8月11日、一号線を京都から奈良への帰路、第二京阪道(久御山南ICをこえ)と並行に走る辺りで、「流れ橋」のほうを見ると、いつもと違う景色が目に飛び込んできました。気になって寄ってみました。
「流れ橋」
正式名は府道八幡城陽線上津屋橋(こうづやばし)。「流れ橋」と呼ばれています。
全長は356m、幅3m、木橋としては日本最長級だそうです。府営の渡船場がありましたが、昭和26年(1951)3月に渡し船が廃止され、橋が架けられました。永久橋だと経費がかかるため、節約型の木橋となったのだとか。
橋は、増水時の水の抵抗を減らすため、橋板にまで水が達すると橋板だけがフワッと浮き上がり、8つに分かれて流れます。この橋板はワイヤーロープで橋脚としっかり結ばれているため、水が引けば、このロープをたぐり寄せて橋脚に載せれば、再び通行できるようになるんだそうです。
昭和41年(1966)、枚方バイパス(現国道1号)にかかる木津川大橋の完成により、流れ橋の実用的な価値は減ったものの、木津川堤防のサイクリングロードとともに、近隣の人々の格好の憩いの場となっています。また、自然の風景に溶け込んだ橋は、よく時代劇のロケーションに利用され、河川敷に広がる茶畑と相まって、詩的な風情をかもしだしています。(八幡市観光協会サイトより)
暴れん坊将軍も水戸黄門も中村主税も通ったようです。
近所の方でしょうか「今年の4月に通れるようになったところやのに・・・。」「向こうの方の脚はコンクリートになっているよ。」等と、教えていただきました。(大洪水の際は 橋の全壊は避けられますが、橋脚もかな りの損傷を受けるので、城陽市側の17基は昭和40年代にコンクリート製となったようです。56基は木製。)
流れ橋の流出はこれで21回目、2011年から4年連続となります。昨年9月、台風18号による増水で流され、総工費3600万円をかけて今年4月に復旧したばかり。管理する府山城北土木事務所によると、詳しい被害状況調査はこれからですが、橋脚にワイヤでつながれている橋げたや橋板はすべて回収できそうだそうです。
四季彩館
やわた流れ橋交流プラザ 四季彩館
そば打ちやパンづくりなどの体験講座、食事処、お買いもの、宿泊や入浴施設等があります。
ここに車を停めて「ながれ橋」へ向かいます。
宇治茶の郷石碑
四季彩館の庭に建てられています。
ながればし石碑
土手
庭を通り抜けると見えてきます。大阪湾まで42キロの表示がありました。
サイクリング道路
土手は「京都八幡木津自転車道」。
京都の嵐山(渡月橋)から、京都府相楽郡木津町の泉大橋までの間につくられた自転車・歩行者専用道路です。
片道45km。
茶畑より
「宇治茶の郷」の石碑があったように、この辺りは茶畑でした。
茶葉
お茶の木は被害はなさそうでしたが、横の方の畑に植えられていた「かぼちゃ」等は泥をかぶったようでした。
流れ橋1
通行止めの立て看板が。
流れ橋2
流れ橋3
流れ橋4
流れ橋5
8月11日の様子です。
初めてま近かに見た「流れ橋」がこう言う形になってしまい、残念です。
通れるようになったら是非渡ってみたいと思います。
アカツメグサ
シナダレスズメガヤ
堤防(茶畑付近)で見られました。
コリウス
近くの住宅のコンクリートの塀から出ていました。強い!。
流れ橋を後にして、駐車場へ戻る途中、「石田神社」へ寄ることに。
石田神社
『山城綴喜郡誌』によれば、大宝2年(702)当地に鎮座、文治4年(1188)源頼朝により神事料として土地の寄進をうけたとあります。
以前は牛頭(ごす)天王社と称され、明治になり石田神社と改称。現在、祭神は建速須佐之雄命。境内は、堀状の水路が周囲をかこみ、木々が茂る鎮守の森の様子をよくとどめています。又、当神社に伝わる1200点以上の古文書類は、神社及び上津屋地区の歴史を語る貴重な資料だそう。
本殿は、嘉永4年(1851)造営(「伊佐家文書」)の比較的大きな一間社の流造で、木津川の水害を意識してか、一段高い石垣の上に建っています。拝殿も同時期のもので、享保20年(1735)再建時に葺いた刻銘入り鬼瓦を屋根にのせているそうです。
