【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

2019年度 奉祝 天皇陛下御即位 京都非公開文化財特別公開 Part2

2019-11-30 | デジカメ紀行
特別公開、今回(17日)は、正覚庵(東福寺山内)と大雲寺へ。

東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。

三門、本堂、方丈、庫裏などからなる主要伽藍等、25の塔頭寺院があります。



京阪本線「東福寺」で下車。東福寺境内を通り正覚庵へ行くことに。
北門から入ります。

仁王門

東福寺の塔頭万寿寺(三聖寺)にあったもの。
三間一戸の八脚門で切妻造本瓦葺。重要文化財。


霊源院




同聚院(どうじゅいん)

室町時代中期の文安年間(1444-1448)に東福寺第129世が開山した塔頭。定朝の父・康尚の作といわれる本尊・不動明王坐像(重文)は、寛弘3年(1006年)に藤原道長が法性寺に建立した五大堂の中尊と伝えています。


一華院

永徳2年(1382)に一華庵として創建。後に東福第六十七世・東漸健易禅師を開山にむかえた。御本尊は「白衣観音坐像」で室町時代の作、脇仏は「達磨坐像」と「阿弥陀如来坐像」でいずれも江戸時代作と伝わっています。


月下門(月華門)

板蟇股(かえるまた)など細部にわたり鎌倉時代の特色をよく残す切妻造・檜皮葺木の四脚門で、文永5年(1268年)に一条実経が常楽庵を建立した際に亀山天皇が京都御所の月華門を下賜されたと伝えられています。


主要伽藍の北には洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋という3本の橋(東福寺三名橋)がかかっています。

通天橋は、本堂から通じる廊下がそのまま屋根付きの橋となったもので、この付近は特に紅葉の名所として知られています。


臥雲橋


臥雲橋から、通天橋方面を見た所。

(17日現在)


浴室

前面を入母屋造、後方を切妻造にした単層本瓦葺の建物で、長禄3年(1459年)に建てられた京都最古の浴室建築の遺構として知られています。
内部は正面板敷きの上に2つの蒸し風呂が並び、後方に釜と焚き口があります。


禅堂

貞和3年(1347年)に再建された単層・裳階(もこし)付切妻造の建物で、中世期より現存する最大最古の禅堂です。


三門

応永32年(1425年)に足利義持が再建し、現存する禅寺の三門としては日本最古のもの。
上層に釈迦如来と十六羅漢を安置する折衷様の五間三戸二重門。正面の柱間が5つ、うち中央3間が通路になっている、2階建ての門で、「楼門」と違い、1階と2階の境目にも軒の出を作るものを言います。


イブキ




本堂(仏殿兼法堂)



1881年(明治14年)に仏殿と法堂が焼けた後、1917年(大正6年)から再建工事にかかり、1934年(昭和9年)に完成。
入母屋造、裳階付き。高さ25.5メートル、間口41.4メートルの大規模な堂で、昭和期の木造建築としては最大級のもの。
天井の竜の絵は堂本印象筆。本尊釈迦三尊像(中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、明治14年の火災後に万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作。


    


六波羅門を出て、少し南へ・・・。
特別公開の正覚庵です。




東福寺の塔頭寺院です。鎌倉時代に創建されました。
本堂(旧白州屋敷)、茶室(旧白州屋敷玄関)などが公開されます。


筆塚

「筆の寺」の通称を持ち、毎年11月23日に境内の筆塚で筆供養が行なわれます。


明治・大正の実業家の白洲文平(戦後、近衛文麿や吉田茂のブレーンとして活躍した白洲次郎の父)は、兵庫県川辺郡伊丹町(現在の伊丹市春日丘)に、美術館を併設した豪奢な邸宅を建設しましたが、昭和大恐慌で没落、広大な敷地と邸宅は手放されました。
昭和49(1974)年、白州屋敷が東福寺塔頭の正覚庵の本堂に移築されました。







入口はこちら・・・。

平屋の約285平方メートルは本堂と座敷棟、茶室で構成され、茶室は、もともと玄関だった部分を改築されたそうです。
廊下や折上げ小組格天井の一部には、屋久杉の一枚板を使った格子の装飾が施されています。
座敷棟の東北隅には三層構造の楼閣があり、暖炉の煙突として使われていたそうです。


威徳堂(いとくどう)

渡宋大自在威徳天神(とそうだいじざいいとくてんじん、藤原道真公)が祀られています。
堂内には巨大な筆が祀られています。


正覚庵を出て、伏見街道を南方面へ進み、大雲寺へ向かいます。

途中に・・・。

伏見稲荷大社

全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社です。
主祭神は、稲荷大神。
「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神として、信仰されています。

