特別公開、今回(17日)は、正覚庵(東福寺山内)と大雲寺へ。
東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。
三門、本堂、方丈、庫裏などからなる主要伽藍等、25の塔頭寺院があります。
京阪本線「東福寺」で下車。東福寺境内を通り正覚庵へ行くことに。
北門から入ります。
東福寺の塔頭万寿寺(三聖寺)にあったもの。
三間一戸の八脚門で切妻造本瓦葺。重要文化財。
室町時代中期の文安年間(1444-1448)に東福寺第129世が開山した塔頭。定朝の父・康尚の作といわれる本尊・不動明王坐像(重文)は、寛弘3年(1006年)に藤原道長が法性寺に建立した五大堂の中尊と伝えています。
永徳2年(1382)に一華庵として創建。後に東福第六十七世・東漸健易禅師を開山にむかえた。御本尊は「白衣観音坐像」で室町時代の作、脇仏は「達磨坐像」と「阿弥陀如来坐像」でいずれも江戸時代作と伝わっています。
板蟇股(かえるまた)など細部にわたり鎌倉時代の特色をよく残す切妻造・檜皮葺木の四脚門で、文永5年(1268年)に一条実経が常楽庵を建立した際に亀山天皇が京都御所の月華門を下賜されたと伝えられています。
主要伽藍の北には洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋という3本の橋(東福寺三名橋)がかかっています。
通天橋は、本堂から通じる廊下がそのまま屋根付きの橋となったもので、この付近は特に紅葉の名所として知られています。
前面を入母屋造、後方を切妻造にした単層本瓦葺の建物で、長禄3年(1459年)に建てられた京都最古の浴室建築の遺構として知られています。
内部は正面板敷きの上に2つの蒸し風呂が並び、後方に釜と焚き口があります。
貞和3年(1347年)に再建された単層・裳階(もこし)付切妻造の建物で、中世期より現存する最大最古の禅堂です。
応永32年(1425年)に足利義持が再建し、現存する禅寺の三門としては日本最古のもの。
上層に釈迦如来と十六羅漢を安置する折衷様の五間三戸二重門。正面の柱間が5つ、うち中央3間が通路になっている、2階建ての門で、「楼門」と違い、1階と2階の境目にも軒の出を作るものを言います。
1881年(明治14年)に仏殿と法堂が焼けた後、1917年(大正6年)から再建工事にかかり、1934年(昭和9年)に完成。
入母屋造、裳階付き。高さ25.5メートル、間口41.4メートルの大規模な堂で、昭和期の木造建築としては最大級のもの。
天井の竜の絵は堂本印象筆。本尊釈迦三尊像(中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、明治14年の火災後に万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作。
六波羅門を出て、少し南へ・・・。
特別公開の正覚庵です。
東福寺の塔頭寺院です。鎌倉時代に創建されました。
本堂(旧白州屋敷)、茶室(旧白州屋敷玄関)などが公開されます。
明治・大正の実業家の白洲文平(戦後、近衛文麿や吉田茂のブレーンとして活躍した白洲次郎の父)は、兵庫県川辺郡伊丹町(現在の伊丹市春日丘)に、美術館を併設した豪奢な邸宅を建設しましたが、昭和大恐慌で没落、広大な敷地と邸宅は手放されました。
昭和49(1974)年、白州屋敷が東福寺塔頭の正覚庵の本堂に移築されました。
入口はこちら・・・。
平屋の約285平方メートルは本堂と座敷棟、茶室で構成され、茶室は、もともと玄関だった部分を改築されたそうです。
廊下や折上げ小組格天井の一部には、屋久杉の一枚板を使った格子の装飾が施されています。
座敷棟の東北隅には三層構造の楼閣があり、暖炉の煙突として使われていたそうです。
渡宋大自在威徳天神(とそうだいじざいいとくてんじん、藤原道真公)が祀られています。
堂内には巨大な筆が祀られています。
正覚庵を出て、伏見街道を南方面へ進み、大雲寺へ向かいます。
途中に・・・。
全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社です。
主祭神は、稲荷大神。
「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神として、信仰されています。
伏見稲荷の境外摂社で、御祭神は伏見稲荷の五大神のひとつである田中大神。
創建は不明ですが平安時代からある神社だそうです。
伏見人形は江戸時代後期に最盛期を迎えた最も古い郷土玩具です。
全国で90種類以上もある土人形のなかで、伏見人形の系統をひかないものはないと言われるほどの土人形の元祖です。
起源は歴史に名高い野見宿称の後裔にあたる土師氏が統轄して土師部(土でいろいろなものを造る人)に土器を造らせていました。
垂仁天皇の時代に朝廷より土師職に任命され、伏見深草の里に住んで、土器、土偶(土人形)を創りだし、生まれたのが伏見人形です。
当時、伏見街道沿いには、約60軒もの窯元が軒を連ねていましたが、現在では丹嘉のみになっています。
伏見人形を少しご紹介。
(写真は公式サイトより)
もう少し南へ行くと・・・。
室町時代中期に建立。四脚門、重要文化財。
総門をくぐると、100mほどの石畳の参道がまっすぐ、宝塔寺の仁王門まで伸びています。
その両側に、大雲寺や直勝寺、霊光寺、慈雲院などの塔頭が並んでいます。
左手にあるのが、今回公開の大雲寺。
西之大坊 大雲寺は、伏見区の深草にある宝塔寺の塔頭です。天正18年(1590)に宝塔寺の仮本堂として建立されました。
一塔両尊、明正天皇御即位行幸図屏風、沈周筆「芙蓉鳥」(明代)、狩野探幽筆「真山水」などが公開されます。
明正天皇は、江戸時代初期の後水尾天皇の第2皇女で、父から譲位されて称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇として7才で即位しました。
庭の中に茶室「宝珠庵」「黙庵」を造営、庭園を全面改修。
茶室から見る庭園は幽玄の世界を満喫できるとして、京都市の「京都を彩る建物や庭園」に認定されています。
本堂から門の方を見た所。
大雲寺を出て、宝塔寺へ寄ることに。
参道のゆるやかな傾斜を登ります。
両脇に1670(寛文10)年作の、開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像があります。
宝塔寺
関白だった藤原基経(もとつね)により、平安時代の845~851年に創建されたと伝えられます。
当初は真言宗極楽寺と称し、鎌倉時代末期に日蓮宗に改宗し、寺名を宝塔寺と改称。
慶長13年(1608)の創建で、堂内には、十界曼荼羅・釈迦如来立像及び日蓮・日像の像を安置。
国の重要文化財。
多宝塔
国の重要文化財。唯一、応仁の乱の兵火を逃れた建物です。
京都市内に現存する多宝塔の中で最古のもので、永享11年(1439)以前に建立されたもの。
高さ11.4m。方形の初層と円形の二層。
「行基葺」と呼ばれる屋根形式。
片方の端が細くなった丸瓦を重ねてゆくため、重なった部分の瓦の厚みが表面に出て、屋根全体を雄々しく見せるんだそう。
付近で。
東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。
三門、本堂、方丈、庫裏などからなる主要伽藍等、25の塔頭寺院があります。
京阪本線「東福寺」で下車。東福寺境内を通り正覚庵へ行くことに。
北門から入ります。
仁王門
東福寺の塔頭万寿寺(三聖寺)にあったもの。
三間一戸の八脚門で切妻造本瓦葺。重要文化財。
霊源院
同聚院(どうじゅいん)
室町時代中期の文安年間(1444-1448)に東福寺第129世が開山した塔頭。定朝の父・康尚の作といわれる本尊・不動明王坐像(重文)は、寛弘3年(1006年)に藤原道長が法性寺に建立した五大堂の中尊と伝えています。
一華院
永徳2年(1382)に一華庵として創建。後に東福第六十七世・東漸健易禅師を開山にむかえた。御本尊は「白衣観音坐像」で室町時代の作、脇仏は「達磨坐像」と「阿弥陀如来坐像」でいずれも江戸時代作と伝わっています。
月下門(月華門)
板蟇股(かえるまた)など細部にわたり鎌倉時代の特色をよく残す切妻造・檜皮葺木の四脚門で、文永5年(1268年)に一条実経が常楽庵を建立した際に亀山天皇が京都御所の月華門を下賜されたと伝えられています。
主要伽藍の北には洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋という3本の橋(東福寺三名橋)がかかっています。
通天橋は、本堂から通じる廊下がそのまま屋根付きの橋となったもので、この付近は特に紅葉の名所として知られています。
臥雲橋
臥雲橋から、通天橋方面を見た所。
(17日現在)
臥雲橋から、通天橋方面を見た所。
(17日現在)
浴室
前面を入母屋造、後方を切妻造にした単層本瓦葺の建物で、長禄3年(1459年)に建てられた京都最古の浴室建築の遺構として知られています。
内部は正面板敷きの上に2つの蒸し風呂が並び、後方に釜と焚き口があります。
禅堂
貞和3年(1347年)に再建された単層・裳階(もこし)付切妻造の建物で、中世期より現存する最大最古の禅堂です。
三門
応永32年(1425年)に足利義持が再建し、現存する禅寺の三門としては日本最古のもの。
上層に釈迦如来と十六羅漢を安置する折衷様の五間三戸二重門。正面の柱間が5つ、うち中央3間が通路になっている、2階建ての門で、「楼門」と違い、1階と2階の境目にも軒の出を作るものを言います。
イブキ
本堂(仏殿兼法堂)
1881年(明治14年)に仏殿と法堂が焼けた後、1917年(大正6年)から再建工事にかかり、1934年(昭和9年)に完成。
入母屋造、裳階付き。高さ25.5メートル、間口41.4メートルの大規模な堂で、昭和期の木造建築としては最大級のもの。
天井の竜の絵は堂本印象筆。本尊釈迦三尊像(中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、明治14年の火災後に万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作。
