【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

けいはんな記念公園

2020-04-28 | 花だより
けいはんな記念公園
けいはんな学研都市(関西文化学術研究都市)の建設を記念する公園です。日本の里の風景をテーマにしており、水景園(日本庭園)、芽ぶきの森(里山)、棚田風の広場などを楽しめます。

公園マップ


広場を見ながら、水景園へ。

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水景園へ入ります。



観月橋が見えてきました。





観月橋(かんげつきょう)

水面上約10mに架かる歩廊橋。(延長123m、幅4m)。橋から庭園内を一望することができます。

橋の上から

里棚田、水景棚、観月楼が見えてきます。

観月楼(かんげつろう)
水景園の中心にある交流施設です。休憩所、展望所、研修室のほかギャラリー月の庭、相楽木綿
伝承館などがあります。

観月楼から、下道(巨石群)を通って、棚田の方へまわります。





巨石群(きょせきぐん)
高さ6〜7m、重さ20〜40(最大70)tの巨石、約500個からなる延長150mの壮大な空間です。
岡山県犬島産の御影石を使用しています。







  


橋の下(中)を覗いてみると。



棚田の方から、観月橋を。



里棚田(さとたなだ)



自然の恵みを受けて日本人が営んできた暮らしの景色。水田が日本の原風景の美しさを演出します。

水景棚(すいけいだな)

棚田状の水盤が、永谷池と下の池を水の景色として繋ぎます。飛び石を利用して渡ることもできます。

  
  
花桃


4月4日に訪れました。

説明文は公式サイトを参考にしました。


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妙顯寺

2020-04-24 | デジカメ紀行
龍華 具足山 妙顯寺。
鎌倉時代後期、元亨元年(1321)に創建された、洛中における日蓮宗最初の寺院です。日蓮大聖人の遺命を受け、帝都弘通を果たされた日像上人により建立されました。
日像上人の粘り強い布教の末、後醍醐天皇より法華経布教の勅旨を賜り、以来門下屈指の勅願寺として栄え、四海唱導とも称されました。
伽藍はたびたび移転を繰り返しましたが、本能寺の変後、豊臣秀吉の命により、堂宇を現在の地である小川寺之内に移転、今日の伽藍の形が定まりました。
江戸時代には天明八年(1788)の「天明の大火」により、伽藍の大半を消失しましたが、すぐに復興、現在の建物の大半はそのときに再建されたものです。
その後、明治の廃仏毀釈や戦後の混乱期を乗り越え、現在に法燈を受け継いでいます。

小門


境内図


大門


   

門をくぐり、真っすぐに・・・。



本堂


妙顯寺型灯籠



本堂、鬼子母神堂、三菩薩堂と、並んでいます。



鬼子母神堂



三菩薩堂



鬼子母神堂と三菩薩堂の間を進むと、奥に、慶中稲荷があります。



鬼子母神堂と本堂の間を進んで行きます。

龍神廟


寿福院塔


本堂の裏手へやってきました。






勅使門



春の特別公開がありました。

玄関


庫裡(受付)





「まるごと美術館」
寺社仏閣の特別拝観と合同で行う「春・秋の展覧会」です。寺宝に加え、アート作品や伝統工芸品の展示、ライトアップなどを開催しています。

四海唱導(龍華飛翔)の庭

手水花 つくばいの中に色とりどりの生花が浮かべてあります。


枯山水式庭園。勅使門がみえます。


所々にチェックの表示があり・・・。

  




仏殿



アート作品の展示。









孟宗竹の坪庭




五角形の庭面、苔地に孟宗竹が植えられています。
昔、テレビのネスカフェのCMにも使われたことがあるんだそうです。


光琳曲水の庭









五色椿と赤松の庭







本堂から、庫裡を・・・。



鐘楼


境内で。





  

  

  

  


説明文は公式サイト、パンフレットを参考にしました。

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長徳寺、おかめ桜

2020-04-17 | デジカメ紀行
長徳寺
川端通り今出川通りの交差点に、長徳寺、常林寺、正定院と3軒並んでいる、浄土宗の寺院です。
安産、長寿、請願成就のご利益があると言われています。
豊臣政権ではフィリピン貿易の担当者で、マニラ侵攻計画を進言したともいう長谷川宗仁が開基で、境内に墓があります。
1918年8月、数百名の群衆が出町橋付近に集結し、事態を収拾するために軍隊が出動。「米騒動」の舞台の1つになったお寺だそうです。





門のまえにある桜がオカメ桜です。

オカメ桜




1947年にイギリスイギリスの桜研究家コリングウッド・イングラム がカンヒザクラとマメザクラを交配して作出された早咲きの品種 です。
開花は2月下旬から3月上旬ごろ。名前の由来は「おかめ」。


寒緋桜




北向地蔵尊

百済王の念持仏だったのが飛鳥時代に渡来したものである、という伝承があります。

近くにある百丸大明神へ。









写真は3月21日のものです。説明文は公式サイトを参考にしました。

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護国神社

2020-04-17 | デジカメ紀行
護国神社 
奈良盆地を一望できる高円山の西麓に位置し、境内(1万5千坪)は「高円の杜(たかまどのもり)」とも言われています。
昭和17年9月、社殿が完成。 郷土出身三万柱の御祭神が祭祀されました。

昭和55年以降、郷土の御霊を慰めるために、約1,000種、10,000本の椿が植樹されています。
開花時期は3月末から4月初め。








社務所



手水舎



干支絵馬



四神



本殿(流造)

屋根が見えています。





令和2年3月21日(土)、22日(日)高円の杜に春を告げる神事として「椿まつり」が行われました。

3月22日には、椿祭り奉告祭(献華ノ儀)が行われました。
雅楽の音色と共に、御神前に椿盆栽の献上。

中央に献上された、椿が見えます。

山口采希(あやき)さんの鎮魂の歌声奉納がありました。



奈良県出身全戦没者の慰霊塔


境内で。
  
  
  

  



説明文は公式サイトを参考にしました。
    

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大原野神社~勝持寺 PartⅡ

2020-04-11 | デジカメ紀行
勝持寺(花の寺)
京の西山連峯の麓にあって、小塩山大原院勝持寺と呼ぶ古刹。白鳳8年(西暦679年)天武天皇の勅によって神変大菩薩役の行者が創建したのが始まりです。
延暦10年(西暦791年)に伝教大師が桓武天皇の勅を奉じて堂塔伽羅を再建、薬師瑠璃光如来を本尊とされました。
承和5年(西暦838年)仁明天皇の勅によって塔頭49院を建立されましたが、応仁の兵火に遭い、仁王門を除きすべて焼失しました。現在の建物は乱後に再建されたものです。
境内には約100本もの桜が咲き、訪れる人を迎えてくれます。

大原野神社の境内から勝持寺への近道、と言う事で・・・。
「シイの大木跡」の前を通り勝持寺へ向かいます。







山門の方を見てみると・・・。



登り坂が続きます。







やっと着きました。

南門





境内へ入ります。



阿弥陀堂






階段の手前にある狛犬
  


不動堂



弘法大師が平安の始め、眼病になやむ人たちのため、不動明王に病魔退散を祈願されたところ、霊験あらたかでした。よって石不動明王を刻んで岩窟中に安置されたと伝えられています。
以来、諸病平癒の不動様として信仰されています。


鐘楼と西行桜


西行法師
鳥羽上皇に仕えていた北面の士、佐藤藤兵衛義清が、保延6年(西暦1140年)当寺に於て出家し西行と名を改めて庵を結び、一株の桜を植えて吟愛していました。
その桜を西行桜と称し、寺を花の寺と呼ぶようになりました。




蕾堅し。



魚籃観音
  







   

  
 


山門


  



説明文は公式サイト、パンフレットを参考にしました。
   

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大原野神社~勝持寺 PartⅠ

2020-04-05 | デジカメ紀行
大原野神社




桓武天皇が延暦3年(784年)に都を奈良から長岡京に遷都したとき、皇后の藤原乙牟漏(ふじわらおとむろ)が藤原氏の氏神である奈良の春日大社の分霊を大原野に移し祀ったのが、神社の創祀であるとされています。

3月19日訪れました。

大原野が選ばれたのは、天皇が鷹狩りが好きで、しばしばこの地に鷹を放たれていたこと、風景が美しいこと、などによるといわれています。

嘉祥3年(850年)に文徳天皇が祖父、藤原冬嗣の願望をかなえ、社殿を造営し大原野神社と命名。藤原氏の勢力が大きかった時期には、皇族貴族の参詣が盛んで、大いに栄えたといわれています。

藤原氏の一族に女の子が産まれると、中宮や皇后になれるようにお詣りしたようで、女の子が祈願通りの地位につくと絢爛華麗な行列を整えて参拝したようです。

その後、戦乱が相次ぎ、藤原氏の勢力の衰えに従い神社も衰微、慶安年間(1648~1652年)に社殿が新しく造営。
現存の社殿はその時に造営されたものといわれています。

神域は8万3千平方メートル。うち6万6千平方メートルは緑の林になっています。

階段を上がって行きます。



二の鳥居


二の鳥居をくぐり参道を奥に進みます。

神鹿苑碑

昭和41年から平成7年まで、鹿を飼っていた名残をとどめています。





右手にある「鯉沢の池」



奈良の猿沢池を模して文徳天皇が造ったとされています。


参道左手に「瀬和井(せがい)」



名泉とされている井戸。
清和天皇産湯の清水といわれ、幾つかの歌に詠まれています。


神相撲300年記念碑

奥に相撲場。
御田刈祭(みたかりさい) 9月の第二日曜日
五穀豊穣を奉謝する祭儀で、古くよりの特殊神事です。
神慮を慰め奉り、氏子が平穏無事に過ごせるよう、享保2年(1717年)より、毎年神相撲の神事が行われています。
神相撲とは、古式にのっとり、南北の氏子の代表による神相撲力士により相撲がとられます。


千眼桜

一重の枝垂れ桜で、花芽が多くつき、満開期間が短いので「幻の桜」とも言われています。
残念ながら、つぼみ堅しでした。


鹿の手水舎


鹿がくわえた巻物から水が流れています。


三の鳥居

奥に拝殿が見えます。


大絵馬


拝殿


本殿の屋根

四つの社が本殿になっています。
第一殿、建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)
 天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原(たかまがはら)から降りてきたとき、出雲地方は大国主命により支配されていた。建御賀豆智命は大国主命と交渉し、出雲地方を譲り受けることに成功したため、建国の臣とされたという。後に、茨城県の鹿島に鎮座され蝦夷征伐軍の守護神として崇められたとされています。

第二殿、伊波比主命(いわいぬしのみこと)(経津主命、ふつぬしのみこと)
 千葉県の香取に祀られている武功の神であるとされている。天孫降臨の時、国譲りのことで、活躍されたそうです。

第三殿、天之子八根命(あめのこやねのみこと)
 神と人との間を取り成す中臣氏の先祖といわれ、中臣氏が藤原氏になり繁栄しだしてから藤原氏の氏神として祀られるようになったといわれています。

第四殿、比咩大神(ひめおおかみ)
 天之子八根命の后とされています。


鹿の狛犬
  
向かって左側が雌鹿  右側が雄鹿


八幡社              稲荷社             八坂社
(延命長寿・子授け)       (商売繁盛・五穀豊穣)     (厄除・病気平癒)  


祓戸社(心身清浄・健康)



  




鯉沢の池のほうへ。橋を渡ります。


地主社

縁結び、金運向上のご利益。


摂社若宮社

天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を祀っています。古くから政治・方除・知恵の神として、また良縁を授けて下さる女の守護神としての信仰が篤いそうです。
本殿は京都市指定文化財。


三の鳥居の手前にある
シイの大木跡


続いて勝持寺(花の寺)へ向かいます。大木跡の前を通るのが近道だそう・・・。

説明文は公式サイトを参考にしました。

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