【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

霊山寺 PartⅡ

2023-05-22 | デジカメ紀行
霊山寺<バラ庭園>



昭和32年に人生の輪廻をテーマにして造園された4000m2(1200坪)の近代庭園。

第二次世界大戦で、シベリアに抑留された当時の住職が、帰国後一番に願ったことは世界平和でした。お寺を訪れる人が花を見て、心の安らぎを感じ、平和の大切さをしってほしいと考えました。
庭園は本堂の鬼門(北東)にあり、鬼門にはトゲのある木を植える習わしに倣って薔薇を植えました。

200種類2000株のバラが5月中旬から1ヶ月間と10月中旬から1ヶ月間美しく咲き誇ります。




入口の方は母子像や兄妹のオブジェがおかれた子供の世界。


















  


  

  
  


中間はバラの女神を中心に、サムサーラ(輪廻)と名付けられた噴水が流れる成人の世界が展開。












  


  


  


  
  

奥は老人の世界として過ぎ去りし人生を顧見るバラの館プリエール(祈り)があります。
お茶ができ、お土産も買うことができます。


プリエールで頂いた切絵の御朱印。










=ムーンライトミカ= (棘のないバラ)

    


  


  



説明文は公式サイトを参考にしました。

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霊山寺 PartⅠ

2023-05-21 | デジカメ紀行
霊山寺の所在する富雄の里は、古事記には「登美」であり、日本書紀では「鳥見」の地となっています。
敏達天皇の頃より、この地方は小野家の領有でした。右大臣小野富人(遣隋使・小野妹子の息子と伝わる)は壬申の乱に関与したため、弘文元年(672)官を辞し、登美山に閑居しました。天武12年(684)4月5日より21日間熊野本宮に参籠。この間に薬師如来を感得され、登美山に薬草湯屋を建て、薬師三尊仏を祀って諸人の病を治されました。そして富人は鼻高仙人と称され尊崇されました。

神亀5年(728)流星が宮中に落下し、大騒ぎになり孝謙皇女が征中の病にかかられた時、聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、湯屋の薬師如来を祈念すれば治るとのお告げがあり、すぐに行基菩薩が代参。皇女の病が快癒しました。天平6年(734)聖武天皇は行基菩薩に大堂の建立を勅命。
天平8年8月インドバラモン僧、菩提僊那が来日され、登美山の地相が霊鷲山(りょうじゅせん)にそっくりということから、寺の名称を霊山寺(りょうせんじ)と奏上され、落慶となりました。

5月12日訪れました

<境内図>



<霊山寺山門>



大辯才天の朱塗りの大鳥居が立ち参拝者を出迎えます。
霊山寺はお寺なのに、なぜ鳥居?
鳥居は神門、つまり結界を表し、内部は浄域となります。仏教では天部の諸神を祀るところに立てられています。霊山寺には弘法大師がお祀りになった辯才天がおられるので鳥居があります。







カルミア







近くに 



<薬師湯>






 食事処・宿泊施設




<八体仏霊場>



生まれ年の十二支お守り本尊は、人々の一生をお守り下さる開運、厄除けの仏さまとして広く親しまれ、信仰されています。
十二支と星座を組み合わせて、生まれ年干支と生まれ日星座お守り本尊霊場として、原型制作より5年をかけ平成3年に完成しました。


<行基菩薩像>

境内の八体仏霊場の横にある行基菩薩像は赤膚焼で、近鉄奈良駅の噴水の上におられる像と同じだそうです。
霊山寺は行基菩薩が大堂を建立されたことから、ここに祀られています。


大辯才天へは、こちらからの階段をあがって行きます。






  


<大辯才天堂>



弘仁時代弘法大師ご駐留の時大龍神の霊験を感得せられ、大龍神を辯才天として奥之院へ勧請されましたが、当寺開創1200年辯才天の命令により、現世利益の道場として昭和10年新築。
本尊には辯才天の本地仏聖観世音菩薩を祀り、脇侍に不動明王、毘沙門天を祀っています。


< 黄金殿・白金殿>

ー黄金殿ー
昭和36年、大辯才天堂の奥本殿として新築。本尊は弘法大師勧請の福徳開運商売繁昌の大辯才天女尊。
鉄筋コンクリート造りの舞台の上に屋根桧皮葺総桧造り堂の内外を総金箔貼り。
奥州平泉の金色堂、京都の金閣寺と並んで日本三金殿の一つ。
ー白金殿ー
大辯才天黄金殿と並んで昭和52年建立。黄金殿と同形同大同姿の建物。鉄筋コンクリート造りの舞台の上に屋根銅板葺総桧造り、プラチナの箔押を施し、堂の外側に硝子張りの囲いを取り付けたもので世界でも初めての白金のお堂。大辯才天の大神通の霊感を得た円照尼と眷属大龍神を祀っています。


寺務所、本堂へ。

階段を上がって行きます。



出迎えてくれました。


<本山寺務所>







 

  



ご朱印、頂きました。







本堂へ

<手水舎>



< 鐘楼>(重文)

桁行一間、梁間一間、袴腰付入母家造りの桧皮葺。
細部の手法から室町初期の創建とされています。
梵鐘は寛永21年(1644)の鋳造。


< 本堂>(国宝)



鎌倉時代の代表的建物。弘安6年(1283)に改築。昭和17年解体修理。
本尊薬師如来、脇侍日光・月光菩薩は春日厨子内にあり秘仏・十二神将・二天王・大日・阿弥陀如来・行基菩薩・菩提僊那が祀られています。


奥之院へはこちらから。

本堂より西約1km。原始林に囲まれ、涸れることない谷川に面しています。 弘仁時代弘法大師ご駐留のとき感得された霊験偉大な大龍神を辯才天として祀ってあり、 千数百年の間守護神として霊山寺を守護されているそうです。


<開山堂>

古くは開山行基菩薩を祀っていましたが、江戸時代より弘法大師を本尊とし、歴代徳川将軍の位牌が祀られています。 昭和28年に改新築。


<弁天堂>



放生池の東の隅にある水芭蕉は、日本中部以北の山地湿原などに群生し、奈良県にあるのはとても珍しいそう。いつ頃か分かりませんが、富山県の信者の方が1株植えられ、今では20株ほどに増えましたと。


木々の緑がきれいです。



なんじゃもんじゃの木




続いてバラ庭園へ

<バラ庭園>
第二次世界大戦で、シベリアに抑留された当時の住職が、帰国後一番に願ったことは世界平和でした。お寺を訪れる人が花を見て、心の安らぎを感じ、平和の大切さを知ってほしいと考えました。
庭園は本堂の鬼門(北東)にあり、鬼門にはトゲのある木を植える習わしに倣って薔薇を植えました。


説明文は公式サイトを参考にしました。
PartⅡではバラ園を紹介します。




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石上神宮

2023-05-11 | デジカメ紀行
石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、布留山(ふるやま・標高266メートル)の北西麓の高台にあります。
日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。

2023年4月1日訪れました。
  
<大鳥居>

高さ7メートル、柱の直径は76センチ。
現在の大鳥居は、昭和3年の昭和天皇の御大典を記念して建立されました。


<神杉>

境内には『万葉集』に「石上布留の神杉…」と詠われる神杉が古くは数多く繁茂していました。
現在も樹齢300年を越える杉が数本あります。


<社号標>



<休憩所>

古くは拝殿前にあった舞殿で、昭和15年(1940)に移築したものです。


<手水所>









<楼門>


(境内側より)


棟木に記されている墨書によると、鎌倉時代末期、第96代後醍醐(ごだいご)天皇の
文保2年(1318)に建立されたことが知られ、重要文化財に指定されています。
往古は鐘楼門として上層に鐘を吊るしていましたが、明治初年の「神仏分離令」により
取り外され売却されました。