千本鳥居(左側・下り)
  千本鳥居(右側・上り)

(写真は公式サイトより)


田中神社





伏見稲荷の境外摂社で、御祭神は伏見稲荷の五大神のひとつである田中大神。
創建は不明ですが平安時代からある神社だそうです。


伏見人形の店「丹嘉」さん

寛延年間(1750年頃)創業。

伏見人形は江戸時代後期に最盛期を迎えた最も古い郷土玩具です。
全国で90種類以上もある土人形のなかで、伏見人形の系統をひかないものはないと言われるほどの土人形の元祖です。

起源は歴史に名高い野見宿称の後裔にあたる土師氏が統轄して土師部(土でいろいろなものを造る人)に土器を造らせていました。
垂仁天皇の時代に朝廷より土師職に任命され、伏見深草の里に住んで、土器、土偶(土人形)を創りだし、生まれたのが伏見人形です。

当時、伏見街道沿いには、約60軒もの窯元が軒を連ねていましたが、現在では丹嘉のみになっています。

伏見人形を少しご紹介。



  


(写真は公式サイトより)


もう少し南へ行くと・・・。

宝塔寺総門

室町時代中期に建立。四脚門、重要文化財。

総門をくぐると、100mほどの石畳の参道がまっすぐ、宝塔寺の仁王門まで伸びています。
その両側に、大雲寺や直勝寺、霊光寺、慈雲院などの塔頭が並んでいます。

左手にあるのが、今回公開の大雲寺。

大雲寺

西之大坊 大雲寺は、伏見区の深草にある宝塔寺の塔頭です。天正18年(1590)に宝塔寺の仮本堂として建立されました。

一塔両尊、明正天皇御即位行幸図屏風、沈周筆「芙蓉鳥」(明代)、狩野探幽筆「真山水」などが公開されます。

明正天皇は、江戸時代初期の後水尾天皇の第2皇女で、父から譲位されて称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇として7才で即位しました。
庭の中に茶室「宝珠庵」「黙庵」を造営、庭園を全面改修。
茶室から見る庭園は幽玄の世界を満喫できるとして、京都市の「京都を彩る建物や庭園」に認定されています。







本堂から門の方を見た所。

  


大雲寺を出て、宝塔寺へ寄ることに。

参道のゆるやかな傾斜を登ります。



10月桜


仁王門

両脇に1670(寛文10)年作の、開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像があります。
  


宝塔寺
関白だった藤原基経(もとつね)により、平安時代の845~851年に創建されたと伝えられます。
当初は真言宗極楽寺と称し、鎌倉時代末期に日蓮宗に改宗し、寺名を宝塔寺と改称。

本堂

慶長13年(1608)の創建で、堂内には、十界曼荼羅・釈迦如来立像及び日蓮・日像の像を安置。
国の重要文化財。




多宝塔

国の重要文化財。唯一、応仁の乱の兵火を逃れた建物です。
京都市内に現存する多宝塔の中で最古のもので、永享11年(1439)以前に建立されたもの。
高さ11.4m。方形の初層と円形の二層。
「行基葺」と呼ばれる屋根形式。
片方の端が細くなった丸瓦を重ねてゆくため、重なった部分の瓦の厚みが表面に出て、屋根全体を雄々しく見せるんだそう。


付近で。

茶碗子の水




説明文は、公式サイト、Wikipediaを参考にしました。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019年度 奉祝 天皇陛下御即位 京都非公開文化財特別公開

2019-11-17 | デジカメ紀行
2019年度 奉祝 天皇陛下御即位 京都非公開文化財特別公開
11月1日~10日に開催されました。

6日、梅辻家住宅と金臺寺を、訪れました。

上賀茂神社の神主筋(七家)の社家の一つである、梅辻家住宅へ。

「社家町」は神主さんなど神職(社家)の住宅が集まる町です。
神職は仕える神社のすぐ側に家を構える事が多く、特に大きな神社ともなると数多くの社家住宅が建ち並び、社家町が形成されています。
上賀茂神社の社家町は昔ながらの社家住宅が連なる町並みとして国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
江戸時代には300軒を越える社家があったそうですが、現在、上賀茂には社家住宅がおよそ20軒残っています。

上賀茂神社




上賀茂の社家町は、明神川と呼ばれる小川に沿って続いています。社家邸宅の門や土塀、小橋が連なっています。
外観や間取りなどは武家の住宅に近いのですが、部分的に寺院建築の特徴も併せ持つ、建築様式となっています。




この明神川は、上賀茂神社の境内を流れる「ならの小川」から注いでいるもの。
「ならの小川」は百人一首にも詠まれ、祭事の際には禊や人形流しが行われる、神水の川で、それが神社の境内から出ると「明神川」と名を変え、社家町を潤しているそうです。




それぞれの家の敷地内に明神川の水を引き込み、生活用水や庭園の遣水、そして身を清める禊の水として利用してきました。
庭園を巡っただけの水はそのまま明神川へと戻されますが、洗濯などに用いられた汚水は「水口(すいくち)」と呼ばれる下水処理専用の井戸へと流し、明神川の清浄さを保っています。
社家町を過ぎた後は農家の農業用水としても用いられ、地域の田畑を潤しているそうです。




上賀茂神社から明神川に沿って社家町を眺めながら歩いていくと大きな楠が見えてきます。
その大木の根元に朱色の垣に囲まれた藤木社(ふじのきしゃ)があります。

藤木社、楠





祭神は瀬織津姫神で、明神川の守護神として信仰されてきました。
上賀茂神社の境外末社で、葵祭には南大路町の氏子により神輿渡御が行われます。

楠は幹周4.2メートル、樹高10メートル、推定樹齢500年といわれ、この地のシンボルとして崇められてきました。
市の保存樹に指定。ノキシノブなどの着生植物が多いそうです。


付近のお店




梅辻家住宅が見えてきました。




梅辻家住宅(うめつじけじゅうたく、市指定・賀茂七家唯一の現存遺構)、社家に伝わる文書等が公開されています。

上賀茂神社に仕えた社家で、建物は居室部と座敷部からなり、天保9年(1838)頃には、ほぼ現在の形に。
居室部は正面に式台を設け,妻面は柱と貫で飾り、座敷部は座敷と次の間からなり、座敷は押板風の床の間と付書院を備えて花頭窓があります。
京都市指定有形文化財。

長屋門をくぐると入母屋造の式台といわれる表玄関があります。


高貴な客が出入りする玄関です。私たちはこちらから・・・。

鳥居形の大戸口。

内玄関で一般の人たちはこちらから出入りします。

撮影はお庭だけOK。



トユ



トユ先が長く出ているのは、雨水で建物が汚れないような工夫だそう。

雨落とし

ここに雨水が落ちるようになっています。


  


梅辻家を後にして金臺寺へ向かいます。

金臺寺(こんたいじ)
本堂、客殿、御本尊 釈迦如来像、狩野永岳筆襖絵、白隠慧鶴筆法貝変妖之図、他が公開されています。

金臺寺は妙心寺の境外塔頭で、北区等持院にあります。
平安時代の創建で池上寺と称していましたが、江戸時代に妙心寺第131世輝岳宗暾が国泰寺と改め、のちに現在の金臺寺となりました。

白隠慧鶴は江戸時代の禅僧で、禅の教えを絵に描いて説きました。
「法具変妖之図」は、手足が生えて妖怪になった法具たちの動きがいきいきと描かれている絵巻です。


江戸東京博物館掲載写真をお借りしました。



朝日新聞掲載写真をお借りしました。

龍頭の幡を持った赤鬼や琵琶にひかれた琴や如意の化け物が姿を見せる。室町時代の「百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)絵巻」(真珠庵本)から題材をとったとみられる。
粗末に扱われ化け物になった法具を描くことで、仏法をおろそかにする者たちへの戒めとしたのだろうかと。

お庭も含め、撮影不可なので、外から・・・。







折鶴、頂きました。


説明文は、朝日新聞や博物館、パンフレット等を参考にしました。


後日、初公開の「正覚庵」「大雲寺」へ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤原宮跡コスモス

2019-11-04 | 花だより
藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)
今から約1300年前(西暦694~710)、藤原京の中心施設である藤原宮のあったところです。藤原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う施設や天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせた性格を持っていました。藤原京は16年間の都でしたが、藤原宮の構造はその後の都にも引き継がれていきます。
現在、藤原宮跡は、国の特別史跡に指定されています。また、世界遺産暫定リストにも記載されるなど、未来にわたって受け継がれる重要な遺跡の1つとなっています。
藤原宮跡は大和三山の絶好の眺望スポットとなっています。平成23年6月には、藤原宮跡からの大和三山の稜線の眺めが、「重要眺望景観」に指定されました。

10月上旬~10月下旬、約30,000平方メートルに7種類のコスモス300万本が一面に咲き誇ります。
藤原宮跡では、季節ごとに美しい花が植えられ、菜の花やコスモス、キバナコスモス、ハスなど色とりどりの大地のカーペットを楽しむことができます。

快晴の10月28日訪れました。













紅葉はまだ・・・












  

  


説明文は公式サイトを参考にしました。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする