生エリア(ミニサッカー場)が、この日に限り一般に無料公開されます!
工場設立時に植樹された桜は約1000本!満開の頃30工場まわりがピンク色に染まっているのが307号線からも見ることができるのですが、こちらの芝生エリアからはその桜が一望でき、まさに圧巻です!
飲食も可(アルコールを除く)ですので、ピクニックがてらお出かけになってはいかがでしょうか?
尚、当日は専用のシャトルバスのみ入場可。一般車やバイク、徒歩などでは入場できませんのでご注意ください。(駐車禁止除外指定車標章をお持ちの車両は事前に申請すれば入場できます。)

との案内を見つけました。さっそく出かけてきました。

椿本チェインは、チェーン、自動車部品、マテハン(マテリアルハンドリング は、生産拠点や物流拠点内の原材料、仕掛品、完成品の全ての移動にかかわる取り扱い)の3事業を手掛ける1917年創業の老舗機械メーカー。
産業用チェーンでは世界シェア1位を誇り、生産ラインを担うコンベヤ用や船舶エンジン用、産業機械用、エスカレーター用など多種多様に幅広い用途で使われるチェーンを製造。

椿本チェイン京田辺は
2002年春、京田辺市田辺甘南備台、京阪奈学研都市の最北端に設立された新工場です。

近鉄新田辺駅前からシャトルバスに乗って向かいます。

ガイダンスホールの前で、降りると係の方が、案内してくださいます。



工場見学のためのガイダンスホール

(公式サイトより)

工場案内のガイダンスとして新設されたエントランスホール。

顔はめパネル


建築空間を生かし、単に技術を見せるのではなく、チェーン=つなぐを意図したメッセージ展示を目指されているそうです。
企業のミッションを伝達するシンボルとして、製品のチェーンプレートでレオナルド・ダ・ビンチを表現。
約2万個のチェーンプレートを幅1.2m×高さ1.6mのべースに取付け、エントランスドアから見るとレオナルド・ダ・ビンチ。近くへよるとチェーンプレートの塊という錯視効果をねらったとか。来場者と従業員とのコミュニケーションがより、活性化するようにという相乗効果が図られているようです。

チェーンは、オリンピック開会式の総理大臣登場の際や、嵐のコンサートで舞台上に飛び出てくるパフォーマンス時などに使われていたり、
身近な所では、回転寿司に使われているプラスチックのチェーンもこちらの製品だそうです。

説明を受けた後、お花見へ。

残念ながら、少し開花には早かったようです。







芝生エリア

















説明文は公式サイトを参考にしました。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都御苑、桜

2019-04-15 | 花だより
京都御苑

京都御所の周りの公園で、市民の憩いの場になっています。広い御苑内には1100本もの桜の木が植えられ、ゆったりとお花見を楽しむことができるスポットとして人気です。

3月29日、訪れました。



近衛邸址で「糸桜」と呼ばれる枝垂桜の濃い紅色や白色の花が咲き、近衛池に枝を垂れる花も見られます。

「昔より 名には聞けども今日みれば むべめかれせぬ 糸桜かな」

安政2年(1855年)、京都御所最後の天皇・孝明天皇が詠まれました。





池の水はほとんどなかったんですが・・・。




皇宮警察本部京都護衛所の平安の庭に咲く糸桜。

門の外から失礼します。















八重と一重の花が混じって咲く「車返桜(くるまがえしざくら)」は、この花のあまりの美しさに後水尾天皇(ごみずのおてんのう、108代天皇、在位1611~1629)が御車を引き返えさせたことから名付けられたと言われますが、車返桜が八重の花か一重の花かを確かめるために車を引き返えさせたという逸話もあります。


残念ながら、蕾かたし。


「マツに生えたサクラ」があると言うので・・・。





ちらほらです。



桜松を見ていると消防車が通り過ぎて行きました。




皇宮警察の消防車両(警防車)。



他に、御苑内で見られた花達。







説明文は公式サイトを参考にしました。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴鹿の森庭園

2019-04-13 | 花だより
2014年にグランドオープンした「鈴鹿の森庭園」。

*伝統の匠の技を 次代へとつなぐ*

日本の伝統園芸文化のひとつであるしだれ梅の「仕立て技術」の存続と普及を目的とする研究栽培農園で、赤塚植物園グループが運営しています。「呉服枝垂(くれはしだれ)」を中心に、匠の技と歴史が受け継がれた名木が約200本。毎年の開花時期に合わせ一般公開しています。鈴鹿山脈を借景に、桃色の大輪の花で彩られた早春の日本の美をどうぞご堪能ください。(ホームページより)