六波羅門を出て、少し南へ・・・。
特別公開の正覚庵です。
東福寺の塔頭寺院です。鎌倉時代に創建されました。
本堂(旧白州屋敷)、茶室(旧白州屋敷玄関)などが公開されます。
筆塚
「筆の寺」の通称を持ち、毎年11月23日に境内の筆塚で筆供養が行なわれます。
「筆の寺」の通称を持ち、毎年11月23日に境内の筆塚で筆供養が行なわれます。
明治・大正の実業家の白洲文平(戦後、近衛文麿や吉田茂のブレーンとして活躍した白洲次郎の父)は、兵庫県川辺郡伊丹町(現在の伊丹市春日丘)に、美術館を併設した豪奢な邸宅を建設しましたが、昭和大恐慌で没落、広大な敷地と邸宅は手放されました。
昭和49(1974)年、白州屋敷が東福寺塔頭の正覚庵の本堂に移築されました。
入口はこちら・・・。
平屋の約285平方メートルは本堂と座敷棟、茶室で構成され、茶室は、もともと玄関だった部分を改築されたそうです。
廊下や折上げ小組格天井の一部には、屋久杉の一枚板を使った格子の装飾が施されています。
座敷棟の東北隅には三層構造の楼閣があり、暖炉の煙突として使われていたそうです。
威徳堂(いとくどう)
渡宋大自在威徳天神(とそうだいじざいいとくてんじん、藤原道真公)が祀られています。
堂内には巨大な筆が祀られています。
正覚庵を出て、伏見街道を南方面へ進み、大雲寺へ向かいます。
途中に・・・。
伏見稲荷大社
全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社です。
主祭神は、稲荷大神。
「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神として、信仰されています。
千本鳥居(左側・下り)
千本鳥居(右側・上り)
(写真は公式サイトより)
千本鳥居(右側・上り)
(写真は公式サイトより)
田中神社
伏見稲荷の境外摂社で、御祭神は伏見稲荷の五大神のひとつである田中大神。
創建は不明ですが平安時代からある神社だそうです。
伏見人形の店「丹嘉」さん
寛延年間(1750年頃)創業。
寛延年間(1750年頃)創業。
伏見人形は江戸時代後期に最盛期を迎えた最も古い郷土玩具です。
全国で90種類以上もある土人形のなかで、伏見人形の系統をひかないものはないと言われるほどの土人形の元祖です。
起源は歴史に名高い野見宿称の後裔にあたる土師氏が統轄して土師部(土でいろいろなものを造る人)に土器を造らせていました。
垂仁天皇の時代に朝廷より土師職に任命され、伏見深草の里に住んで、土器、土偶(土人形)を創りだし、生まれたのが伏見人形です。
当時、伏見街道沿いには、約60軒もの窯元が軒を連ねていましたが、現在では丹嘉のみになっています。
伏見人形を少しご紹介。
(写真は公式サイトより)
もう少し南へ行くと・・・。
宝塔寺総門
室町時代中期に建立。四脚門、重要文化財。
総門をくぐると、100mほどの石畳の参道がまっすぐ、宝塔寺の仁王門まで伸びています。
その両側に、大雲寺や直勝寺、霊光寺、慈雲院などの塔頭が並んでいます。
左手にあるのが、今回公開の大雲寺。
大雲寺
西之大坊 大雲寺は、伏見区の深草にある宝塔寺の塔頭です。天正18年(1590)に宝塔寺の仮本堂として建立されました。
一塔両尊、明正天皇御即位行幸図屏風、沈周筆「芙蓉鳥」(明代)、狩野探幽筆「真山水」などが公開されます。
明正天皇は、江戸時代初期の後水尾天皇の第2皇女で、父から譲位されて称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇として7才で即位しました。
庭の中に茶室「宝珠庵」「黙庵」を造営、庭園を全面改修。
茶室から見る庭園は幽玄の世界を満喫できるとして、京都市の「京都を彩る建物や庭園」に認定されています。
本堂から門の方を見た所。
大雲寺を出て、宝塔寺へ寄ることに。
参道のゆるやかな傾斜を登ります。
10月桜
仁王門
両脇に1670(寛文10)年作の、開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像があります。
宝塔寺
関白だった藤原基経(もとつね)により、平安時代の845~851年に創建されたと伝えられます。
当初は真言宗極楽寺と称し、鎌倉時代末期に日蓮宗に改宗し、寺名を宝塔寺と改称。
本堂
慶長13年(1608)の創建で、堂内には、十界曼荼羅・釈迦如来立像及び日蓮・日像の像を安置。
国の重要文化財。
多宝塔
国の重要文化財。唯一、応仁の乱の兵火を逃れた建物です。
京都市内に現存する多宝塔の中で最古のもので、永享11年(1439)以前に建立されたもの。
高さ11.4m。方形の初層と円形の二層。
「行基葺」と呼ばれる屋根形式。
片方の端が細くなった丸瓦を重ねてゆくため、重なった部分の瓦の厚みが表面に出て、屋根全体を雄々しく見せるんだそう。
付近で。
茶碗子の水
説明文は、公式サイト、Wikipediaを参考にしました。