【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

大佛鐵道記念公園

2016-04-23 | 花だより
大仏鉄道とは
現在の関西本線の前身で明治の5大私鉄の一つとうたわれた「関西鉄道(株)」が名古屋方面から大阪への進出を目指し、「加茂駅」から現在の奈良駅北1.1kmの所に仮設的に作った「大仏駅」間を結ぶ8.8kmと、翌年に開通した奈良駅までの通称です。
「大仏駅」の開業は明治31年(1898)4月19日、「加茂駅~大仏駅」が開通し「赤いイギリス製の蒸気機関車が伊勢や名古屋方面からの大仏参拝客を乗せてにぎわった」と当時の新聞が報道しています。
客車は小さな部屋が十個ほどつながっているような感じで、一室に五人くらい。座席は板で隣の部屋には降りなければ移れない。
加茂の人たちは汽車を「マッチ箱」と呼んでいたそうです。
この脚光を浴びた花形路線も急坂の黒髪山トンネル「勾配が25‰(パーミナル)」越えの難関では、イギリス製(ナスミス・ウィルソン社)の新鋭機関車でも走行は困難を極め、「汽車の速度は遅く、機関車が二両ついているときはいいが、一両だと途中でとまってしまう。黒髪山の丘陵が登れなかったときは、客が降りて押したり、法蓮村(奈良市)の人たちが押しに行った」と伝えられています。
また石炭の消費量も多かったそうです。
新たに木津駅経由の平坦路線が開通したため徐々に乗客が減少、1907年鉄道の国有化法により僅か9年間で廃止となりました。
現在、線路跡は残っていませんが、橋脚や隧道などが元路線沿いに100年前そのままの姿で残っており、周囲の里山風景に溶け込み、鉄道ファンやハイカーにも人気のハイキングコースとなっています。

平成4年4月には大仏駅跡地付近に大佛鐵道記念公園が設置され、大仏鉄道の面影を残しています。
奈良市法蓮町(船橋商店街北詰)にあります。

大佛鐵道記念公園



機関車の動輪モニュメントと説明碑があります。











説明は木津川市観光ガイドを参考にしました。

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真田丸を訪ねて Part 2

2016-04-21 | デジカメ紀行
真田丸の世界に浸ったあとは、世界遺産へ・・・。

世界遺産・「女人高野・別格本山」高野詣りは慈尊院から
弘法大師 母公の寺「慈尊院」へようこそ


慈尊院正門

切妻造、本瓦葺の四脚門。

始まりは弘仁七年(816)、弘法大師が政所として伽藍を創建したのが
縁起。高野山真言宗派。
弘法大師の母が入滅して弥勒菩薩に化身したという信仰から、
慈尊院が女人高野と呼ばれるようになりました。

  

下乗石

表門の外、左側に建っています。平安時代の法務権僧正定海により建立されました。それぞれの門に下乗札がかかっており、皇族・貴族はここで籠を降りられました。今は半分ほど土に埋まっているため、当時はもう少し高かったと考えられます。町の指定文化財です。


境内の周囲3方約250mにわたる築地塀は、
和歌山県一の古さと壁の厚さがあります。
県指定文化財です。

高野山詣りは、まず高野山の玄関である慈尊院弥勒菩薩と縁を結び、罪業を流してから山上へ登って頂くのが、高野山への本参りとされていることから、高野山の結縁寺とされています。

「高野山町石道」
高野山へと続く約21キロの山道の表参道。今も一町毎(109m)に卒塔婆石が残り、歴代天皇や法皇、関白や将軍をはじめ一般の方々が、現在に至るまで続く高野詣りの歴史と信仰が残っています。
「 高野詣りは慈尊院から始まり、 慈尊院で終わる」と古くから伝えられています。

大師堂

御本尊弘法大師。
脇仏は、四国八十八ヶ所霊場の御本尊八十八躯がお祀りされています。ここにお参りすれば、四国にお参りされたと同様のご利益が得られる
とのことです。

弥勒堂(奥)横に鎮座するお地蔵さま

約100体の地蔵像にもお参りください、と。


右手に進みます。


本堂(弥勒堂)


鎌倉時代後期の宝形造りで、国の重要文化財、世界遺産です。
慈尊院の本尊、木造弥勒仏坐像は、21年毎にだけ開帳されます。
「弥勒堂」や「廟堂」とも呼ばれています。

「みろく石」

片手で撫でて、ご本尊弥勒仏(弘法大師母公の化身とされている)と
縁結びをします。

「乳房型絵馬」
女性の信仰が篤く、子宝、安産、育児、授乳、病気平癒を願って、「乳房型絵馬」のご奉納祈願がされています。

多宝塔

平成24年7月吉日に完成。本尊は胎蔵界大日如来が置かれているため、大日塔とも呼ばれています。弘法大師の創立。現在の塔は寛永年間(1624~1643)に再建されました。県指定文化財です。

世界遺産記念碑

本堂の東側に「慈尊院」の寺名が彫られた大きな石が置かれています。
慈尊院がユネスコ世界遺産に登録されたのを記念して、
平山郁夫氏の筆により書かれ、彫られたものです。

拝堂


鐘楼


弁財天

知恵、学業成就、商売繁盛、諸芸上達、開運厄除け。

稲荷明神

財宝の成就(商売繁盛、五穀豊穣)。





許梨帝母尊堂

許梨帝母(カリティ母) 鬼子母神が祀られています。
天女のは、右手にざくろを持ち、左手に子供を抱いています。
ご利益は子育て、安産、子供いじめの解消、子供の安全です。
お釈迦様の時代に、鬼子母神が五百人とも千人とも云われる子を産み、子供を育てるため、他の子供をさらって、その子供を食べていました。食べられた子供の母親たちは嘆き悲しみ、お釈迦様にお願いしたところ、鬼子母神の子供を一人隠されました。初めて母親たちの悲しみを知り、
それからよき母となったとされ、秋にはざくろをお供えするそうです。

高野山案内犬ゴンと弘法大師像

慈尊院や高野山の参拝者の道案内をした犬ゴン。
約1200年前、弘法大師にも高野山への道案内犬がいた伝説があり、
「弘法大師案内犬の再来」といわれているそうです。



丹生官省符神社
弘仁七年(816)弘法大師(空海)によって創建されたお社です。
神社社頭より霊峰高野山を遥拝する事ができ、高野山町石道の登山口として広く知られています。
高野登山は、当神社で登山の奉告と道中の安全を祈願しましょう、と。



慈尊院正門から真っ直ぐに南の方向に進むと「丹生官省符神社」に上がる石段(119段)があり、途中の石造大鳥居右横に第一番目の
180町石があります。
九度山町から高野山へと続く約24km道のりで、高野山へお参りになる方々のために、山上の根本大塔まで180本、大塔から奥の院まで36本、その他里石が4本と、1町(約109m)おきに町石が立ち並んでいます。


「町石」は道標ですが卒塔婆でもあり、かつて参拝者は
一町毎に手を合わせ祈りながら登山したとか。
町石道は「祈りの道」でもあります。

二の鳥居



狩場明神と空海の出会いの図(絵馬)


「狩場明神の従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へ導かれました」という伝説は、今も受け継ぎ語られています。

丹生官省符神社の神さまの使いである白・黒二頭の犬は、安産(子授け)祈願としてまた、導き(縁結び)の神さまとして尊崇され、家内安全、試験合格、商売繁盛、交通安全、厄祓、厄除、病気平癒等生きるものすべてのお導きを下さる霊験あらたかなお社として知られています。
狩場明神の尊い導きにより開山することができた高野山金剛峯寺。
空海はその思いを政所として慈尊院を開いたとき、丹生高野明神社(現丹生官省符神社)を創建奉祀、諸天善神への祈願地としてこの地を天と神に通じる地(神通寺の壇)とし、慈氏寺の壇と併せて萬年山慈尊院と称されました。
空海によって創建鎮座、社号も慈尊院丹生高野明神社、丹生七社大明神、丹生神社、丹生官省符神社と変遷、県内外を問わず尊崇を受け官省符荘(荘園)の総社として栄えました。
明治維新後、神仏分離令等により多くの建物は取り除かれ、天文十年(1541年、室町時代)に再建された本殿の内、三棟(国指定重要文化財)が往年の姿をとどめ今日に至っています。


招魂社

境内社です。




拝殿




拝殿、本殿の後ろに高野山を仰ぎ見ることができます 。

干支大絵馬


本殿

( 宮殿4棟、棟札2枚)として、1965年(昭和40年)5月29日、
重要文化財(建造物)指定。
室町時代後期の永正14年(1517年)再建の2棟、天文10年(1541年)の再建の1棟の社殿3棟で、神社建築様式を良好な保存状態で伝えています。
2004年7月、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の
一部として登録されました。

御神宝
県指定文化財として、「鼎(御湯釜)」「獅子頭」。
「一文字太刀一口」は、真田幸村公奉納と伝えられています。





境内を裏手へ抜けると、駐車場に次の高野山町石(179町目)があります。



179町目町石を通り過ぎ、高野山への道へ続きます。



近くにあるお寺。

勝利寺

急な石段を上がっていきます。
弘法大師(空海)が高野山を開創される以前の創建と伝えられています。
大師が42才の時、厄除けのために十一面観音を奉納されたことから、
厄除観音として信仰されてきました。
昔は高野山町石道の玄関口として参拝者で賑わったそうです。
仁王門をくぐると正面に十一面厄除観音菩薩の本尊を祀る
観音堂があり、
その右には地蔵堂、左には大師堂があります。
現在では、スポーツや勝負ごとに勝つことを祈願する寺として
親しまれています。


説明は、公式ホームページを参考にしました。

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真田丸を訪ねて Part 1

2016-04-13 | デジカメ紀行


3月27日「真田丸」ゆかりの町、和歌山県伊都郡九度山町へ。
道の駅「柿の郷くどやま」へ車を停めて散策です。



赤備え



道の駅に展示されています。

自動販売機も真田丸仕様。




3月13日にオープンした「九度山・真田ミュージアム」へ向かいます。
道の駅「柿の郷くどやま」から徒歩5分ぐらい。

真田ミュージアム

幸村の生涯で一番長い時間を過ごした九度山での生活を紹介!


関ヶ原の敗戦後、父昌幸とともに蟄居を命じられた地、九度山。
真田昌幸、幸村、大助の真田三代の軌跡と、14年間という幸村の生涯で一番長い時間を過ごした九度山での生活を、パネル展示とドラマ仕立ての映像により紹介します。
大河ドラマ展(平成28年3月13日(日)~平成29年2月28日(火))では、出演者のパネルやドラマで着用した衣装、小道具等を展示し、大河ドラマの魅力を紹介します。

入り口


九度山町の花「牡丹」が置かれています。




エントランス

前で記念撮影ができます。

NHK大河ドラマ「真田丸」題字。

制作の様子が展示されています。
題字は、飛騨高山に拠点を置きながら、左官の技術を活かして国内外で活躍されている挾土秀平(はさどしゅうへい)氏によるものです。
挾土氏の暮らす飛騨高山の赤土に、左官で使用する鏝(こて)で
『真田丸』という文字が書かれています。
赤土の赤は、真田の赤備えをイメージしたものだそうです。

旗印(六文銭)


NHK大河ドラマパネル。


真田庵(幸村の屋敷跡)へ向かいます。
町中の電柱に施されています。

    

左 「ゆきむらさま」
幸村ゆかりの町「九度山」の真田幸村イメージキャラクター。
日常は穏やかでありながら、いざという時は武勇を発揮する幸村をイメージ。
大河ドラマ「真田丸」くどやま推進協議会が、九度山の大河ドラマ「真田丸」推進事業で活用するキャラクターを募集されたそうです。

右 「ゆきむらさま」と「真田十勇士」
真田幸村の活躍を支えた彼らは、共に戦い時代を駆け抜けた家臣たちです。
猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎。

町中、いたる所に六文銭の旗が建っているので、それを目印にたどって行けば目的地に着くことができます。

善名称院
 

高野山真言宗の寺院。和歌山県の史跡に指定されています。
寛保元年(1741年)に大安上人が、真田昌幸の庵跡と伝承のあるこの地に、地蔵菩薩を安置した一堂を創建したのが始まり。
真田庵(さなだあん)とも呼ばれ、真田幸村父子の屋敷跡に建てられたお寺。本尊に延命子安地蔵菩薩を祀り、かつてはお地蔵さんとして賑わいをみせたこともありました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れた真田昌幸・信繁父子は、女人禁制の高野山(蓮華定院)に配流の身となり、信州より紀州へとやってきました。高野山での生活は寒くたいへんだったため、麓の九度山町で生活したのではないか、また、妻を連れていたために九度山に移され蟄居生活を送ったとも言われています。

真田昌幸は、この九度山町で亡くなり、息子である幸村は、父の供養のために、森の中に宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建てました。
その後、大安上人がこの森に来たとき、本尊がここに善名称院(真田庵)を建てよと言われ、大安は松の木だけを残してお寺を建てたと言われています。
九度山町の町花、牡丹の名所としても知られています。

三門をくぐると、出迎えてくれたのが、こちら。

アカハラ




本堂



八つ棟造りの重厚な三層城閣風のお堂です。

軒の瓦には菊花の紋章が入っています。
本尊は地蔵菩薩。

真田地主大権現

このお寺で、怒った姿の昌幸の霊がたびたび見られるようになりました。そこで大安上人は昌幸の霊をこの地の大権現の神様にして祀ったところ、穏やかな顔になった昌幸が現れ、そして祀ってもらったお礼にこの地を守ると約束しました。それがこの真田地主大権現です。
その後、稲荷大明神、金比羅大権現、天満宮、住吉大社も、
境内に加えて建てられました。

真田昌幸の墓

真田家の宝物である毘沙門天と真田三代の御霊を合祀。
大権現の左手に真田昌幸、信繁(幸村)の墓。
奥には真田家臣一族の墓。

与謝蕪村の句碑

「かくれ住んで花に真田が謡かな」
江戸時代の俳人与謝蕪村によって詠まれた2句のうちのひとつ。

雷封じの井戸

慶長年間、幸村公が蟄居中、真田屋敷に落ちた雷をとりおさえて
この井戸に封じ、里人の難を救ったという…。
こんな言い伝えが残されています。

土砂堂、右手は開山堂(大安上人御廟)


長屋門



扉に、菊花の紋章と六文銭。

絵馬と真田庵由緒



菊紋
大安上人が上皇室より下庶民に至るまで、霊顕を施し、信望を集めました。
嵯峨御所は、その徳をお慕いになり御紋章付の提灯と紫色の御幕を賜り、それ以後、菊の御紋章の使用を許されました。

旗印(六文銭)
真田家が六文銭を旗印として用いたのは北条氏とのある一戦で勝利してからだといわれています。天正10(1582)年、戦に破れた昌幸がわずか300の軍勢を率いて上田城に引き返す途中、4万余の北条軍に遭遇。その時15歳の幸村は無紋の旗を取り出し、北条方の武将松田氏の旗印永楽通宝を描いて兵に持たせ、軍を六隊に分けて闇討ちをかけました。北条方は松田が謀反を起こしたと勘違いし大騒動。それに紛れて真田勢は無事上田城に帰り着くことができました。
昌幸は幸村にその功を誉め定紋を六文銭にすることを許し、これが真田の六文銭の由来と言われています。
幸村の決死の覚悟を伝える神聖なシンボルと言えるでしょう。六文銭とは三途の川の渡し賃と言われています。

結び雁金

真田の家紋です。西門の扉に彫られていたようです。
この結び雁金は、渡り鳥の「かり(がん)」から出来た家紋で主に平時に使用していたと言われています。雁は幸せを運ぶ鳥とも言われているそうです。

境内の花達。








善名称院を後にして

真田古墳



「この穴の向こうは大坂城に続いていて、かつて真田幸村はこの抜け穴を使って戦場へ出向いた。」という伝説が残っています。
昭和28年(1953年)に行われた発掘調査によって、古墳時代後期(4世紀頃)の横穴式石室を持つ円墳であることが判明しましたが、真田の伝説が残る場所として「真田古墳」と名付けられました。

真田のみち

南海九度山駅に続く商店街に。

南海九度山駅




南海なんかい・真田さなだ赤備あかぞなえ列車、この秋参上!!
高野線車両(1編成)と九度山駅を「真田色」に装飾します。

車体や座席は真田幸村の赤備え甲冑をモチーフに、「六文銭(ろくもんせん)」や「結び雁金(むすびかりがね)」をあしらい、甲冑の力強さや美しさを表現したデザインです。
南海・真田赤備え列車は、南海電鉄高野線の難波駅(大阪市)と極楽橋駅(高野町)の間で、平成27年11月1日から約1年間運行します。

九度山駅から、県道13号線沿いに道の駅へ。

お昼ご飯は途中の「グラタンカフェ」で。


下りていきます。


見上げると・・・。


真田丸セット

熱々!。

まどの外は丹生川です。


お腹もいっぱい、幸せ気分で、道の駅へ戻ります。

マンホール(汚水蓋)

中央に九度山町の町章を配置し、町の木である柿を
デザインしています。

顔出し看板



ゆきむらさまと、真田十勇士。
道の駅に隣接する公園に設置されています。

お土産


九度山、イベント紹介。

第8回町家の人形めぐり 開催中!
2016年4月1日(金)~2016年5月8日(日)九度山町まちなかエリアにて。

こいのぼりの丹生川渡し
九度山町を流れる丹生川と紀の川の合流する丹生橋付近(道の駅柿の郷くどやま近く)では、毎春約100匹以上のこいのぼりが空を泳ぐ「こいのぼりの丹生川渡し」が開催されています。
川面の上を優雅に泳ぐこいのぼりの姿は、九度山の春の風物詩となっています。
4月上旬~5月5日

続いて、慈尊院、丹生官省符神社へ向かいます。Part2へ。

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室生向渕、「みんなの森」

2016-04-09 | 花だより
「奈良県宇陀市室生向渕(むこうじ)で、カタクリの花が見頃を迎えている。(3月31日)」
との新聞記事を見て、出かけて来ました。

奈良県宇陀市室生向渕は、奈良県宇陀市の東に位置し水晶山の麓に広がる地域。
地名は、地域の北にある飯降ヶ渕と南にある竜王ヶ渕の二つの渕が向い合っていることから名づけられたと言われています。

カタクリは、春の妖精とも呼ばれ、陽光を浴びると薄紫の花が反り返るように咲きます。

住民有志で活動する「向渕さとやま遊友クラブ」が、地元公民館(やまびこホール)の裏山の竹やぶや、木を伐採。
その一帯を「みんなの森」と名付け、水仙、カタクリの球根等の花、落葉樹を植え、遊歩道を造り整備されています。



県のホームページによると
平成22年(第3回目)には「向渕さとやま遊友クラブ」が中心になり、「やまびこホール」周辺の裏山で、「花の里作り大作戦 in 向渕」と称する山や森林に親しむ夏の交流イベントを開催。
親子連れと地元からの参加者で、里山整備された跡地で、地域の人たちの指導のもと、水仙や彼岸花、カタクリの球根植栽に挑戦しました。
植栽するときに使うスコップは、間伐した竹で作られたもので、環境教育の一環ともなったようです。
また、伐採された竹や木を使っての工作体験、カブトムシ探し、洞穴探検、スイカ割りなどの多彩なイベントが行われたそうです。

公民館の駐車場に車を停め散策です。


上に見えるのが公民館です。

公民館

公民館の後ろに見えるのが「みんなの森」。

階段の横にある急な坂道を上がっていきます。


見えているのは「向渕観音堂」。
大きな桜やイチョウの木が見えています。


振り返ってみると・・・。

水仙


キランソウ


向渕観音堂








蕾かたしです。

公民館裏手「みんなの森」へ。











地元の方が、「一部は自然生えもありますが、それだけでは難しく、育てた苗も植えました。」とおっしゃってました。
夏のイベントのことでしょうか・・・。

「近くには、スズランの群生地もあるので、その頃にまた来てください」と。

「みんなの森」の花達です。

シデコブシ




土筆


姫踊子草


オオイヌノフグリ&ホトケノザ


ウマノアシガタ(キンポウゲ)


タンポポ


草苺


水車小屋

近くの川から水がひいてありました。


他にも、サルスベリ、イロハモミジ、クロモジ、ニシキギ、ヤブムラサキ等の木が植えられており、住民の方々の熱意が感じられました。



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白毫寺、五色椿

2016-04-01 | 花だより
3月17日、「五色椿」が咲くという白毫寺へ出かけてきました。
白毫寺は、奈良市街地の東南部、春日山の南に連なる高円山の山麓にあり、境内から奈良盆地が一望できる景勝地に建っています。
奈良町辺りに車を停め、歩くことに。

福智院

南都清冷山、福智院は奈良公園の南端に位置し、
「真言律宗」(総本山 西大寺)に属しています。
もとは興福寺大乗院の地蔵堂で、古来南都における地蔵信仰の
霊場でした。
本尊は地蔵菩薩坐像。
地蔵菩薩を信仰する、あらゆる人々の苦悩を削減し、土地は豊かに、家宅は永安であり、願いは成就するなどの十種の利益と恵みを
与えてもらえるそうです。


福智院の前を通り、南方面へ。

地蔵尊




この辺り(笠屋町)の由来が貼ってありました。



超願寺

法性山 弘誓院「超願寺」(誓願寺末寺)です。浄土宗西山深草派。
本尊は、木像阿弥陀如来立像。
鉈屋長春が天正19年(1591)「鉈屋寺」を(大和郡山市上三橋村に)
建立したのが初め。
宝永2年(1705)に本堂を現在地に移築、明治初年に改称されました。


奈良を歩いていると、所々で見かけます。
鹿、日常生活には、支障があるんですね。


奈良教育大学に沿って東方面へ。

曲がり角、下を見ると

神明地蔵



こちらにもお地蔵様。

大きなしだれ桜がある家の前を通り・・・。

百豪山西勝寺(さいしょうじ)

浄土真宗本願寺派の寺院。本尊は阿弥陀如来立像。
本堂は五間半四方の立派な堂で、内部は朱塗りの柱や蟇股の彫刻等があり、もとは多武峯(妙楽寺)にあった食堂を移築したものと
伝わっています。

西勝寺鼓楼門


宅春日神社

神護景雲2年(768)に春日大社が創祀された直後に最初に末社として
創建されたと伝わります。
奈良時代に、枚岡神社から天児屋根命が春日大社へ勧進される途中に一時休憩された場所という伝承もあるそうです。
祭神は、天児屋根命、比賣神。
末社は、山の神社(大山祇命)。
本殿は明和4年(1767)の造営。

鳥居を入った所に、珍しい角ばった狛犬があります。
   


白毫寺まであと少し。宅春日神社を背に東方面へ。

忘れかけられた薬師如来。



道端にひっそりと、お祀りされています。


見えてきました。百段ほどの自然石の石段を登ります。












振り返ると奈良の景色が。


高円山 白毫寺(こうえんざん びゃくごうじ)
真言律宗の寺院。開基(創立者)は勤操。
大和北部八十八ケ所第六十三番札所。関西花の寺第十八番札所。春の五色椿と秋のハギで名高いお寺です。

本尊は阿弥陀如来坐像。檜材の寄木造で、平安時代末期から鎌倉時代頃の作といわれています。
木造菩薩坐像(伝文殊菩薩)、地蔵菩薩像等、 8体の重要文化財があります。

寺号の「白毫」は、仏の眉間にあり光明を放つという白く細い渦巻状の毛のことです。



本堂




五色椿(奈良県指定天然記念物)



寛永年間に興福寺の塔頭、喜多院から移植したものとされ、樹齢400年を超えているそうです。
東大寺開山堂の糊こぼし・伝香寺の散り椿とともに
「奈良三名椿」の一つです。











モクレンも綺麗に咲いていました。



コブクザクラ (子福桜)




コブクザクラは八重咲きで、花弁数は20~30枚。
花の色は白く、散り際に紅色を帯びる。秋から冬と春の年二回
咲きます。
十月桜(ジュウガツザクラ)と支那実桜(シナミザクラ)の雑種と
考えられているそうです。
和名の由来は、普通八重咲きは結実しにくく、1つの花に複数の雌しべがあるために複数の実をつけることからきています。


万葉歌碑





水仙




タネツケバナ



大椿







不動明王




不動明王に手をあわせ、石仏の道を通り抜けると

十王地蔵

矢田型と呼ばれる右手で印を結ぶ形。
後背に十王の浮彫を配しています。

八重白椿





蝦夷錦(えぞにしき)


他にも・・・








御影堂



宝蔵


閻魔王坐像(重要文化財)

宝蔵に祀られています。(パンフレットより)

閻魔王坐像の前で1月と7月の16日に行われる「えんまもうで」。
えんま様の縁日に無病息災と長寿を祈る行事です。
地獄のふたが開き、鬼も休業となり亡者が苦しみから逃れる日と
されています。


山茱萸(さんしゅゆ)

宝蔵の前に。



白毫寺の文字の順番が違っています。詳しいことは不明。

灯篭

こちらにも、「椿」が彫られています。

御朱印


白毫寺を後にして

鏡神社




拝殿、後方に本殿

本殿は、記録に春日大社第四十七年次式年造替の延享三年(1746年)に、本社本殿の第三殿を鏡神社へ譲渡したとあり、さらに昭和34年の本殿修理中には、屋根裏から「三ノ御殿」の墨書銘が二か所で
発見されています。
春日大社本社の旧本殿(一間社春日造、桧皮葺)であった、鏡神社の本殿は、当初の部材がよく残り、移築の経緯も記録に残っていて
貴重だそうです。

比売神社(ひめがみしゃ)



比売塚と呼ばれる小さな古墳の上に建てられている。鏡神社の摂社。
十市皇女を祭神とし、脇座は市寸嶋比売(いちきしまひめ)。

高さ約2.5m、幅約2mほどの社殿が建てられています。社殿の正面に朱塗りの門があり、中に入ることはできないようになっていますが、社殿に付いている鈴と、その門とがひもで結ばれていて、門前からそのひもを引いて鈴を鳴らすようになっているようです。

神像石

大友皇子・十市皇女から淡海三船までの4代とそれぞれの妃を
祀った石が置かれています。



そのほか、社殿の脇に、良縁を願う人々の絵馬が掛かっています。
その前には小さな石が置かれ、万葉集の
「河の上の斎つ岩群に草むさず 常にもがもな常処女にて」
という歌が彫られています。

北方面へ。高畑町界隈です。



春日山・不空院(しゅんにちざん・ふくういん)

真言律宗の仏教寺院
安置されている不空羂索観音座像は、東大寺・三月堂(法華堂)の立像、興福寺・南円堂の坐像とともに
「三不空羂索観音」といわれているそうです。

縁結びさん、縁きりさん

「縁きり寺」「かけこみ寺」とは、女性の立場が弱かった時代に不幸な縁から逃れ来た女性を受け入れ救済し、
他に異議を言わせぬ特権を有した寺のことです。
結ぶと切るとは表裏一つのこと。縁結びの神様も並んで祀られています。
「結ぶ時には切らねばならぬものがあり、
切ろうとするには新たに結ぶが良い」と。

縁結びの神は、「黒竜大神」「市杵嶋姫大神」。 
縁切りの神は、「法竜大善神」。  

「大乗院寺社雑事記」などの歴史文献には、奈良時代(753年・天平勝宝5年)中国より渡来された鑑真和上が、ここ不空院に
住まわれたとの記述があります。
また平安前期(810-824 弘仁年間)には、弘法大師(空海)が興福寺・南円堂建立の試みとして、鑑真住房跡であるこの地に雛形の八角円堂の建立を提案して願文を書いたと伝わり、これが不空院の始まりといわれているそうですが、定かではないそうです。
八角円堂はこの寺域に確かに建てられ、
不空羂索観音が奉安されたのは事実なようです。


説明は、各公式ホームページ、パンフレットを参考にしました。

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