3月22日訪れました。






ゲートを抜けると正面に見えてきます。

天の龍


地の龍


白虎梅


園内を回ります。





メジロがやってきていました。






鈴鹿山脈を遠くに見て。







桜も咲き始めています。

寒緋桜


紅河津桜


足元には、いろいろな色のクリスマスローズが。













つつじも植えられています。







思いのまま


御幸


御柳梅


来年度はもう少し早めに訪れたいと・・・。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壷阪寺

2019-04-09 | デジカメ紀行
壷阪寺
南に桜の名所吉野山を控え、北に万葉のふるさと大和三山奈良盆地を一望におさめる壷阪の山に建っています。
真言宗の寺。西国三十三所観音霊場の第六番札所。
本尊十一面千手観世音菩薩は眼病に霊験あらたかな観音様、目の観音様として全国各地から毎日多くの参拝者が訪れます。
創建は寺蔵の『南法花寺古老伝』によると、大宝3年(703)年に元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んで祀ったのが始まりといわれています。境内からは当時の藤原宮の時期の瓦が多数出土しています。

3月19日訪れました。

= 仁王門=




仁王尊




= 多宝塔=

平成14年4月落慶、本尊、大日如来(平安時代)。
多宝塔の外見は二重塔であるが、本来は一重の宝塔のまわりに裳階がついた形です。
宝塔とは、円形の燈身に宝形造の屋根をのせたものをいい、多宝塔の上重の腰が円形で、上に丸みがついているのはその名残りです。
多宝塔は9世紀に天台・真言の密教が興ってから密教寺院で建てられた塔です。

= 灌頂堂=

平成17年4月落慶。






= 天竺渡来 大釈迦如来石像=





菩薩像の前に。
パワーストーン台座

靴を脱いで台座に乗ってください、と。
マラカイト(緑):視力改善・厄除け
ラピスラズリ(青):健康増進・頭脳明晰

かなりの階段。



見えてきました。

= 慈眼堂=

平成18年秋落慶。





=三重塔=





=天竺渡来佛伝図レリーフ「釈迦一代記」=







=魔除け橋=


3月31日まで開催されていた、「大雛曼荼羅」。

礼堂にご本尊の十一面千手観世音菩薩のほか、1500体の雛の大雛曼荼羅が飾られています。
本尊の「十一面千手観世音菩薩像(じゅういちめんせんじゅかんぜおんぼさつぞう)」も一緒に拝観できます。

=禮堂=
国指定重要文化財(再建 室町時代)。
この御堂は本尊を礼拝するために建てられました。当寺の創建当初から、建てられていたと伝わっています。1096年に焼失、1103年に再建。その後鎌倉時代初期に焼失し、直ちに再建されるが、室町時代初期にも焼失。その後再建されるが、江戸時代には、模様替えなど大改築がなされ、規模も縮小されました。
昭和解体修理時に行われた地下発掘調査並びに残存していた部材から、室町時代の禮堂の姿が判明し、御堂の大きさ等を室町のそれに戻して、建てられています。








お雛様を通して、本尊十一面千手観世音菩薩の姿が見えます。





変わり雛を探しながら後ろに続く八角円堂へ。













おむすびころりん。


何か釣れたようです。



下に目をやると・・・。


皆で手を振ってご挨拶。


後ろから失礼します。



=八角円堂=
創建は、大宝3年(703)。
本尊十一面千手観世音菩薩を祀る八角形の御堂。現在の八角円堂は江戸時代の再建と言われる。
八角堂の著名な遺構としては法隆寺東院夢殿・栄山寺八角堂・興福寺北円堂などがあり、壷阪寺の本堂は日本で初めて建立された八角堂ではないかという学説も出ています。

