【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

戒光寺~観音寺

2020-07-26 | デジカメ紀行
戒光寺

京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派準別格本山の寺院。

後掘河天皇のご勅願所として鎌倉時代中期に創建された戒光寺は応仁の乱で伽藍を消失。
全高10mの木像「丈六釈迦如来像」(通称 丈六さん)は奇跡的にその大火から免れました。
何度かの移築後、後水尾天皇のお身代わりになられたことから皇室の菩提所である泉涌寺の塔頭となりました。

7月18日訪れました。

  


門をくぐります。

  


風鈴が涼しげです。



弁財天

泉山七福神の第二番、泉山融通弁財天は、金銭の融通をして下さる弁天様で、学芸・商売はもとより、融通を利かせてあらゆるお願いを聞いて下さいます。尊像は伝教大師作と伝えられています。


本殿の前で。





本殿へ入ります。


TVの「ミント」で放送されたそうです。

説明を聞き・・・。

丈六釈迦如来像



(公式サイトより)

鎌倉時代の仏師 運慶・湛慶親子の合作。宋風をおびた極彩色の木像・寄木造で重要文化財に指定されています。
身の丈、約5.4メートル、台座から光背部を入れると約10メートル。
付け爪のような長い爪とふっくらした手。
首の辺りから何か流れている様に見えるのは、血の跡だといわれています。これは、後水尾天皇が東宮であった頃、即位争いに巻き込まれ暗殺者に寝首を掻かれた時に、この釈迦如来が身代わりにたたれ、ついた血の跡だといわれています。
この事から、身代わりのお釈迦様と呼ばれるようになり、「悪しき事のお身代わりになってくださる」又、「首から上の病気、のどの病気を治してくださる」と、崇められ、大きな仏様という意味で「丈六さん」と呼ばれ親しまれています。

本堂内陣に入ります。

不動明王像

(公式サイトより)

木像。造られた時代・作者共に不明ですが、鎌倉時代より前のものではないかと言われています。
不動明王の像は岩座を踏み締めるのが普通ですが、この像は足の裏を見ることが出来ます。



戒光寺を後にして、泉涌寺参道を上がって行きます。

観音寺、参道へ。

真言宗泉涌寺派。
平安の昔、弘法大師空海上人が唐の国から帰国ほどなくの頃、東寺で真言密教の秘法を修法されていたとき、東山の山中に光明がさし瑞雲棚引いているのを見られました。
不思議に思われてその方へ行かれると、白髪の一老翁が姿を現われ、
「この山に一寸八分の観世音がましますが、これは天照大神の御作で、衆生済度のためにこの地に来現されたのである。ここに一宇を構えて観世音をまつり、末世の衆生を利益し救済されよ。」
と語りかけられ、一寸八分の十一面観世音菩薩像と、一夥の宝印を大師に与えられました。
大師はお告げのままに一堂を建立、一尺八寸の十一面観世音菩薩像を刻まれ、授かった一寸八分の像を体内仏として納め、奉安されたのがはじまりです。
弘法大師御作の観世音菩薩像は秘仏として祀られています。


鳥居橋

観音寺と泉涌寺の間の谷を流れる今熊野川を越えるのが鳥居橋です。




橋を渡って参道を進みます。




子まもり大師

大切な子供達を護り育んで下さるのが、子護弘法大師です。
弘法大師は観音寺を開創された方です。子供達の心身健康・学業成就・諸芸上達・交通安全など。


階段を上がって行きます。



境内へやってきました。



医聖堂

本堂東側の山上に高くそびえ立つ平安様式の多宝塔です。
医と宗教がともに手をたずさえて、人類がともに明るく健康に暮らせるような社会が築かれますよう、との住職の願いを込めて建立。
医界に貢献された多くの方々が祭祀されています。


本堂



正徳2年(1712)に、宗恕祖元律師によって建立されました。
西国霊場の巡拝者は、まずここに参拝して御納経(御朱印)を戴きます。
本尊は、弘法大師御作と伝えられる十一面観世音菩薩(身丈・一尺八寸)。
体内仏として熊野権現より授かった、天照大神作の十一面観世音菩薩(身丈・一寸八分)が祀られています。

本堂でのお参りはこちらから。

注意書きがありました。



三重石塔

創建時(平安様式)



五智の井

弘法大師が当山を開かれるときに錫杖をもって岩根をうがたれて湧き出した水が五智水です。
その五智水が井戸水として湧き出しています。


大師堂

開創された弘法大師をお祀りしているお堂です。


ぼけ封じ観音

大師堂の前に立たれる観音さまです。
私たちをとりまく心や身体のぼけを取り除いて下さる観音さまです。


お身代わりの石仏に願い事を込めて奉納されています。




鎮守社として二社あります。

稲荷社

稲荷明神をお祀りしています。大師堂の南側に位置し、稲荷明神は、京都伏見に鎮座され、日本全国の各地に奉祀される穀稲食貨の神です。

熊野権現社

平安の昔、弘法大師空海上人が唐の国から帰国したほどなくの頃、山中の光明にひかれてこの地に来、そこで熊野権現と会いました。
大師に一寸八分の観世音を授けられ、また永くこの地の守護神になると約されたと伝えられています。


鐘楼




説明文は公式サイトを参考にしました。

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畑ノ前公園 遺跡の杜~稲植神社

2020-07-19 | デジカメ紀行
畑ノ前公園 遺跡の杜(はたのまえこうえん いせきのもり)
京都府精華町精華台にある、南山城の代表的な遺跡のひとつです。
奈良時代の豪族の館跡とみられ、7mの深さの巨大な井戸跡も発見されています。
調査後、その一部が公園として保存されました。

館跡







周りに






遊具もあります。





  



公園から北の方、稲植神社(いなうえじんじゃ)へ向かいます。









手水舎には牛。


精華町大字植田小字上山にある、稲植神社。


南稲八妻および植田地区の氏神として建立された神社で、長禄年間(1457-1460)に春日神社より勧請したと伝わっています。
主祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)。
応仁の乱などで焼失し一時期衰微していましたが、明治2年に再建されました。明治以前は東福寺という神宮寺(神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂のこと)があったと伝わっています。







  


末社

八幡宮、天満宮、熊野宮、八王子社。

四宮神社(しのみやじんじゃ)



町内丸山古墳伝承地に建立されていたと伝わる四宮神社が移されています。


四宮神社の左手奥に見えているのが本殿。



稲植神社の祇園祭り「ぎおんさん」
稲植神社は元祇園(京都八坂神社の元)といわれ、毎年7月14日の夕方から行われる祇園祭りは「ぎおんさん」と呼ばれて大勢の参拝客でにぎわいます。


続いて三宝大荒神社へ・・・。














  

  

  

    

消火栓の蓋
  
中央に町章入りの消防徽章。
町章は「せ」を図案化したものです

写真は6月3日のものです。
説明文は精華町ホームページを参考にしました。


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紫陽花

2020-07-13 | 花だより
紫陽花
雪の下(ゆきのした)科。 6月から7月にかけて咲きます。



 
色がついているのは「萼(がく)」で、花はその中の小さな点のような部分。
花の色は土が酸性かアルカリ性かによっても変わり、酸性土壌は青色っぽくなり、アルカリ性土壌は赤色っぽくなる。青 → 紫 → ピンクと変化していくものもあります。

花言葉は、「移り気」や「浮気」「無常」。
この花言葉は、あじさいの花の色が変化することから付けられたと言われています。
色ごとの花言葉は、「青=辛抱強い愛情」「ピンク=元気な女性」「白=寛容」です。
6月2日、7月1日の誕生花。


万葉集 橘諸兄(たちばなのもろえ)
「安治佐為(あぢさゐ)の八重咲くごとく弥(や)つ代にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ」
   
藤原保吉(ふじわらやすよし)
「紫陽花や折られて花の 定まらぬ」
   
松尾芭蕉
「紫陽花や藪(やぶ)を小庭の 別座敷」

小林一茶   
「紫陽花の末一色(すえひといろ)となりにけり」

正岡子規(まさおかしき)   
「紫陽花やはなだにかはるきのふけふ」

  
近所の公園で6月17日に撮ったものです。

  

    
  
  

  

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大神神社、茅の輪くぐり

2020-07-10 | デジカメ紀行
大神神社
ご祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)がお山に鎮まるために、古来本殿は設けずに拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝するという原初の神祀りの様を伝える我が国最古の神社です。

三ツ鳥居(みつとりい)は、国重要文化財。神の山・三輪山と拝殿を区切る場所に立ち、本殿にかわるものとして神聖視されてきました。

大神神社拝殿の奥は禁足地として普段は神職さえ足を踏み入れない神聖な場所で、禁足地と拝殿の間には結界としてと瑞垣が設けられています





参道を進むと見えてきました。


年明けから半年間のけがれを祓う「夏越(なごし)の大祓(おおはらえ)」。
昨年に続き6月22日訪れました。

茅の輪

大神神社の茅の輪は「三輪の茅の輪」と呼ばれ、鳥居の中に3つの茅の輪が並んでいます。
拝殿奥の禁足地と拝殿を仕切る三ツ鳥居を模している、平安時代から続くオリジナルの形だそうです。

中央の大きな茅の輪は縦横2・6メートル、重さ約70キロ。左右の2つは縦横2・1メートル、重さ約60キロ。神霊が宿るとされる杉、松、榊の3霊木も付けられています。
茅は宇陀川周辺で採取し、職員さん5人がかりでつくったそうです。

最初に中央の茅の輪をくぐり、その後「8」の字を描くように残り2つをくぐり、今年後半の健康を祈願しました。


巳の神杉(みのかみすぎ)



三輪の大物主大神の化身の白蛇が棲むことから名付けられたご神木。
蛇の好物の卵がお供えされていました。


久延彦神社 (くえひこじんじゃ)、狭井神社 (さいじんじゃ)へと向かいます。


久延彦神社

神社の末社。少彦名命の神名を教えられた久延毘古命(くえぶこのみこと)が祭神。
久延毘古命は『古事記』に世の中の事をことごとく知っている智恵の神様と記されています。
受験・進学・就職等の成就。








景観

大鳥居の左の方に、耳成山。

神山遥拝所

「願掛け絵馬」がたくさんかけられています。


久延彦神社から狭井神社 へ向かう途中・・・。

ササユリが咲いていました。
  



ササユリ園案内

残念ながら、こちらはすでに終わっていました。


展望広場へ


  

大鳥居と耳成山



  


下りてきました。

 
狭井神社方面



市杵島姫(いちきしまひめ)神社







手水舎



歌碑 





三島由紀夫揮毫、記念碑





参道を進みます。


狭井神社 (さいじんじゃ)
三輪の神様の荒魂(あらみたま)をまつる神社。力強いご神威から病気平癒の神様として信仰が篤い。

拝殿


登拝、登り口




三輪山は、奈良盆地をめぐる青垣山の中でもひときわ形の整った円錐形の山です。古来、大物主大神が鎮(しず)まる神の山として信仰され高さ467メートル、周囲16キロメートル、面積350ヘクタール、松・杉・檜などの大樹に覆われて、一木一草に至るまで神宿るものとして尊ばれています。特に杉は『万葉集』をはじめ、多くの歌集に詠われ「三輪の神杉」として神聖視され、後世に三輪山の杉葉で造られた杉玉が酒造りのシンボルとして酒屋の軒先に飾られるようになりました。

御神水


  
霊泉







説明文は公式サイトを参考にしました。


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丹生川上神社(にゅうかわかみじんじゃ)Ⅲ

2020-07-04 | デジカメ紀行
丹生川上神社上社
吉野郡川上村にある上社は、山々の緑と青々としたダム湖が見える「天空の社」。

天武天皇白鳳四年(675)ご神宣により建立奉祀されたと伝えられます。
御祭神の高龗大神(たかおかみのおおかみ)は龍神にて水、雨を掌られる大神様です。



祈雨・止雨の神として奈良時代には淳仁天皇天平宝字七年(763)の奉幣祈晴をはじめ、室町時代に至るまで数10回の奉幣祈願がなされ、朝廷・国家また人々より篤い崇敬を受けてきました。
朝廷の奉幣にあたり旱魃の際の祈雨には黒毛の馬を、長雨の際の止雨には白毛の馬を奉るを例としました。
この生きた馬の代わりに絵馬を奉納するという風習が、のちに普及したといわれているそうです。

平成28年、日本遺産「森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしと こころ ~美林連なる造林発祥の地“吉野”~」の構成文化財の1つとして認定されました。
境内地は、昭和34年の伊勢湾台風による大滝ダム建設に伴い水没、現在地に平成10年3月にご遷座しました。

ずいぶん上がって来ています。


境内へ入ります。

拝殿


拝殿掲額

しんそうてんさい
神の雨がうるほしそそぎ恩恵をほどこす、の意味。

拝殿前の狛犬ならぬ狛馬
  



平安時代祭場跡(復元)





拝殿横へまわります。


放流台



平成26年11月16日、全国豊かな海づくり大会~やまと~。
「おおたき龍神湖放流行事」で天皇皇后両陛下がアユ・アマゴを放流された際に使われた、放流台が奉納されたそうです。
吉野杉磨き丸太で作られています。


本殿を横から。

本殿は平成10年造営 伊勢神宮から古材を戴いたそうです。


御末社







狛犬






手水舎



顔はめパネル



元宮遥拝所






軒下で、子育て中。



説明文は、公式サイト、ウィキペディアを参考にしました。








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丹生川上神社(にゅうかわかみじんじゃ)Ⅱ

2020-07-01 | デジカメ紀行
東吉野村の「丹生川上神社 中社」は、3社の中で最も東側に位置します。

6月4日訪れました。



天武天皇白鳳4年(675)、雨乞い祈願の社として創祀。水の神「罔象女神(みづはのめのかみ)」を祀り、式内社・官幣大社、二十二社の1つでもあり、古くから水を司る神社として重視されてきました。
降雨を祈願する場合は黒毛馬、雨が止むことを祈願する場合は白毛馬又は赤毛馬を奉納したと言われています。






丹生川上神社 中社のすぐ目の前には、高見川が流れています。





拝殿


拝殿から本殿へ階段が続いています。。


本殿(左手上に見えています。)

江戸時代末の建築で、本殿と東殿・西殿、全て流れ造りの桧皮葺なのだそうです。

拝殿の屋根の内側に掲げられている絵馬



拝殿前の祓串(はらいぐし)

左右左と自分で自分を祓ってからお参りします。


手水舎


龍も疫病退散の鉢巻きをしめています。



清めの水





なでフクロウ





相生の杉

樹齢800年程の大木が相い対するようまっすぐそびえ立っています。
この2本の大杉を「相生の杉」と呼び、夫婦円満・延命長寿のご加護があるとして
信仰されるようになりました。


叶えの大杉(千年杉)

樹齢1000年程の巨大な古木です。
幹に両手を当て、心の願いをこう唱し、ご神威をお授かり下さいと。




西参道辺りに。
鳥居





丹生竜王大神社





滝が見られると聞いたので向かうことに。

神社の背後の山「小牟漏岳(おむろがたけ)」の説明。

古事記によると、雄略天皇4年(460)、天皇が小牟漏岳で狩りをされ、御呉床に座られていると、虻が天皇の御腕を喰った。その瞬間、蜻蛉が飛んできて、その虻をくわえて飛び去った。天皇は蜻蛉をほめて御歌を詠み。この地を蜻蛉野(あきつの)と名づけられた、と。

天然記念物(国指定)ツルマンリョウ自生地 - 本殿後背の小牟漏岳に群生。
昭和32年(1957年)指定。見られませんでしたが…。




丹生川上神社中社から少し上流、「蟻通(ありとおし)橋」の辺りでは高見川に、四郷川、日裏川が合流する深淵があり、「夢淵」と呼ばれています。

蟻通橋から見た合流点です。



夏になれば川遊びの家族連れで、賑わうそうです。


蟻通橋を渡った直ぐ右手に丹生川上神社の摂社「丹生神社」が建てられています。







丹生川上神社のもう少し上流に真っ赤な吊り橋「ゆめはし」がかかっています。


この橋を渡って行きます。


東の滝

しめ縄がかかっています。
夢淵に注ぎます。


上から見下ろして・・・。



続いて、上社へ向かいます。





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