【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

奈良散策・興福寺菩提院大御堂

2016-05-29 | デジカメ紀行
奈良国立博物館・特別展
「国宝 信貴山縁起絵巻 朝護孫子寺と毘沙門天信仰の至宝」展




毘沙門天王の聖地として聖徳太子により創建されたと伝えられる信貴山朝護孫子寺(しぎさんちょうごそんしじ)。
その篤い信仰のもとに制作された国宝 信貴山縁起絵巻は、日本三大絵巻の一つに数えられる平安絵画の名品として知られています。

山崎長者巻、延喜加持巻、尼公巻の全三巻には、鉢が空を飛び米俵が舞い上がる、剣をまとう童子が大空を駆けめぐるといった摩訶不思議なストーリーが、躍動感あふれる画面の中に次々と展開します。

この人々を魅了してやまない信貴山縁起絵巻の全貌を一堂に紹介し、その寺院縁起としての意義を朝護孫子寺の信仰の歴史の中に位置づけようとするものです。全会期中を通じて三巻すべての場面を同時公開。朝護孫子寺の寺宝の数々を関連する寺外の名品とともに公開することで、信貴山毘沙門天王への信仰が生み出した造形の魅力にも迫ります。
奈良国立博物館HPより

信貴山縁起絵巻は全長計35メートル越えだそうです。
<命蓮上人のマジカルパワー!>
仏道に励み、神通力を身に付けた命蓮上人。托鉢は鉢が空を飛びます。
醍醐天皇は病気平癒の祈願を命蓮上人に頼みます。
何十年も行方知れずだった命蓮を、姉の尼公は、東大寺大仏様の教えで信貴山への道を知らされます。

不思議な世界に触れた博物館、リニューアルされた、なら仏像館「こころ新たに、永久(とわ)の時と対話する場所」を後にし・・・。

西側から見た奈良国立博物館



鹿たちものんびり。

興福寺菩提院大御堂へ向かうことにしました。

春日大社一の鳥居から、三条通りを西へ進んだ南側。道を挟んで北側が興福寺五重塔です。

塀と大きな木々が見えます


説明


木標
  


興福寺の伽藍「菩提院大御堂」
「十三鐘(じゅうさんかね)」の俗称で知られています。
聖武天皇の奈良時代、733年(天平5年)法相宗(ほっそうしゅう)を中国から伝えた玄(げんぼう)僧正が住んでいたと伝えています。
入口に、鹿よけなんでしょうか、木の柵が有ります。

柵を開けて入ります。





大御堂

現在の建物は1580年(天正8年)に再建され、
昭和45年大修理されました。
ご本尊は阿弥陀如来坐像(鎌倉時代作・重要文化財)。不空羂索(ふくうけんさく)観音菩薩、稚児観音菩薩立像が安置されています。

「稚児観世音菩薩像」額





間から、興福寺五重の塔が見えます。

鐘楼

梵鐘は永享8年(1436年)の鋳造。
かつては昼夜十二時(とき)だけではなく、明け七つと六つの間の早朝勤行の時にも打たれたことから、「十三鐘」の通称を持っています。

鐘楼の横に蓮の小さな鉢が

「奈良の早起き」は有名で、朝起きて、自分の家の所で鹿が死んでおれば、大変なことになるため、競って早起きしたといわれています。

昔、興福寺の小僧さん達が御堂で手習い(習字の稽古)をしていた時、一頭の鹿が三作の大切な草紙(習字の紙)を食べたので、三作がケサン(文鎮)を投げると、鹿の急所に命中し、鹿を殺してしまいました。
当時、「春日大社の神鹿を殺した者は、石詰の刑に処す」と云う掟があり、三作は子供とは云え、13才にちなんで、一丈三尺の縦穴を掘って、死んだ鹿を抱いて縦穴へ入れられ、石と瓦で生き埋めにされました。
三作は、父が早く亡くなって、母1人子1人で暮らしていましたが、その日より母「おみよ」さんは三作の霊を弔う為、明けの七つ(午前4時)、暮れの六つ(午後6時)に鐘を撞いて供養に勤めると、49日目に観音様が現れました。それが現在大御堂に秘仏として安置されている「稚児観世音菩薩像」です。

穴の上に建てられています

この悲話は、越前生まれの浄瑠璃・歌舞伎作者「近松門左衛門」が1700年頃(元禄年代)世話浄瑠璃「十三鐘」と題して脚本し、
有名になりました。

亀石の上の「三作の供養塔」


同境内地に石亀があるのは、「三作の生前が余りにも短命で可哀想で、次に生まれる時は亀のように長生きできるように」との願いにより、その上に五重の供養塔を建てられたものだそうです。

子を思う母親のー念。「私が生きている間は、線香の1本も供える事が出来るが、私がこの世を去れば鹿殺しの罪人に香華を供えて下さる方はいない。」と思い、紅葉の木を植えました。

各地に「鹿に紅葉」の絵がありますが、”石子詰の悲しい親子愛”によって、この地よリ発せられたものだそうです。

また、南側にある大木は、銀杏とけやきの未生の木ですが、母親が三作を抱きかかえている様であると云われています。

手水舎の龍


はじめて、菩提院大御堂を訪れ、悲しい物語を知ることができました。
母の愛は、強し。

すでに散っていましたが、「なんじゃもんじゃ」の大木もあります。

説明はホームページを参考にしました。


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沙沙貴神社・佐佐木大明神

2016-05-25 | デジカメ紀行
佐佐木源氏 発祥の地
沙沙貴神社・佐佐木大明神

全国の佐佐木源氏ゆかりの人たちがお参りされます。
宇多源氏・佐佐木源氏・近江源氏のご先祖をお祀りしています。
丸亀藩・京極家が再建された、本殿・権殿・拝殿など指定文化財八棟の大型神社建築です。
年間を通して全国の佐々木さんが参拝されています。
ぜひ、佐佐木源氏発祥の地へおかえりください。


JR安土駅南方、7千坪のうっそうとした森を境内に持っています。
古く、沙沙貴山君が崇敬した延喜式内社。
中世からは、近江の守護佐佐木氏の氏神として厚い信仰を受けて栄えた「佐佐木源氏発祥の地」です。

佐佐木氏は、宇多(うだ)天皇(869~931)の皇子、敦実(あつみ)親王(892~966)の玄孫(やしゃご)である、源成頼(みなもとなりより)が近江國・佐々木庄に下り、成頼の孫の、経方(つねかた)が佐佐木姓を名乗ったことに始まります。

本殿、透塀、中門、権殿、拝殿、楼門、東廻廊、西廻廊の8棟は平安・鎌倉時代の様式で江戸時代に建立。いずれも滋賀県指定有形文化財。


沙沙貴の杜 近江百華苑(ささきのもり おうみひゃっかえん)でもいろいろな花がみられます。

神話の時代に「少彦名神」(すくなひこなのかみ)さまがササゲの豆の
鞘(さや)に乗って海を渡って来た伝説から
「ササキ神社」が始まったと伝えられています。

延喜式内社沙沙貴神社のご祭神〔佐佐木大明神〕
沙沙貴神社では、四座五柱(よんざいつはしら)の神々を佐々木大明神として祀っています。
第一座「少彦名神(すくなひこなのかみ)」神代の昔からお鎮まりの産土(うぶすな)の神
第二座「大毘古神(おおひこのかみ)」沙沙貴山君の祖神
第三座「仁徳天皇(おおささきのすめらみこと)」沙沙貴の地に由縁深い
祭神
第四座「宇多天皇(うだのすめらみこと)」「敦実親王(あつみのみこ)」
宇多源氏の祖神

沙沙貴神社(ささきじんじゃ)の神紋、「平四つ目」。

随所に神紋が見られます。


「なんじゃもんじゃ」が満開と聞いたので・・・。


「なんじゃもんじゃ」とも呼ばれる成長すると高さ30メートルにもなるモクセイ科の落葉樹。実際の名前は「ヒトツバタゴ」。
長崎県の対馬や木曽川沿いの岐阜県や愛知県に隔離分布する珍しい樹木です。この地域以外でも野鳥などにより種子が運ばれ自生することもあり、その名の通り「何という木じゃ?」と、より一層、珍重されてきました。
花の見頃は五月中旬の一週間程度。

後方に見えるのは、楼門。樹高とボリュームがすごい!。







足元には

姫萱草


木彫りのフクロウ


ラン


カタバミ


境内へ
楼門



江戸時代中期(延享4年、1747年)平安時代の様式、葭葺、二層門。


楼門をくぐると
手水舎


西回廊


絵馬殿




東回廊


東西廻廊は江戸時代後期(弘化5年、1848年)作。

東回廊の前にあるお祓い所


周りは


紫つゆ草


横から見た「なんじゃもんじゃ」


うらしま草

群生地でもあるそうです。

拝殿

江戸時代後期(弘化5年、1848年)桁行・梁間とも三間、方形。

幣殿後ろに本殿

本殿は江戸時代後期(弘化5年、1848年)五間社流造 向拝三間 銅板葺。

透塀


呑月の庭




御柳(ぎょりゅう)






落葉小高木。樹高3~5m。江戸時代に渡来し、庭木や公園樹として
植栽されています。
針葉樹のような葉が特徴で花径1㎜ほどの小さな5弁花が多数集まって花穂を作り、枝が細いので花穂の重みで柳のように垂れ下がります。
春と秋、二回花が咲きます。
呑月の庭に咲いていたものです。
境内のいろいろな場所で、見ることができます。

少彦明神

御祭神 少名彦神 沙沙貴山君

幸福(しあわせ)の撫でカエル石

来者如帰(くものカエルがごとし)
カエルを撫で幸福(こうふく)をお祈りします。

磐境(いわきょう)
願かけ石


勾玉

物事の弥栄(平和と繁栄)をお祈りします。

権殿 聖社(ひじりのやしろ)

御祭神は置目姫命 源雅信 源秀義 源氏頼 乃木希典 乃木靜子
護國の英靈。
江戸時代後期(弘化5年、1848年)。

権殿の前に
乃木将軍御手植の松




乃木家は佐佐木四郎高綱の後裔で、乃木希典将軍と静子夫人は深く当神社を崇敬されました。「乃木将軍御手植の松」は明治39年6月28日に参拝された時、ご自身で鍬を持って植えられた松です。

「乃木さんのお言葉」碑

このお言葉は、安土小学校に立ち寄り児童たちに話された言葉です。

境内社へ



鳥居をくぐると

少童神社(わたつみじんじゃ)、影友稲荷神社、加茂社、八神社
愛宕社が並んで鎮座しています。

歳徳神社

境内社群の中央に鎮座。

花がいっぱいです。
匂い蝋梅


花菖蒲


姫うつぎ


放水銃

本殿の方に向けられていました。

瓢箪木


アケビ

後ろは本殿です。

カラー


石灯籠

指定文化財。鎌倉時代後期。

天然記念物「さざれ石の庭」


双葉葵


ドクダミ


鳴子蘭


本殿横から。


境内へもどって・・・。
夏蝋梅


空木(うつぎ)


ドウダンツツジ

木曽路の春

何かな?


上に目をやると

おみくじが結んでありました。

花筏


獅子頭


東参道へまわります。
鳥居


こちらから入ると
ニゲラ






境内を出て西側を散策し、表参道の方へ。

突抜忍冬(つきぬきにんどう)


アメリカなんじゃもんじゃ


楷(かい)




中国原産のウルシ科落葉高木。中国の孔子廟に植栽されているところから学問の聖木とされ、日本には大正時代にもたらされました。
平成14年敦実親王ご誕生壱千壱百年式記念植樹。

ツワブキ





モミジ


大手毬


唐おがたま


表参道





その他こんな花達にも出会いました。













300種余の花木が植えられており四季折々の花が楽しめそうです。


10月に行われる近江源氏祭(おうみげんじさい)は佐佐木源氏一族の人たちが全国より参集して、これまでの感謝と、これからの平和と繁栄を
お祈りするお祭りです。

説明はパンフレット、ホームページを参考にしました。






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萬葉植物園

2016-05-15 | 花だより
萬葉植物園
昭和7年に萬葉集にゆかりの深い春日野の地に昭和天皇の御下賜金を頂き、約300種の萬葉植物を植栽する、 我国で最も古い萬葉植物園として開園されました。

9,000坪の園内は、萬葉園・五穀の里・ 椿園・藤の園に大きく分けられています。

4月27日藤の花が満開と聞き行ってきました。

春日大社の駐車場に車を停め東入り口から入ると、「藤の園」です。

春日大社の社紋が藤の花であることから「藤の園」が造られ、20品種・ 約200本の藤の木が植栽されています。
目の高さで咲く藤の花が見られます。

全体案内図(イメージ)


「藤の園」辺り案内

入り口を入ると見えてきます。

剣沢
 
回遊式庭園内の池で、古くから剣沢またはつるぎの沢と
呼ばれていました。
前に見えるのは、テイカカズラの蔓です。

甲比丹


白甲比丹





麝香藤



本紅



岡山一歳



昭和紅





口紅藤



蹲踞の池辺り




鯉もいます。



くりんそう



菖蒲



黒龍




八重黒龍



本紅藤



春日砂ずり



九尺藤

九尺藤枝



白野田




辺りに咲いていた花達。

花大根


ハハコグサ


ムラサキサギゴケ


ハルジオン


コウゾリナ


シャガ


「藤の園」から、「萬葉園」へ移動します。

萬葉園
万葉集に詠まれた植物「万葉植物」を植栽する萬葉園は神苑の中でも国内最古の萬葉植物園として 開園されました。
万葉名で詠まれた植物の8割以上の標本展示園 として作られています。

万葉集を象徴する植物
「紫草(むらさき)」万葉名:むらさき 現代名:ムラサキ
万葉歌中にこの花の名前が使われており、植物の根っこで紫の色を染めた特殊有効色素成分を含むことから、 古代より染料や薬用として利用され、大切にされてきました。
飛鳥・奈良時代の万葉集に始まり、 平安時代の枕草子や源氏物語から近代の宮沢賢治に至るまで数多くの文学作品に登場し、 『日本の伝統文化を象徴する植物』として格別に扱われています。

万葉集に詠まれた植物にはそれぞれに万葉名があり、その多くは食用・薬用・衣料・染料、さらには建築・工芸の材料など、実用的な用途を持つものばかりです。
その中には現代名と異なるもの、 また一つの万葉名であっても現代では多数の該当する植物説があり、それらを含めると約300種類の植物が栽培されています。


和歌と一緒に栽培されています。

さくら





フジバカマ





ツツジ




こちら、お金がいっぱい(笑)。

一両(アリドウシ)


十両(ヤブコウジ)


百両(カラタチバナ)


千両(クササンゴ)


万両(ヤブタチバナ)


遠くに目をやると「御衣黄」が見えました。



萬葉園の中央には、萬葉時代の庭園を思わせる造りの池があり、 その池の中央の中ノ島には「臥龍(がりゅう)のイチイガシ」と呼ばれる 老巨樹(奈良市指定文化財)が幹を地に長く臥せて繁っています。
園内中央部の浮舞台では、5月5日(祝)、11月3日(祝)と春秋2回、奈良時代より、絢爛豪華な王朝の風情も伝承されてきた雅楽・舞楽が「萬葉雅楽会」として 奉納されます。

中ノ島

浮舞台とイチイガシが見えます。

臥龍(がりゅう)のイチイガシ




中央にある遥拝石


池には鯉が。


鯉の餌を横取り?するカラス。


この辺りには、会津八一の歌碑、島崎藤村や折口信夫の歌碑もあります。

近辺に植栽されています。

ススキ





オオイグサ





アオイ





ツボスミレ




周りで見られる花達。

カラスノエンドウ



座論梅





あんず



紫蘭



オモダカ



カマツカ


正門へ向かって行くと・・・。

コムギ



二條オオムギ



大根花



温海カブ


さらには・・・。

アマドコロ



イカリソウ


正門を入った所で・・・。

苔と





黒蝋梅



正門にある碑


説明は公式ホームページを参考にしました。



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大和文華館

2016-05-10 | 花だより
琳派と風俗画 - 宗達・光琳・乾山・抱一-
桃山時代には戦乱が収まり、都市が整備され、行事や祭礼が再興されて、諸芸能も活発になります。絵画においても、絵師たちは市井の光景に目を向け、風俗画が盛んに描かれます。
展覧会では国宝「婦女遊楽図屏風(松浦屏風)」をはじめとする風俗画と、宗達、光琳、乾山、抱一などの琳派作品を、人々の生活を彩った工芸作品と合わせて展示します。
重要文化財の「扇面貼交手筥」尾形光琳筆 もみられます。(大和文華館HPより)

4月23日行ってきました。

学芸員さんの説明を聞きながら・・・。

続いて、庭園を巡ります。











































アジサイ、ササユリの開花のころに来てみたいです。











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四天王寺、聖徳太子千四百年ご遠忌

2016-05-07 | デジカメ紀行
四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り、「この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。
総面積3万3千坪(約11万㎡)甲子園球場の三倍。

南大門




南大門から中門(仁王門)を

中門は中心伽藍の南端、南大門の北に位置し、脇の間に伽藍の守護神である金剛力士(仁王像)をまつっていることから
「仁王門」 と呼ばれています。

金剛力士像
(吽形)密迹金剛力士 (阿形)那羅延金剛力士
 
大仏師松久朋琳・宗琳両師の作です。


伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つです。
明治以後の四天王寺は、明治維新の神仏分離令により、それまで四天王寺に所属していた神社が離されましたが、人々からは庶民信仰の寺、お太子さまの寺として深い信仰を受け、諸行事は従来どおり行われました。

後方(幕が掛かっている)のは工事中の五重塔です。
五重塔の前にまわると、上を見上げてくださいと・・・。

相輪
 

聖徳太子創建の時、六道利救の悲願を込めて、塔の礎石心柱の中に仏舎利六粒と自らの髻髪(きっぱつ)六毛を納められたので、この塔を
「六道利救の塔」といいます。
塔の入口は南北にあり、南正面に釈迦三尊の壁画と四天王の木像を
お祀りしています。
全長12.3メートル。五重塔全体の1/3もあるそうです。


聖徳太子の千四百年ご遠忌(おんき)!
命日の〇〇回忌と同じ意味で、仏教の宗派で、開祖や中興の祖といった偉い祖師様の年忌法要の場合に使用されます。
本山寺院では大きな行事を催したり、建物の修繕を行います。

中心伽藍回廊


左に折れると・・・。

金堂

聖徳太子のご本地仏である救世観音をお祀りし、四方を四天王が守護しています。基壇下の青竜池より、白石玉出の清水が湧いており、この水を亀井堂に引いていると云われます。

後方は、講堂です。
経典を講じたり法を説いたりする七堂伽藍の一つのお堂です。講堂内陣は中央を境に、東を冬堂、西を夏堂と呼びます。冬堂には現世の人々の悩みや、苦しみを救う十一面観世音菩薩、夏堂には来世極楽に人々を導く丈六阿彌陀如来をお祀りしています。
現世と来世の二世に亘り、人々を安楽へ導き給うようにとの願いが講堂には込められています。


太子会(於 境内一円)
聖徳太子の月命日22日も 「太子会(たいしえ)」 としての縁日がありました。

聖徳太子絵伝 特別御開扉(於 絵堂)
絵堂内には7面で構成する「聖徳太子絵伝」(杉本健吉氏作)を奉納。
特別御開扉は2022年に迎える年忌法要「聖徳太子御聖忌(ごせいき)1400年」に向けた取り組みの一環です。

特別開扉の絵堂へ。
こちらの門から入ります。

聖霊院虎の門




「虎の門」のトラは悪いものが入ってこないように番をしており、「猫の門」のネコは聖霊院にある経堂のお経がネズミにかじられないように見張り番をしているのだそうです。

見えてきたのは、前が太子殿前殿。後方に奥殿。


太子殿




聖徳太子をお祀りしているお堂(天王寺のご廟)。正式には「聖霊院(しょうりょういん)」といいます。太子信仰の中心となっています。
前殿には十六歳像・太子二歳像・四天王祀られています。

お堂の前を通り先へ進みます。





奥殿

奥殿には太子四十九歳像(1月22日のみ公開の秘仏)が
祀られています。
奥殿基壇内(地下)には、永代奉安された太子観音像「極楽・水子・施薬・知恵・厄除・子育の六観音」が安置されています。

聖徳太子像と馬

後ろから失礼します。

こちら建物正面。

砂ずりの柳が綺麗です。

絵堂

杉本健吉画伯により「聖徳太子御絵伝障壁画」が奉納され、昭和58年に完成しました。絵堂は、 聖徳太子の一生の事蹟が描かれた絵伝を
礼拝の対象として安置する建物で、
絵伝は主として太子の奇跡的な伝説を中心に制作されたものです。
昔の人は絵解(絵の解説を物語風に節をつけて語る)を聞いて
聖徳太子の生涯を知ったと言われます。


聖徳太子を多くの方に知っていただく為のプロジェクト!
絵堂の特別ご開扉 ~ 飛鳥から未来へ ~を開催
「僧侶による絵解き」


イメージです(パンフレットより)


説明は、たとえば・・・。

聖徳太子4歳の頃「自ら父の笞を受ける」

皇子たちが喧嘩して騒いでいると、太子の父君が静かにさせようと笞を持って部屋にやってくるという話があります。
太子の兄弟たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出しましたが太子は
一人座って、自らお叱りを受けることを申し出ます。

聖徳太子41歳の頃「伎楽の伝来」

百済国から楽人らがやってきて、伎楽を日本に伝えました。
ここでは太子はお仕えの秦川勝の子供や孫たちを集めて、
踊りを習わせたりしているシーンです。

等、60分ぐらいの絵解きでした。

記念に頂いたポストカードです。

「11才 諸童子と遊戯す」


「木造南無仏太子立像」(南北朝時代の太子二歳像です)


聖徳太子の世界に浸った後、絵堂を出て聖霊院の塀に沿って行くと、ありました。
猫の門




続いて舞楽大法要へ

聖霊会舞楽大法要(於 六時堂 石舞台)
四隅に「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」が飾られ、法要と舞楽を一緒に行う「聖霊会」。
聖霊会は、聖徳太子の命日、旧暦の2月22日に聖徳太子の御霊をなぐさめるために行われる舞楽大法要です。
「おしょうらい」と呼ばれ、古来千年の伝統と格式を誇り、浪速の古典芸能を今に伝える貴重な行事です。
明治以降は、毎年4月22日の午後半日の間、境内六時堂とその前の亀の池上の石舞台(重要文化財)を中心として、厳粛な法要と華麗な舞楽の渾然一体となった一大絵巻が繰り広げられます。
この大法要は舞楽四箇法要といい、舞台上で舞楽が交互に行われます。
昭和52年、国の重要無形民俗文化財の指定を受けました。

六時礼讃堂

境内中央に位置する雄大なお堂で、昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名があります。薬師如来・四天王等をお祀り、
回向(供養)、納骨等を行う中心道場です。重要文化財 。

胡蝶(こちょう)の舞
舞楽の大半は古代大陸から伝来したものですが、平安時代から、
我が国でも何曲か作曲されたなかの一曲。
延喜6年、宇多上皇が童相撲をご覧になった時に作られたという、童舞。









舞楽演奏






衆僧による法要








地九(ちきゅう)
高麗双調曲(こまそうじょうきょく)。
面を付けた4人の舞人によって舞われます。
昭和15年の五重寶塔落慶大法要に舞われて以降廃絶していましたが、今回の聖霊会で75年ぶりに復曲再演されました。









亀の池

天王寺の亀?。


境内をまわります。

大黒堂

本尊は一体の像に大黒天、毘沙門天、弁才天の顔を持つ
「三面大黒天」です。
この仏様は、子孫繁栄・福徳智慧・商売繁盛などにご利益があるとされ、昔から庶民の信仰が盛んでした。

地蔵山

釈尊入滅より弥勒仏出現に至る無仏の世(56億7000万年前の間)に、神力・慈悲・智慧・弁才の力を以って人々を救済するといわれる
地蔵菩薩をお祀りしています。
当堂は明治時代に近郷及び境内諸方より集めた有縁無縁の地蔵尊を、中之門を入った南側の小丘に合祀したのが始まり。
本尊「立江地蔵尊」は古来眼病に霊験ありとあつく信仰されています。

英霊堂

明治39年に建立されたときには大釣鐘堂と呼ばれ、当時世界一大きい大梵鐘が釣られていました。鐘は第二次大戦で供出され、その縁により戦没英霊を奉祀する英霊堂と改名され現在に至ります。
世界の平和を祈り、戦争や災害犠牲者供養の為の法要が行われます。

太鼓楼

北鐘堂と相対峙して、伽藍の両耳をなしています。刻を知らせる太鼓を鳴らすお堂でしたが、再建の際に新たに北鐘堂と同じ黄鐘調の鐘を設け、大晦日には、除夜の鐘・招福の鐘が撞かれます。
本尊は虚空蔵菩薩。

北鐘堂

正式には、黄鐘楼(おうしょうろう)といいます。
北の引導鐘・鐘つき堂とも呼ばれます。
このお堂の鐘の音は遠く極楽までも響くといわれ、
先祖供養のための鐘の音が絶ないそうです。

南鐘堂(鯨鐘堂)



きれい!。

番匠堂

聖徳太子は、百済より番匠と称される数多の名工を招請され、
高度な建築技術を導入されました。
このご事蹟をお慕いし、大工・建築技術の向上、工事の無事安全を願う建築に携わる人たちの間でお祀りされるようになりました。
曲尺を手に持った曲尺太子が祀られています。

石碑

鋸・錐・鉋など大工道具をデザインした文字で彫られています。

普賢菩薩




梶の葉



四天王寺所蔵の国宝・扇面法華経冊子の中に梶の葉を描いた場面があり、梶の葉に和歌を書いた平安時代の七夕の習慣を
描いているそうです。
梶は当時の紙の原料でもあったようです。

さくらんぼができていました。


説明は、四天王寺公式ホームページ、パンフレットを参考にしました。

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