本市内で廃仏毀釈にもかかわらず、神仏混淆の宮寺の跡をとどめるのは、ここ石田神社だけだそうで、これら建物群をはじめ古文書に至るまで大切に保存されたのは、上津屋村の氏子中の強い結束と努力のたまものであろうと評されています。(八幡市観光協会サイトより)
石田神社鳥居
橋
境内を囲む水路でしょうか・・・。
御神木
モチの木です。
台風の影響なのか、鳥居や御神木のしめ縄についていた紙垂(しで)は庭に散らばっていました。
手水舎
本殿
石組のうえに建っています。
拝殿
右に口を開いた「阿形(あぎょう)」、左に口を閉じた「吽形(んぎょう)」が守っています。
伏拝所
天照皇大神伏拝所です。
若宮神社
摂社です。
天之忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと)
活津日子根命(いけつひこねのみこと)
天之菩日命(あめのぼひのみこと)
熊野久須日命(くまのひ さすひのみこと)
天津日子根命(あまつひこねのみこと)
市寸嶋毘売命(いちきしまひめのみこと)
田露毘古命(たつゆひこのみこと)
於岐津毘根命(おきつ ひねのみこと)
↑祀られているそうです。
香取神社
太神宮社
末社です。
広場
ながれ橋交流プラザのあるこの辺りは、都々城小学校の跡地だったようです。
二宮尊徳像
元は都々城小学校にあったものをここに移転されたようです。最近はあまり見かけなくなりましたねぇ。
小学校跡碑
その他、慰霊碑(日清戦争、日露戦争、アジア・太平洋戦争での都々城地区戦没者名がきざまれています。)や、日露戦役記念碑(裏には「従軍芳名録」として日露戦争の都々城地区での戦死者名と凱旋軍人名とがきざまれています。)が建っていました。
消防器具庫
広場の前にある消防器具庫のシャッターにも「流れ橋」の絵が描かれていました。
マンホール
亀甲模様に市章。
市章は、町村合併10周年を記念し、公募で制定。
周囲の竹は、伸びゆく若い力と困難に打ち勝つ根強さを、
中央の2羽の鳩は、八幡市の頭 文字である「八」をかたちどり、
平和と友愛の精神を表現しているそうです。
「流れ橋」
正式名は府道八幡城陽線上津屋橋(こうづやばし)。「流れ橋」と呼ばれています。
全長は356m、幅3m、木橋としては日本最長級だそうです。府営の渡船場がありましたが、昭和26年(1951)3月に渡し船が廃止され、橋が架けられました。永久橋だと経費がかかるため、節約型の木橋となったのだとか。
橋は、増水時の水の抵抗を減らすため、橋板にまで水が達すると橋板だけがフワッと浮き上がり、8つに分かれて流れます。この橋板はワイヤーロープで橋脚としっかり結ばれているため、水が引けば、このロープをたぐり寄せて橋脚に載せれば、再び通行できるようになるんだそうです。
昭和41年(1966)、枚方バイパス(現国道1号)にかかる木津川大橋の完成により、流れ橋の実用的な価値は減ったものの、木津川堤防のサイクリングロードとともに、近隣の人々の格好の憩いの場となっています。また、自然の風景に溶け込んだ橋は、よく時代劇のロケーションに利用され、河川敷に広がる茶畑と相まって、詩的な風情をかもしだしています。(八幡市観光協会サイトより)
暴れん坊将軍も水戸黄門も中村主税も通ったようです。
近所の方でしょうか「今年の4月に通れるようになったところやのに・・・。」「向こうの方の脚はコンクリートになっているよ。」等と、教えていただきました。(大洪水の際は 橋の全壊は避けられますが、橋脚もかな りの損傷を受けるので、城陽市側の17基は昭和40年代にコンクリート製となったようです。56基は木製。)
流れ橋の流出はこれで21回目、2011年から4年連続となります。昨年9月、台風18号による増水で流され、総工費3600万円をかけて今年4月に復旧したばかり。管理する府山城北土木事務所によると、詳しい被害状況調査はこれからですが、橋脚にワイヤでつながれている橋げたや橋板はすべて回収できそうだそうです。
四季彩館
やわた流れ橋交流プラザ 四季彩館