本尊十一面千手観世音菩薩



真ん中にあるのが、眼病封じの鈴。
心を清浄にして鳴らして下さい、と。

夫婦観音


思う壺おみくじ
中におみくじが入っていました。

沢市の杖



びんずるさんも安置。




外からみた礼堂と八角円堂。




=お里澤市像=

投身の谷の上に立つお里澤市の像。



「壷阪霊験記 」
今より三百年以上昔、座頭の沢市は三つ違いの女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。沢市は盲目ゆえ琴三味線を教え、お里は内職というつつましい暮らしであった。
そんな沢市の胸中に一つ不安が生まれていた。というのも明けの七つ(午前四時)になると、お里が毎晩床を抜け出していたからだ。
「もしや好きな男が…」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、この三年もの間欠かさず壷阪寺の観音様に朝詣でをしていると訴える。
疑った自分を恥じる沢市はともに観音様にお参りすることにしたが、心の中は盲目がゆえに不遇な暮らしをしているのだと自分を責める。そして、一度お里を家に帰して、お里を自由な身にしてやろうと自分の身を投げてしまうのであった。
不吉な予感であわてて戻るお里は、非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまう。
しかし、二人のせつない夫婦愛が、観音様の霊験により奇跡が起こり、沢市・お里は助かり、沢市の目が開眼した。本堂横手には、そのお里、沢市が身を投げた、投身の谷と言い伝えられている谷がある。

「もう一つの霊験記 さよ姫伝説 」
壷坂の村に住む姫君が、尊い聖の説法にでかけ、親孝行する者には仏神が感応すると聞いた。 貧しくて父親の十三回忌に何もできないのを悲しんでいると、たまたま陸奥国の商人が15~16歳の女性を買いに来たので、進んで我が身を売り、そのお金で父親の菩提をとむらうことができた。 母を残し、遠い陸奥国まで来た姫君は、15~16歳の女性が必要とされた理由を知る。 ここでは毎年、大蛇に人のを供えなければならず、ある親が娘の身代わりを求めていたのである。 決められた池の中嶋で待つと、やがて長さ10丈(30メートル)もある大蛇が現れた。 しかし姫君が御経を読むと、経典読誦と親孝行の功徳により、大蛇は成仏を確信して歓喜し、姫君を乗せて天に昇る。姫君は実は弁財天、大蛇は実は壷坂の観音菩薩であり、末世においても信心があれば二世安楽うたがいなしと結んでいます。





=めがね供養観音=



毎年10月18日に本堂で、めがね供養会法要が営われます。

所々に、埋め込まれています。





大涅槃石像、大観音石像、ラベンダー畑方面へ向かいます。



=鐘楼=



=天竺渡来阿弥陀如来石像=








=天竺渡来大涅槃石像=





後方に見えているのが・・・。

=天竺渡来大観音石像=



全長20m、全重量1200t。
インドハンセン病救済事業のご縁でインドからご招来したもの。 インド国民の協力と南インドカルカラの三億年前の古石がインド政府や様々な方のご支援で、提供され、延べ7万人のインドの石工が参加してすべて手造りで製作された。 20mの巨岩は66個に分割して彫刻し、日本に運ばれ組み立てられました。 この巨岩を支える土台は深く基礎岩盤にまで掘り下げられ、数万巻の写経と土台石が埋納。
胎内には数万巻の写経と胎内石が納められ、66個の石が1本の巨石となっています。
この大観音石像はインドの文化勲章受章者シェノイ氏及びその一門によって製作されたもので昭和58年3月12日開眼法要が営まれました。


=「感謝の風の手紙」供養塔=


さきへ下って行きます。


桜大仏ポスター。


撮影時(3月19日)はこんな感じ。

きっと今頃はきれいに咲いていることでしょうね。

=天竺渡来 大石堂(納骨永代供養堂)=
インド・アジャンタ石窟寺院をモデルとし延べ12万人の日本・インドの人々によって彫刻、組み立てられ、総重量1,500tにおよぶ壮大な石の御堂。

内部は・・・。

十一面千手観音石像 5m


大仏舎利塔 6m


石造浮彫一字金輪曼荼羅


さらに下へ行きます。




=天竺渡来 大釈迦如来石像=




振り返ってみると。


=蓮石曼荼羅=




=大講堂=

平成12年落慶、本尊、弘法大師像(鎌倉時代)。






雨が降ったりやんだりのあいにくの天気でした。桜の季節に訪れたく、なりました。

説明文は公式サイトを参考にしました。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀬戸内「うどん」と「うさぎ」の旅 PartⅢ

2019-04-02 | デジカメ紀行
一夜明け、7日は朝から小雨模様。
今日は大久野島の歴史に触れ、島を巡ります。

昭和4年に旧陸軍の毒ガス工場が建設されてからは、軍事機密上地図から消されていた悲劇の島です。
終戦後に毒ガス工場は解体され、昭和38年からは島全体が国民休暇村となっています。
70年以上経った現在でもその当時の建物が点在しています。また、芸予要塞(げいよようさい)時代の砲台跡も残っています。
芸予要塞とは、瀬戸内海の忠海海峡と来島海峡の線に設置された大日本帝国陸軍の要塞。1897年(明治30年)3月に建設が開始されました。

毒ガス工場と毒ガス障害
東京第二陸軍造兵廠忠海製造所は、日本陸軍の毒ガス工場として昭和4年に大久野島に設置され、昭和20年終戦後米軍により破壊。
この工場では各種の毒ガスや信号筒が製造されたが、イペリットの生産に重点が置かれていました。
従業員の総数は約五千名に達し、その多くはせき、たん、呼吸困難を伴う難治の慢性気管支炎にかかり、イペリットが発癌物質であったため喉頭癌・肺癌・胃癌などが多発。
広島大学医学部(内科・病理)及び国家公務員等共済組合連合会忠海病院は昭和27年以来、毒ガス障害の解明と治療を行なっている一方、障害者の切実な要望にこたえ、国は29年『ガス障害者のための特別措置要綱』を制定して救済を開始し、その後医学的研究の結果に基づいて、救済の範囲の拡大しました。
現在では、広島陸軍兵器補給廠忠海分廠の従事者も救済されているそうです。

朝食の前、休暇村職員さんに本館付近、キャンプ場、海水浴場辺りを30分ほど案内していただきました。

ビジターセンター


大久野島毒ガス障害死没者 慰霊碑

1937年に毒ガス製造による犠牲者鎮魂の殉職碑が建てられました。
戦前戦中の一時期、極秘裏にこの大久野島で毒ガスが製造され、それに従事して毒ガス障害を負い命を落とした元従事者の霊を慰めるための祈念碑です。

「くのしまの けむりに逝きし 同胞の み霊よ とわに 安らけくあれ」

広島県立忠海高等学校ホームページによると、高等学校の生徒さん有志と休暇村大久野島の職員さんにより、大久野島神社及び慰霊碑周辺の清掃が行われています。
折鶴を折り、慰霊式典を行い、黙祷と献花がなされます。10年以上も受け継がれている行事だそうです。

大久野島神社

1929(昭和4)年に毒ガス工場が開所された際に、従業員が社殿を修復して「大久野島神社」として、1932年に現在地に移転しました。境内では様々な行事、毎月8日の大詔奉戴日(大東亜戦争が始まった日)や四大節(元旦、紀元節、天長節、明治節)や入学式、卒業式が行われましたが、現在は手付かずの状態で、うさぎ達の住処?うさぎ達が守っている?そうです。

島に生息する野生ウサギは全てアナウサギ。戦前、戦中は、毒ガスの動物実験用にウサギが飼われていました。戦中・戦後には食用にされたといわれていますが、戦後の毒ガス関連処理の際に全羽殺処分されたため、当時のウサギの子孫はいません。
現在生息しているうさぎは、1971年に地元のある小学校で飼われていた8羽が放されて野生化し、繁殖したそうです。

うさぎ耳のオブジェ

何が聞こえるかな?
これは、集音器と呼ばれるもので、頭を入れると集音器に集まった音を聴くことができます。島を抜ける風音や海のさざ波といった水音など、うさぎになった気分で楽しめます。 

大久野島灯台

竹原市忠海の沖合い2,3kmにある大久野島にある灯台で、三原瀬戸9灯台のひとつとして明治27年に建てられました。灯台は平成4年の改築工事で建替えられましたが、旧灯台は香川県の四国村に移築保存されています。

ラッキーなことに朝陽が・・・。




本館へ戻り、朝食の後、島をぐるっと巡ります。




毒ガス資料館



明治30年代から日露戦争開戦に備えて砲台を築いたことから、日本の歴史に名を刻み始めた大久野島。第一次世界大戦が始まると化学兵器を製造・保有する軍事施設が作られ、大久野島は地図から消されました。この施設で従事した地元の人々は戦後長く健康被害に苦しめられました。ここで造られた化学兵器の使用により多くの人が命を落としたことを忘れてはいけません、と。

島内遊歩道は、7月の豪雨災害の影響により、通行止めになっている箇所があります。

三軒家毒ガス貯蔵庫跡





毒ガス貯蔵庫跡



猛毒で皮膚がただれるびらん性ガス・イペリットがここに貯蔵されていました。2つの部屋それぞれに、10トン入るタンクがコンクリートの台座に置かれていました。すぐ前にあったイペリットの工場から、管を使ってこのタンクに毒ガスが送り込まれていました。イペリットやルイサイトなどの液体毒ガスは、内部に鉛を貼った鉄製のタンクに入れていました

長浦毒ガス貯蔵庫跡



島内で一番大きい貯蔵庫で、今も巨大な貯蔵タンク跡とコンクリートの台座が残っています。ここには約100トン入るタンクが6基置かれていました。戦後処理の際、毒性を取り除くために火災放射器で焼き払って、黒くただれた壁画が今でもその凄惨さを物語っています。戦後、ここに残っていた毒ガスは土佐沖の太平洋に海洋投棄されました。

北部砲台跡






大久野島が軍事的にクローズアップされたのは、日露戦争前の1902年に芸予要塞が設置され、大久野島に砲台が設置されたときからでした。北部砲台には8門の大砲が設置されていました。
毒ガス工場があった時代には、ここに大きな毒ガスタンク(砒素を原料とするルイサイト)が置かれており、戦後処理の際にタンクを焼却処理したため、1996年に砒素汚染が発覚し、1999年に土壌を洗浄処理しました。

24㎝加農(カノン)砲の砲台跡








発電場跡



毒ガス工場の電力を賄った発電場。ディーゼル発電機を重油で動かし発電しました。当初は240V発電機が3台でしたが、1933年に3台、1934年には2台を増設しました。さらに、1941年には忠海から22KVの海底ケーブル2本によって受電し、既設の発電設備を併用して電力を賄いました。敗戦前には、この建物の中で女子動員学徒による風船爆弾の気球部分の満球テストも行われました。

芸予要塞時代の桟橋

石で造られた固定の桟橋。
当初は人間や資材などが陸揚げされてましたが、毒ガス工場の秘密を守る為本土からよく見えるこの桟橋は使用できなくなったそうです。

***うさぎからのお願い***
弱い動物です。ストレスがたまりやすく骨をおったりケガをしやすいため、追いかけまわしたり抱っこしたりしないでください。病気やケガをすると野生環境で暮せなくなってしまいます。
人やウサギが安全に過ごすためにも道路や道路脇、建物の玄関前ではウサギとふれあわないでください。

口もとに手をやらないでネ!
うさぎは歯がするどく目があまりよくありません。口もとでエサを与えるとかまれてケガをします。

お菓子やパンを食べさせないでネ!
うさぎはかぎられたものしか食べることができません。

ゴミのポイ捨てはやめてください!
ゴミのポイ捨ては島を汚すだけでなく、それを口にしたり釣り糸がからまったりと島にすむ動物たちにとっても深刻な問題です。

島にうさぎをすてないでネ!
飼育されていたうさぎはきびしい自然環境の中で暮らしていくことができません。うさぎに限らず、島に生き物を置いて帰ることはやめてください。

所々に置かれている水入れ

きれいな水を入れてください。

それぞれ集団があり、縄張りもあるそうです。
 











5月頃には赤ちゃんうさぎの姿も見られそうです。
好みのうさぎ目当てのリピーターさんもあるんだとか。

島の歴史にふれ、うさぎ達とふれあい、大久野島を後に船で忠海港へ戻ります。





おおきな時計には、4時の位置にうさぎがいるのですが、なぜだかわかりますか?と。
答えは最後に・・・。

うさぎの思い出「プチ・スタンプラリー」
専用スタンプ用紙を受け取り、オリジナル・スタンプを3つ押すと…。

「チャーム」を頂きました。

設置されている、マンホール




待合所に設置されています


最近スーパー等で、捨てられているキャベツの外葉を見ると、大野久島のうさぎ達が喜ぶだろうなー、と・・・。

4時の位置にうさぎがいるのは、「十二支の卯(うさぎ)は4番目だから」だそうです。

説明文は公式サイトを参考にしました。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする