【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

馬見丘陵公園

2021-05-29 | 花だより
昭和40年代後半より丘陵西部では真美ヶ丘や西大和ニュータウンなどの大規模宅地開発が始まりましたが、丘陵東部に位置する馬見丘陵公園は、これらの開発から自然や古墳群を保全するため、「歴史と自然に囲まれた憩いの空間」を目指して、昭和59年8月に都市公園(広域公園)として都市計画決定し、同年度より公園事業に着手しました。
平成24年6月、馬見丘陵公園は中央エリア及び南エリアの一部を開園し、全面開園しました。
馬見丘陵は、香芝市・広陵町・河合町など2市3町に跨る標高70m程度の東西約3km、南北約7kmに及ぶ低い丘陵地で、この丘陵は馬見古墳群のエリアと一致し、古墳の集積地となっています。

5月14日、「なんじゃもんじゃの木」を目当てに出かけました。

カリヨンの丘あたりで。





カリヨンの丘から西方にあるとの事で。



残念ながら・・・。


「なんじゃもんじゃの木」
木犀(もくせい)科の花で、4月20日から5月10日頃にプロペラ型の白い花を咲かせます。
「なんじゃもんじゃ」とは名前が分からない大木に付けられた総称であり、特定の樹種を示すものではなく、
「くすのき」「あぶらちゃん」「かつら」などに「なんじゃもんじゃの木」の名前がつけられているそう。
一般的によく知られているのは「一葉(ひとつば)たご」と呼ぶ種類です。


                       (画像、説明文は、季節の花300より)


気を取り直して、園内を散策しました。

  

  

  

  












  

    
  

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梨の花

2021-05-24 | 花だより
五條市東阿田町にある『梨の花農園RIKAEN』。

二十世紀梨の栽培で全国の先駆けとなったのが、吉野郡大淀町と五條市東阿田町にまたがる大阿太高原でした。この地は、現在も奈良県内で最大の梨の生産地です。
梨文化を発信する団体「梨の花プロジェクト」さんが運営する、「梨の花プロジェクト拠点ファーム RIKAEN」は、約1万平方メートルの敷地に、梨の花園と梨の果樹園エリアに分かれていて、花園では、花を観賞するための梨が育てられています。

農園は私設公園として一年中無料開放されており、園内で休憩や飲食もできます。
梨の花が咲く4月中旬には、ライトアップイベント「梨灯り」やマルシェなども開催されます。

4月15日訪れました。

  









農園、カフェへの入り口。







中へ入ります。

顔出しパネル









右手が果樹園エリアです。

ネコバスがいます。



トトロもいます。



左手の花園には、手造りの遊具、アスレチックなどが設けられています。







手書きの説明版がたてられています。































「梨の花」
今年は開花(雄しべが濃いピンク状)が早く、ほとんど花は咲き終わってる状態との事。



  







実が出来たころに「梨」を買いに、来年は満開の花を見に来られたら・・・の思いで、併設された「cafeあだむる」で休憩しました。







  



近くに、花岡大学さんの碑が建っています。


名作「百羽のつる」の一説を刻んでいます。

  

「花岡大学」
大淀町佐名伝の浄迎寺(じょうこうじ)で生まれた、児童文学作家(童話作家)です。(1909-1988)
浄迎寺の如是庵(如是は大学の雅号)を拠点として、個人雑誌「まゆーら」、小学校国語に取り上げられた作品「おおきなかぶら」や「請願寺のこどもたち」等を編集・執筆し、子どもの立場から仏教の教えに根ざした世界を描く、「仏典童話」を確立しました。また『吉野風土記』を編集し、吉野の郷土史研究にも大きく貢献しました。
晩年の昭和61年(1986年)、その功績を顕彰するため、大阿太高原梨園内に「花岡大学童話碑・百羽のつる」が、清水公照・元東大寺長老の揮毫を得て建立されました。

「百羽のつる」
冷たい月の光で、こうこうと明るい、夜更けのひろい空でした。
そこへ、北の方から、真っ白な羽を、ヒワヒワとならしながら、百羽のツルが、飛んできました。百羽のツルは、みんな、同じ速さで、白い羽を、ヒワヒワと、動かしていました。 首をのばして、ゆっくりゆっくりと、飛んでいるのは、疲れているからでした。なにせ、北の果ての、さびしいこおりの国から、昼も夜も、休みなしに、飛び続けてきたのです。だが、ここまで来れば、行き先は、もうすぐでした。
楽しんで、待ちに待っていた、きれいな湖のほとりへ、着くことができるのです。
「下をごらん、山脈だよ。」と、先頭の大きなツルが、嬉しそうに、言いました。みんなは、いっときに、下を見ました。黒々と、いちめんの大森林です。雪をかむった、高い峯だけが、月の光をはねかえして、はがねのように、光っていました。「もう、あとひといきだ。みんな、がんばれよ。」百羽のツルは、目を、キロキロと光らせながら、疲れた羽に、力を込めて、しびれるほど冷たい、夜の空気をたたきました。 それで、飛び方は、今までよりも、少しだけ、速くなりました。もう、あとが、しれているからです。残りの力を、出しきって、ちょっとでも早く、湖へ着きたいのでした。
するとその時、一番後ろから飛んでいた、小さな子どものツルが、下へ下へと、おち始めました。
子どものツルは、みんなに、内緒にしていましたが、病気だったのです。ここまでついてくるのも、やっとでした。みんなが、少しばかり速く飛び始めたので、子どものツルは、ついていこうとして、死にもの狂いで、飛びました。それが、いけなかったのです。あっという間に、羽が、動かなくなってしまい、吸い込まれるように、下へおち始めました。だが、子どものツルは、みんなに、助けを求めようとは、思いませんでした。もうすぐだと、喜んでいる、みんなの喜びを、壊したくなかったからです。黙って、グイグイとおちながら、小さなツルは、やがて、気を失ってしまいました。
子どものツルのおちるのをみつけて、そのすぐ前を飛んでいたツルが、鋭く鳴きました。すると、たちまち、大変なことが起こりました。前を飛んでいた、九十九羽のツルが、いっときに、さっと、下へ下へとおち始めたのです。子どものツルよりも、もっと速く、月の光をつらぬいて飛ぶ、銀色の矢のように速く、おちました。そして、おちていく子どものツルを、追い抜くと、黒々と続く、大森林のま上あたりで、九十九羽のツルは、さっと羽を組んで、一枚の白い網となったのでした。すばらしい九十九羽のツルの曲芸は、見事に、網の上に、子どものツルを受け止めると、そのまま空へ、舞い上がりました。
気を失った、子どものツルを、長い足でかかえた先頭のツルは、何事もなかったかのように、みんなに、言いました。
「さあ、もとのように並んで、飛んでいこう。もうすぐだ。がんばれよ。」 こうこうと明るい、夜更けの空を百羽のツルは、真っ白な羽をそろえて、ヒワヒワと、 空の彼方へ、次第に小さく消えていきました。(大淀町サイトより転記)


説明文は公式サイトを参考にしました。

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仏頭山上宮皇院 橘寺

2021-05-14 | デジカメ紀行
奈良県明日香村にある橘寺。
創建年代不詳。文献に初めて登場するのは天武9年(680)。聖徳太子誕生の地といわれ、太子建立の7カ寺の一つ。8世紀には66もの堂宇が立ち並ぶ大寺院で四天王寺式伽藍配置をとっていました。
現在は江戸期に再建された本堂(太子殿)など、わずかな諸堂を残すのみとなっています。

5月4日訪れました。









聖徳太子の誕生
西暦572年、当時欽明天皇の別宮で橘の宮のあったこの地に、その第4皇子橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)(後の31代用明天皇)と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を父母とし、誕生されたと伝えられています。


<西門>



西門の前に植えられています。

左近桜                  右近橘
  



門をくぐり境内へ。

<手水舎>

(奥に見えるのは、慈憩堂)



<本堂(太子堂)>

元治元年(1864年)に再建された建物。
本尊は、聖徳太子35歳の時、勝鬘経を講讃されたお姿とされる聖徳太子座像が安置されています。(国重要文化財)


<黒駒>






<二面石>


  

高さ約1mほどの飛鳥時代の石造物で、左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現しているといいます。


<親鸞聖人像>




<護摩堂>

(不動明王)



<経堂>

(阿弥陀如来)




<往生院>

お迎え(?)してくれました。


天井画

本尊は阿弥陀三尊。念仏写経研修道場。
著名な画家による華の天井画が260点奉納され、華の浄土の様相を呈しています。


横からの往生院。



<放生池>

見えているのは、本堂、経堂。


<東門(正門)>


門から外を見ると・・・。



<鐘楼>




  


  


  


説明文は公式サイトを参考にしました。


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叡福寺

2021-05-07 | デジカメ紀行
「聖徳太子の遺徳たたえ 叡福寺で1400年遠忌法要」

大阪府南河内郡太子町にある叡福寺で、10日、太子の1400年遠忌の法要が始まりました。
僧侶や参拝客ら約250人が遺徳をたたえ、法要は各宗派がそれぞれ営み、5月11日まで約1か月続きます。


 
山号は磯長山(しながさん)。大阪みどりの百選に選定されています。

敏達元年(574年)、飛鳥の地に誕生。20歳で伯母である日本最初の女帝推古天皇の摂政となり、32歳の頃(推古12年)には日本最古の憲法「十七条憲法」を制定。

叡福寺は石川寺、太子寺、御廟寺とも称され、四天王寺、法隆寺とならんで太子信仰の中核となった寺院で、太子薨去後、推古天皇より方六町の地を賜り、霊廟を守る香華寺として僧坊を置いたのが始まりです。神亀元年(724)には聖武天皇の勅願より七堂伽藍が造営されたと伝わります。

天正2年(1574)、織田信長の兵火により堂塔の全てを失いましたが、慶長8年(1603)豊臣秀頼により聖霊殿が再建されたのをはじめ、江戸中期にわたって宝塔、金堂などの廟前伽藍が再興されました。




南大門と宝塔が見えています。


<隔夜堂>

本尊は石仏の阿弥陀如来坐像(府指定有形文化財彫刻)。平安末期か鎌倉初期の作と言われています。
「聖徳太子御廟前」バス停にもなっていて、聖徳太子のとび出し坊やがいます。


<南大門>




  

天正2年(1574年)の兵火で焼かれ、慶長年間に再建されました。腐朽のため昭和33年(1958年)に再々建築されています。左右に金剛力士を安置しています。


<金堂>府指定文化財


手水舎から

享保17年(1732年)に再建。本尊は高さ90mの如意輪観音の坐像。 聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいています。 脇侍は不動明王と愛染明王です。


<宝塔>重要文化財

承応元年(1652年)の再建。本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置し、4本の柱には四天王の像が描かれています。


<聖霊殿>重要文化財

太子堂とも呼ばれ、聖徳太子16歳植髪等身像と南無仏太子2歳像が祀られています。文治3年(1187年)後鳥羽天皇が宮中にあった16歳像を下賜されました。


<弘法大師堂>

本尊の弘法大師像(60歳)は、自ら三鈷をもって刻まれたと伝えられます。 胎内には真言八祖相承の仏舎利が納められています。


<二天門>


  






<聖徳太子御廟>宮内庁管轄



聖徳太子自らが廟所として選定された磯長廟(しながびょう)は、大和から二上山を越えて河内に入った丘陵を利用した円墳(高さ7.2m、直径54.3m)で、内部は横穴式石室になっています。
推古30年(622)旧暦2月22日(太陽暦4月11日頃)太子が49歳で薨去後、太子と母后・穴穂部間人( あなほのべのはしひと)皇女、妃・膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)の三体を合葬した三骨一廟です。
周囲は結界石で二重(観音の梵字)(浄土三部経)に取り囲まれています。


<上の御堂>

聖徳太子摂政像が祀られています。 元禄元年(1688年)、当国の丹南藩主・高木主水正が、回廊・二天門・鐘楼などと一緒に寄進したことが棟札からわかります。


<浄土堂>

慶長2年(1597年)、伊藤加賀守秀盛の再建。御本尊は阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊です。


<鐘楼>





<久邇宮邦彦王遺髪塔>





<見真大師堂>

明治45年(1912年)建立。本尊は親鸞聖人の坐像です。 聖人が88歳で御参籠の折、自らこの像を刻んで遺されたといいます。


<経蔵>

六角形の建物で、多くの写経典類が納められています。


<磯長御廟>





<念仏堂>

本尊は阿弥陀如来で、脇侍は観音・勢至菩薩。善光寺48箇所中の第13番札所。


<客殿>

天正年間、当国高屋城が陥落した際の古材を用いて建てられました。


境内で見られた花達。







  


  


会館(聖徳太子絵伝が公開されていました)内で、一息。






太子町マンホール

聖徳太子が制定された、「十七条憲法」の1ヶ条「和を以って貴しと為す」を記し、
人々のコミュニケーションの必要性や、地域で培われてきた人々のつながりと人情味を表現しています。
併せて地域のランドマークともなっている二上山とともに、聖徳太子御廟の守護寺である叡福寺の多宝塔と町花であるさつきをあしらい、
親しみのある下水道を目指しデザインされたものです。

4月23日に訪れました。説明文は公式サイトを参考にしました。



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