【折々の花だより】

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気比神宮

2018-10-30 | デジカメ紀行
氣比神宮(けひじんぐう)
福井県敦賀市北東部に鎮座する、北陸道総鎮守 越前國一之宮です。
地元では親しみをこめて「けいさん」と呼ばれています。

建立は飛鳥時代
気比神宮は越前国一之宮でもあり、北陸道総鎮守ともされ、さらに明治時代には官幣大社となった格式の高い神社。境内には何やら荘厳な雰囲気が漂っています。ご祭神は伊奢沙別神・仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・應神天皇・玉妃命・武内宿禰命の合計7柱。
ご祭神の中には歴代天皇が、その為菊の神紋もみられます。

台風21号の去った9月23日訪れました。





主祭神、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は御食津大神(みけつおおかみ)ともいい食物を司り、古くより海上交通、農漁業始め衣食住の生活全般を護り給う神として崇められています。
神功皇后、応神天皇は漁業に対する御神徳著しく、古来五穀豊穣、海上安全、大漁祈願が行われ、農漁海運業者の崇信が極めてあついようです。
神功皇后は安産の神として霊験あらたか。
仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・武内宿禰命は無病息災延命長寿。
神功皇后・玉妃命は音楽舞踊の神。

表参道から

大鳥居




春日大社(奈良県)・厳島神社(広島県)と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つ。

高さ36尺(10.9m)柱間24尺、木造両部型本朱漆。
寛永年間、旧神領地佐渡国鳥居ケ原から伐採奉納した榁樹(むろのき)で、正保2年(1645)建立されました。
初代の鳥居は弘仁元年(810)境内東側に創建されましたが、康永2年(1343)暴風で倒壊、後に現在の西側の地に再建されました。
明治34年国宝に指定、現在は国の重要文化財です。
正面の扁額は有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)の御染筆。昭和20年(1945)の敦賀空襲では唯一その戦火を免れています。

<猿田彦神社>

末社。
祭神は猿田彦大神。氣比大神の案内をされる神で表参道北側にあります。
庚申様と唱えて信仰があつい。

鳥居をくぐると、左右で迎えてくれます。
  



  


大鳥居から参道を進めば二の鳥居のすぐ手前に見えてきます。

<長命水(ちょうめいすい)>

大宝2年(702年)、氣比神宮はそれまで伊奢沙別命(いざさわけのみこと)(氣比大神)1柱を祀る神社でしたが、文武天皇の勅命で大神とのご神縁により仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命の神々が合祀され、御祭神は七柱とされました。その際、神宮を修営しましたが、修営途中突然として地下水が噴出したと伝えられます。合祀された神々、特に武内宿禰命は大変長生きをされた神様ですので、これは、祀られた神々の御神徳が宿る神水として信仰され、1300年以上、長命水の名称で親しまれています。
亀の口から湧き出ている霊水は、「この水を一口、年の初めに飲めばその年は健康でいられる」と言われているそうです。
近年では「パワースポット」として境内名所の一つとなっています。

向かい側に。
<社務所>


<手水舎>


<二の鳥居>


鳥居をくぐる前に・・・。

<旗揚げ松>




南北朝争乱時代の延元元年(1336)当神宮宮司氣比氏治が南朝後醍醐天皇を奉じ、氣比大明神の神旗を掲げたと云う「旗掲の松」。
金ヶ崎城を築いて足利軍に対し奮戦したものの、一門ことごとく討ち死す。
今でも旧根が朱塗中鳥居前に残り二代目が成木として育っています。

<ユーカリ>




昭和11年、当時陸軍関係者が武運を祈願して献木されました。
敦賀市指定天然記念物に指定。

<松尾芭蕉像>





俳人芭蕉は「おくのほそ道」の旅において、月を詠む事が目的の一つであり、敦賀での仲秋の名月を心待ちにしていました。
元禄2年(1689)9月27日(旧暦8月14日)夕刻敦賀入りし、旅籠出雲屋(現敦賀市相生町)に宿をもち、
「あすの夜もかくあるべきにや(明日も晴れるでしょうか)」芭蕉の問いに出雲屋主人は「北陸の天気は変わりやすい。明日はわかりません。今夜のうちに(氣比神宮へ)参りませんか。」と答え、それならばと夜参りに出かけ月見を堪能。翌朝(8月15日)は主人の言葉通り雨天、「名月や北国日和定めなき」と句に残されたそう。


像の台座にきざまれています。
名月を鑑賞した芭蕉は、月明かりに照らされた神前の白砂をいたく感動したそう。元々泥だった気比神宮の周辺を砂で埋めたとされる遊行上人の功績と知り、
「月清し遊行のもてる砂の上」という句を残しています。

二の鳥居をくぐります。

正面に見えてきました。

<外拝殿>






<回廊>




<横から本殿を>


境内をまわります。

<九社の宮>
境内の西方に位置し、御本殿を向い九社の神社が鎮座。氣比大神の御子神等関係の神々をお祀りする社として崇敬され、九社之宮として知られています。





伊佐々別神社(いささわけじんじゃ)
祭神は御食津大神荒魂神(みつけおおかみあらみたまのかみ)。当宮奮記によれば「古来漁捕の輩之を尊敬し奉る」とある。この社殿が北面しているのは漁撈を守る神であるから、北方の海を向いているのだと伝えられている。往昔応神天皇皇太子の時当宮に参拝され、夢に大神が現れ御名を易(か)うる事を約しまた仰せの通り翌朝浜に出てみると笥飯の浦一面に余る程の御食(みけ)の魚(な)を賜わった。天皇大いに嬉び給うと共に御神威を辱なみ、武内大臣に命じて新たに荒魂(あらみたま)を勧請崇祀せしめられたのがこの社である。

擬領神社(おおみやつこじんじゃ)
社記に武功狹日命(たけいさひのみこと)と伝え、一説に大美屋都古神(おおみやつこのかみ)又は玉佐々良彦命(たまささらひこのみこと)とも云う。奮事紀には「蓋し當國國造の祖なるべし」と載せてある。



天伊弉奈彦神社(あめのいざなひこじんじゃ)
祭神は天伊弉奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)。式内社で續日本後記に、承和7年8月越前國従二位勲一等氣比大神御子無位天利劔神、天比女若御子神、天伊佐奈彦神、並従五位下を奉授せらるとある。

天伊弉奈姫神社(あめのいざなひめじんじゃ)
祭神は天比女若御子大神。式内社、社家伝記に、伊佐奈日女神社、伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものなりと云う。古来縁結びの御神徳が顕著である。



天利劔神社 (あめのとつるぎじんじゃ)
祭神は天利劔大神。式内社、仲哀天皇当宮に参拝、宝劔を奉納せられ霊験いと奇しと云う。後に祠(ほこら)を建て天利劔宮と称え奉り御神徳をさずかる崇敬者は多い。

鏡神社(かがみのじんじゃ)
神功皇后角鹿に行啓の際種々の神宝を当宮に捧げ奉った。其の中の宝鏡が霊異を現わされたので別殿に國常立尊(くにのとこたちのみこと)と共に崇め奉り天鏡宮(あめのかがみのみや)と称え奉ったと云う。慈悲の大神として知られる。



林神社(はやしのじんじゃ)
林山姫神(はやまひめのかみ)を祀る。福徳円満の大神として崇敬者が多い。延喜式所載の越中國礪波郡林神社は当社と御同体である。垣武天皇延暦4年勅に依り僧最澄氣比の宮に詣で求法を祈り、同7年再び下向して林神社の霊鏡を請ひ比叡山日吉神社に遷し奉った。即ち当社が江州比叡山氣比明神の本社である。



金神社(かねのじんじゃ)
素盞鳴尊(すさのおのみこと)を祀り、家内安全の神とされている。垣武天皇延暦23年8月28日、僧空海当宮に詣で、大般若経1千巻を転読求法(てんどくぐほう)にて渡唐を祈る。嵯峨天皇弘仁7年に復び詣でて当神社の霊鏡を高野山に遷して、鎮守の杜とした。即ち紀州高野山の氣比明神はこれである。

劍神社(つるぎじんじゃ)
御祭神は姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)、剛毅果断の大神として往古神明の神託があったので、莇生野村(旧敦賀郡)へ勧請し奉ったと伝えらる。

九社説明は、ホームページ原文のままです。

<神明社>

末社。祭神は天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)。外宮は慶長17年3月28日、内宮は元和元年9月28日それぞれ勧請奉祀されたもの。

<鳥居>


  
  
鳥居の向こうにみえるのが・・・。

<土公(どこう)>



氣比神宮境内全域11,253坪。天筒山の方角、神宮北東部に残る「土公」は氣比大神降臨の地とされ気比神宮鎮座にかかる聖地。
社殿家屋建立の時、「この土砂を其の地に撒けば悪しき神の祟りなし」と信ぜられる伝説と神秘に富む神代の述霊。

<神苑、神水苑>



敦賀は名水湧出の地(大宝2年(702)の神宮造営中に湧き出た1300年以上の歴史を有す名水)。
特に境内は水脈の中心に位置し江戸時代、亀池は「日本庭園歴覧」に記された名池でもあったそう。明治42年東宮殿下(大正天皇)御参拝のお茶の水に用いられた一井がその由来を語っています。昭和の大造営で亀の池を改修、滝のある神水苑を整備しお水取りの参詣者でにぎわうようです。
台風によりその姿は・・・。

<絵馬殿>





大神下前神社

末社。
祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)。
式内社、敦賀市内氣比大神四守護神の一つとして、天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転。稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰があついそう。

兒宮(このみや)



末社。
祭神 伊弉冊尊(いざなみのみこと)。
平安朝時代、花山天皇寛和2年9月20日遷宮の事が残されており、その以前より御鎮座の事があきらか。
徳川時代から子宝祈願を始め安産の神と称され、小児の守神として信仰があつい。
拝殿には、母子大小の狛犬が御まもり。

角鹿神社

摂社。
祭神 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)。
式内社、崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所(まんどころ)の跡にこの命を祀り、現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名によります。往古東門口が表通であったため氣比神宮本社の門神と云われています。


<御手洗川>




<南参道>

鳥居が建っていたそうですが、台風による倒木の為壊れてしまったそうです。

神社を後にして。

<気比の松原>


敦賀湾最奥部に広がる美しい松が印象的な国の名勝地。
長さ約1.5km、広さ約40万㎡という広大さと、白砂青松のコントラストが印象的な松原。赤松、黒松約17,000本が生い茂る国の名勝地です。
三保の松原(静岡県)・虹の松原(佐賀県)と並ぶ日本三大松原の一つです。






説明文は公式サイトを参考にしました。
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