【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

八坂神社

2023-11-26 | デジカメ紀行
日本三大祭りの一つ、祇園祭を祭礼とする八坂神社。

四条河原町交差点から西楼門を望む。


秋の「京都非公開文化財特別公開」。11月11日訪れました。
通常の参拝では見られない国宝本殿の内部や神宝などを見る事ができます。

令和2年(2020)12月、八坂神社本殿は国宝に指定されました。
その他、境内・境外合わせて26棟が重要文化財に新たに追加され、既指定の3棟と合わせると国宝1棟、重要文化財29棟もの建造物が境内に建ち並びます。

創祀については諸説ありますが、社伝としては2つの説が伝わります。
1)渡来人が神様をお祀りしたのがはじまり
斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊(すさのをのみこと)を当地(山城国愛宕郡八坂郷(やましろのくにおたぎぐんやさかごう)に奉斎したことにはじまる。

2)お坊さんがお堂を建立したのがはじまり
貞観18年(876)南都の僧・円如(えんにょ)が当地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立ったことにはじまる。

本殿の下には現在は漆喰で固められていますが、平安京の東の鎮めである青龍の棲む龍穴があると伝えられており、東山の麓に位置する当地は古来より神を感じる神秘的な地であったことが窺えます。

京都三大祭・日本三大祭として知られる祇園祭(ぎおんまつり)も国家の安寧と疫病消除を願ってはじまった八坂神社の祭礼です。


<境内図>



<西手水舎>

重要文化財
明治20年に南手水舎が、昭和3年に西手水舎が建造されました。
神社にお参りする際は、まずは手水舎にて心身を清めてから参拝するのがマナーとなります。


<疫神社>(摂社)

文政6年(1823)頃建立
蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと)
素戔嗚尊が南海を旅された際、2人の兄弟の神様に宿を請います。巨旦将来(こたんしょうらい)は裕福でありましたが宿を貸さず、蘇民将来は貧しいながらも粟で手厚くおもてなしされました。感激された素戔嗚尊は、後年疫病が流行しても「茅の輪」をつけて「蘇民将来の子孫なり」といえば災厄から免れると約束されました。疫病退散の御利益のある神様として信仰されています。


<太田社>(末社)

重要文化財
大正2年(1913)建立
ご祭神 猿田彦命(さるたひこのみこと)宇受女命(うずめのみこと)
道しるべ 芸能の神様です。


<大国主社>

大国主神(おおくにぬしのかみ)
大国主社の主祭神は神話の「因幡の白兎」(いなばのしろうさぎ)で知られる大国主神(おおくにぬしのかみ)で、「大国さん」と親しまれ、縁結びの神としても知られています。



<大国さまと白うさぎ像>

日本神話「因幡の白兎」で大国主社の御祭神の大国主神がウサギを助ける場面を模しています。


<北向蛭子社>

正保3年(1646)建立
事代主神(ことしろぬしのかみ) 「えべっさん」とも称される神様です。商売繁昌の神様として信仰されています。

<ふれあいえびす像>

北向蛭子社の御祭神であります事代主神は「えびっさん」と親しまれており、商売繁盛を祈願する多くの方がお参りされます。
祈願した後にこの像に触れるとご利益があるとされます。


<神馬舎(しんめしゃ)>

江戸時代には境内に神馬舎があり、昭和3年(1928)に現在地に移転建築されました。
二頭のうち栗毛神馬は寛文8年(1668)に釜之座中から奉納されたものです。



<本殿>

檜皮(ひわだ)ぶきの大屋根で、「祇園造(ぎおんづくり)」という国内唯一の建築様式。
特徴は、多くの神社では別々に建つ本殿(神様を祀る場所)と拝殿(人が拝む場所)が、一つの大屋根で覆われています。
また、大屋根にある庇(ひさし)のさらに外側に「又庇(またびさし)」が伸び、その下にはいくつもの部屋があります。
神社の本殿建築として最大規模を誇り、2020年には国宝に指定されました。
本殿は創建以来、数度の火災で焼失し、その都度再建されました。記録では、平安後期の1148年には現在と近い形だったとされます。

八坂神社独自の建築である「又庇(またびさし)」の造りは境内の摂末社にも見られ、本殿の様式の影響を受けて建てられたことが分かります。この造りの摂末社は境内に複数あります。
「美御前社、北向蛭子社、日吉社、疫神社」(4社全て重要文化財)








特別公開では、まず本殿内の後ろ側を拝観します。

かつて会議などに使われた「後戸(うしろど)」と呼ばれる部屋には、江戸時代の絵師・円山応挙(まるやまおうきょ)が2羽の鶏を描いた「番鶏図(ばんけいず)」の衝立てが置かれ、外陣(げじん)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)をはじめとした3柱の祭神を祀る内々陣の裏手に位置します。こちらから手を合わせました。

本殿内の拝観を終わり常磐殿(ときわでん)へ。

江戸前期の再建時に奉納された神宝(市指定文化財)を展示。
黄金で彩られた「冕冠(べんかん)」と「礼冠(らいかん)」。
蒔絵(まきえ)と螺鈿(らでん)で装飾した「靭」(ゆぎ、矢を入れる武具)や、祭神の履物として調えた「草鞋(そうかい)」なども展示。

特別拝観を終え、境内をまわります。

<透塀(すいべい)>



明治中期に建造されたものとされ、本殿の東側と神饌所を囲む塀です。檜皮葺の素朴造りで、唐草模様の上質な彫刻があしらわれています。
本殿の周りを回ってきました。



<美御前社(うつくしごぜんしゃ)>

天正19年(1591)建立

美御前社のまえに=美容水=

美御前社の脇より流れ出る清水で、肌に2、3滴付けることで身も心も美しくなるとされます。


<悪王子社>

神様には「和魂(にぎみたま)」と「荒魂(あらみたま)」という魂が存在していると考えられていて、こちらでは本殿に祀る素戔嗚尊(すさのをのみこと)の「荒魂」を祀っています。悪王子の「悪」とは「強い力」の意。厄除、災難除のご利益、諸願成就のご神徳があるといいます。




<大神宮社>

伊勢神宮内宮の神様である天照大御神(あまてらすおおみかみ)と、伊勢神宮外宮の神様である豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀り、身体健康のご利益があるといわれます。


<忠盛灯籠(ただもりとうろう)>

白河法皇が祇園女御のもとに赴こうとこの辺りを通った時に、前方に鬼のようなものが見えました。討伐を命じられた平忠盛は鬼の正体を見定めるために生け捕りにしたところ、灯籠に明かりを灯そうとしていた社僧でした。人々は忠盛の思慮深さと勇ましさを称え、この話は平家物語や日本外史にも記されています。


<御神水>



<舞殿(ぶでん)>

重要文化財
慶応2年に延焼し、明治7年に再建されたものです。
祇園祭りの際に三基の神輿が奉安されるほか、結婚式や奉納舞踊などが行われます。
花街の置屋や付近の料亭から奉納されたたくさんの提灯は、毎夜明かりが灯され幻想的な雰囲気を醸し出します。


<西楼門及び翼廊>

重要文化財
西楼門…明応6年(1497)建立、翼廊…大正14年(1925)建立。
四条通に面する八坂神社最古の建造物。応仁の乱により焼失し、明応6年(1497)に再建されました。大正2年(1913)に四条通の拡張にともない東に6メートル、北に3メートル移動し、大正14年(1925)に左右に翼廊を建て現在の姿となっています。


<南楼門>

入母屋造り。慶応2年に焼失、明治12年に再建された表参道に位置する正門になります。

                 <狛犬>
  

                <狛犬(陶器製)>
  
  

<南手水舎>



神社にはほとんどの場合は複数の神様を祀っています。本殿に祀られている神様が主祭神。
境内にある祠(ほこら)=小さな社殿=を「摂社」あるいは「末社(まっしゃ)」と呼んでいます。
「摂社」は主祭神と関係の深い神様を祀っています。「末社」は主祭神とはあまり関係のない、客分の神様を祀っています。

説明文は公式サイトを参考にしました。


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岩戸落葉神社

2023-11-11 | 花だより
京都市北区の山間部、雲ヶ畑、中川とともに「北山三村」の一つに数えられる「小野郷」の地にひっそりとたたずむ小さな神社です。 「源氏物語」の登場人物の一人である女二の宮の別名「落葉の宮(おちばのみや)」の名前は、当地を閑居としたことにちなんでいると言われています。
境内には、4本の銀杏の巨木があり、晩秋にはそれらの木々が葉を落とし、境内一面が黄色い絨毯で敷き詰められたかのようになります。京都屈指の隠れた紅葉(黄葉)の名所です。

11月9日訪れました。

「岩戸落葉神社由緒」
本殿御祭神
稚日女神(わかひめのかみ) 元天津石門別稚姫神 (亦名 岩戸社)
弥都波能売神(みづはのめのかみ)  元堕川神社 (亦名 落葉社)
瀬織津比咩神(せおつひめのかみ)  元堕川神社  (亦名 落葉社)

摂社
御霊宮御祭神  落葉姫命(おちばひめのみこと)

現在は相殿社となっているが、岩戸社は今から千有余年前、延喜式神名帳所載の大社であった。大社とは、霊験特に著しく、皇室、朝廷に深くつながり、一般庶民の信仰が厚く、特別の取り扱いを受けた社である。また、御霊社は朱雀天皇(930年~946年)の皇女二の宮で、堕川神社のほとりの丘の麓(岡ノ本)に住み、余生を送られた落葉姫を祀る。
社殿は元和(1614年~)の御代、不慮の災厄により堕川神社に遷座され相殿社となったが、現在地に遷された年代は不詳である。堕川神社も式内社として、かっては清滝川の上流である堕川、岩谷川、笠谷川の三川合流の地点にあった。
社頭は再度に亘る模様替にて複雑をきわめたが記録は伝わらず、いつの頃からか岩戸落葉神社として称されるようになった。惜しむべきは、その名残をとどめている社前の狛犬が盗難にあい、社宝と崇めていたものが無くなり、氏子にとってはただ慚愧に絶えない。(堕川は後に清滝川となる。)
(頂いたパンフレットより転記)
 






<扁額>

東郷平八郎の書






<日下部五右衛門翁彰功碑>

地域林業に貢献された方のようです。


<拝殿>





拝殿の後ろにあるのは・・・
<落葉神社>


<岩戸神社>


<狛犬>
   
 

裏手には岩が・・・




境内の様子






  

  








今頃は落ち葉でもっと境内が敷き詰められていることでしょうね。
紅葉も進んで・・・。



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舞鶴赤レンガパーク

2023-11-07 | デジカメ紀行
赤れんがパーク内の建物は、舞鶴鎮守府の軍需品等の保管倉庫として、明治33 年(1900 年)に着手されて以来、大正10 年(1921 年)までに次々と建築されました。明治期のものは、明治34 年~ 36 年の3 年余りの短い期間に建てられていますが、日本海海戦が行われたのが明治38 年(1905 年)ですから、まさに当時の日本の国勢が伺えます。これらは、外国産の鉄骨が使用されるなど、当時の国内の工業の未熟さが感じられる一方で、後の大正期に建てられた倉庫と比べ、外観に意匠的な工夫が凝らされ、急ピッチで進められた工事であるにもかかわらず、丹念に作られています。 これに対して、大正期のものは、国産の八幡製鉄造の鉄骨と組み合わせて大空間を作るなど、工法の違いも興味深いところです。



赤れんがパーク駐車場に車を停めて赤れんがロードを進みます。






見えてきたのは・・・
<赤れんが5号棟「赤れんがイベントホール」>









堅牢な造りを活かし、 平成24年(2012)に開館した5号棟。
当時は直接蒸気機関車が乗り入れていたことから、扉や天井が高く 赤れんが倉庫群の中で最も規模が大きいのが特徴です。 電動クレーンなど 当時のまま残されており 床には線路の名残が。
ホールは見通しの良い縦長の作りです。


<4号棟「赤れんが工房」、3号棟「まいづる智恵蔵」>

3号棟
先人の智恵を継承し、智恵を育む場として、平成19年(2007)に「まいづる智恵蔵」という名前で開設しました。 棟の外観に残る黒い染料は、目立たないよう色塗られた戦時中の名残りです。
現在では、舞鶴や海の京都エリアの土産物が並ぶ赤れんがショップのほか、 舞鶴唯一のコワーキングスペース・様々な企業が集まるシェアオフィスを備えた、舞鶴市民と観光客で賑わう活気のある施設となっています。

4号棟
明治35年(1902)に旧海軍兵器廠の倉庫として建設されたれんが造の倉庫で、 終戦までは雑器庫として、戦後は民間倉庫会社の倉庫として使われました。


<2号棟「舞鶴市政記念館」>

吹き抜けのれんが空間を持つホールや飲食店を備え、人々の交流の場として、平成6年(1994)に開設。 カフェやイベントホール 舞鶴の歴史を展示した「舞鶴市のあゆみ」や、 パーク全体を案内するインフォメーションカウンター、遊覧船チケット売り場も。








窓ガラスなど 当時の手作りガラスをそのまま残しながら、扉や窓・瓦屋根などに当初の形式を再現しつつ、 平成24年(2012)に創作工房や音楽スタジオ等を備え、、市民のものづくりの拠点として開館しました。
現在では、マルシェイベントや音楽イベント、展示会、ファッションショーなど大きなイベント利用の他に、 結婚式や披露宴会場としても利用されています。







<芝生広場>



停泊中の船などを見ながら赤れんが1 号棟へ向かいます。
















ガイドに沿って進みます。



防衛省と地域社会との協力を象徴するエンブレム

背景に握手のデザイン、前面に人と人とが手を取り合うデザイン、そして緑色の色調により、防衛省が国民の理解と協力のもと施策に全力で取り組んでいく意思を表しています。

舞鶴観光協会キャラクター「チョキまる」

舞鶴漁港で水揚げされるズワイガニで冬の味覚の王者と言われる「舞鶴かに」をPRしている元気な男の子。
海軍ゆかりの地でもある同地にちなみ、水兵の格好をしています。


<赤れんが1 号棟「赤れんが博物館」>



























建物の中へ入ります。
舞鶴の赤れんが倉庫にまつわる話だけでなく、世界のれんがにまつわるいろいろな展示や話があります。
この建物は、日露戦争開戦の前年、明治36 年7 月に舞鶴海軍の魚形水雷庫として建てられました。舞鶴のなかでも最古の鉄骨れんが建造物で、2008 年に国の重要文化財にも指定されています。 建物も貴重な展示物です。













ホフマン窯


ホフマン窯が再現されています。





<マンホール>

市の花「ツツジ」を全体に描いたもので小さいサイズ。


京都府舞鶴市水洗化50周年マンホール。


赤れんが倉庫と羽を広げて舞っているような鶴(舞鶴)が描かれたデザイン。
「赤れんが倉庫」「下水化50周年記念」「舞鶴市下水道」の文字。
下水道の「水洗化50周年」を記念して令和元年から設置されました。


説明文は公式サイトを参考にしました。

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