<顔はめパネル>



<拝殿>

当神宮への御崇敬が厚かった第72代白河天皇が、当神宮の鎮魂祭(ちんこんさい)のために、永保元年(1081)に宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えられています。建築様式の区分では鎌倉時代初期の建立と考えられます。拝殿としては現存する最古のものであり、国宝に指定されています。
文明2年修復、貞享元年上葺、享保18年修補、元文5年上葺、寛政10年修復、安政6年屋根替、計6枚の棟札が現存しています。

奥に見える<本殿>
御神体である神剣「韴霊(ふつのみたま)」が禁足地の土中深くに祀られているという伝承があったため、明治7年8月調査したところ、多くの玉類・剣・矛などが出土すると共に神剣「韴霊」が顕現され、伝承が正しかったことが証明されました。
その後、明治43年から大正2年にかけて神剣「韴霊」を奉安するために本殿を建立し、この折に禁足地を北側に拡張、そして当時拝殿西隣にあった神庫(ほくら)を禁足地内の南西の隅に移築して、現在の状態に整えられました。
神剣と共に出土した玉類などは、その多くが重要文化財に指定されています。


<摂社 天神社(せっしゃ てんじんじゃ)>


<摂社 七座社(せっしゃ ななざしゃ)>




天神社には、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)の二座を、七座社には、生産霊神(いくむすびのかみ)・足産霊神(たるむすびのかみ)・魂留産霊神(たまつめむすびのかみ)・大宮能売神(おおみやのめのかみ)・御膳都神(みけつかみ)・辞代主神(ことしろぬしのかみ)・大直日神(おおなおびのかみ)の七座をお祀りしています。 両社の九座は、 生命を守護して下さる宮中八神に、 禍(わざわい)や穢(けがれ)を改め直して下さる大直日神を併せてお祀りしたもので、 当神宮の鎮魂祭(ちんこんさい)と深い関係があり、 上古から御鎮座になっていると伝えられています。


右 <末社 猿田彦神社(まっしゃ さるたひこじんじゃ)>
左 <摂社 出雲建雄神社(せっしゃ いずもたけおじんじゃ)>






<出雲建雄神社(せっしゃ いずもたけおじんじゃ)>
延喜式内社で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である 出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしています。

<猿田彦神社(まっしゃ さるたひこじんじゃ)>
主祭神は、猿田彦神(さるたひこのかみ)で、 底筒男神(そこつつのおのかみ)、 中筒男神(なかつつのおのかみ)、 上筒男神(うわつつのおのかみ)、 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、 高靇神(たかおかみのかみ)を配祀神としてお祀りしています。




鶏は夜明けに鳴いて時を告げることから、昔の人々は神聖視したとされ、石上神宮でも「神の使い」として敬われています。

長鳴鶏(ながなきどり)の一種の東天紅(とうてんこう:高知県産・天然記念物)、烏骨鶏(うこっけい:天然記念物)、採卵用種のレグホン・ミノルカなどが棲んでいます。

ニワトリはすでに『古事記』『日本書紀』に登場し、暁に時を告げる鳥として、神聖視され、神様のお使いともされています。

神使(しんし)は、神道において神の使者(使い)もしくは神の眷族で神意を代行して現世と接触する者と考えられる特定の動物のことで、「神の使い(かみのつかい)」「つかわしめ」「御先(みさき)」などともいう。時には、神そのものと考えられることもあり、その対象になった動物は哺乳類から、鳥類・爬虫類、想像上の生物まで幅広い。
  兎・・・岡崎神社
  稲荷像・・・伏見稲荷大社
  鼠・・・大黒天
  牛・・・天満宮 など。












40年程前に奉納された鶏約40羽が参道をはじめ境内の各所にいます。
以後時々の奉納や自然繁殖、また、イタチ、タヌキ、テンなどの小動物による被害を受け、羽数は増減しますが、大きく変ることはないとの事。
鶏たちは夕方暗くなる前に低い木々から順々に高い枝に飛び上がり、そこで一夜を過ごしています。
烏骨鶏やレグホンは高く飛び上がることが出来ず、専用の鶏舎で夜を過ごします。


説明文は公式サイトを参考にしました。




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