そば打ちやパンづくりなどの体験講座、食事処、お買いもの、宿泊や入浴施設等があります。
ここに車を停めて「ながれ橋」へ向かいます。
宇治茶の郷石碑
四季彩館の庭に建てられています。
ながればし石碑
土手
庭を通り抜けると見えてきます。大阪湾まで42キロの表示がありました。
サイクリング道路
土手は「京都八幡木津自転車道」。
京都の嵐山(渡月橋)から、京都府相楽郡木津町の泉大橋までの間につくられた自転車・歩行者専用道路です。
片道45km。
茶畑より
「宇治茶の郷」の石碑があったように、この辺りは茶畑でした。
茶葉
お茶の木は被害はなさそうでしたが、横の方の畑に植えられていた「かぼちゃ」等は泥をかぶったようでした。
流れ橋1
通行止めの立て看板が。
流れ橋2
流れ橋3
流れ橋4
流れ橋5
8月11日の様子です。
初めてま近かに見た「流れ橋」がこう言う形になってしまい、残念です。
通れるようになったら是非渡ってみたいと思います。
アカツメグサ
シナダレスズメガヤ
堤防(茶畑付近)で見られました。
コリウス
近くの住宅のコンクリートの塀から出ていました。強い!。
流れ橋を後にして、駐車場へ戻る途中、「石田神社」へ寄ることに。
石田神社
『山城綴喜郡誌』によれば、大宝2年(702)当地に鎮座、文治4年(1188)源頼朝により神事料として土地の寄進をうけたとあります。
以前は牛頭(ごす)天王社と称され、明治になり石田神社と改称。現在、祭神は建速須佐之雄命。境内は、堀状の水路が周囲をかこみ、木々が茂る鎮守の森の様子をよくとどめています。又、当神社に伝わる1200点以上の古文書類は、神社及び上津屋地区の歴史を語る貴重な資料だそう。
本殿は、嘉永4年(1851)造営(「伊佐家文書」)の比較的大きな一間社の流造で、木津川の水害を意識してか、一段高い石垣の上に建っています。拝殿も同時期のもので、享保20年(1735)再建時に葺いた刻銘入り鬼瓦を屋根にのせているそうです。
本市内で廃仏毀釈にもかかわらず、神仏混淆の宮寺の跡をとどめるのは、ここ石田神社だけだそうで、これら建物群をはじめ古文書に至るまで大切に保存されたのは、上津屋村の氏子中の強い結束と努力のたまものであろうと評されています。(八幡市観光協会サイトより)
石田神社鳥居
橋
境内を囲む水路でしょうか・・・。
御神木
モチの木です。
台風の影響なのか、鳥居や御神木のしめ縄についていた紙垂(しで)は庭に散らばっていました。
手水舎
本殿
石組のうえに建っています。
拝殿
右に口を開いた「阿形(あぎょう)」、左に口を閉じた「吽形(んぎょう)」が守っています。
伏拝所
天照皇大神伏拝所です。
若宮神社
摂社です。
天之忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと)
活津日子根命(いけつひこねのみこと)
天之菩日命(あめのぼひのみこと)
熊野久須日命(くまのひ さすひのみこと)
天津日子根命(あまつひこねのみこと)
市寸嶋毘売命(いちきしまひめのみこと)
田露毘古命(たつゆひこのみこと)
於岐津毘根命(おきつ ひねのみこと)
↑祀られているそうです。
香取神社
太神宮社
末社です。
広場
ながれ橋交流プラザのあるこの辺りは、都々城小学校の跡地だったようです。
二宮尊徳像
元は都々城小学校にあったものをここに移転されたようです。最近はあまり見かけなくなりましたねぇ。
小学校跡碑
その他、慰霊碑(日清戦争、日露戦争、アジア・太平洋戦争での都々城地区戦没者名がきざまれています。)や、日露戦役記念碑(裏には「従軍芳名録」として日露戦争の都々城地区での戦死者名と凱旋軍人名とがきざまれています。)が建っていました。
消防器具庫
広場の前にある消防器具庫のシャッターにも「流れ橋」の絵が描かれていました。
マンホール
亀甲模様に市章。
市章は、町村合併10周年を記念し、公募で制定。
周囲の竹は、伸びゆく若い力と困難に打ち勝つ根強さを、
中央の2羽の鳩は、八幡市の頭 文字である「八」をかたちどり、
平和と友愛の精神を表現しているそうです。