【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

正暦寺

2017-11-28 | 花だより
正暦寺
奈良市東南の郊外の山間にあるお寺です。
992(正暦3)年、一条天皇の勅命を受けて兼俊僧正(藤原兼家の子)によって創建。
当初は、堂塔・伽藍を中心に86坊の塔頭が渓流をはさんで建ち並び、勅願寺としての威容壮麗を誇っていましたが、1180(治承4)年、平重衡の南都焼き討ちの際、その類焼を受け、全山全焼、寺領は没収されました。1218(建保6)年、興福寺一乗院大乗院住職信円僧正(関白藤原忠通の子)が、法相宗の学問所として再興しましたが、江戸時代以降は衰退し、ほとんどの堂塔・伽藍は失われ、現在では、福寿院客殿と本堂・鐘楼を残すのみとなっています。

現在は菩提山真言宗の本山となっています。

自然を身近の感じられる場所で、風の音、渓流、山ホトトギス、鶯、鈴虫や、せみの声が聞こえるそうです。
3000本を超える楓が山内にあり、紅葉の鮮やかさから、『錦の里』と呼ばれてきました。
秋から冬にかけては1000株以上の南天が赤い実をつけて参道を染めるんだとか・・・。

11月16日行ってきました。

菩提仙川に沿って坂道を上がっていきます。





「日本清酒発祥の地」の石碑

本来、寺院での酒造りは禁止されていましたが、神仏習合の形態をとる中で、鎮守や天部の仏へ献上するお酒として、荘園からあがる米を用いて寺院で自家製造されていました。
このように荘園で造られた米から僧侶が醸造するお酒を「僧坊酒」と呼んでいます。毎年1月に酒母の仕込みが行なわれているそうです。石垣の上方に山門が見えてきました。



山門





福寿院入り口

福寿院客殿1681(延宝9年)に建替え・建立。上壇の間を持つ数寄屋風客殿建築で、国の重要文化財に指定されています。
県指定重要文化財の孔雀明王像、京狩野3代目狩野永納筆の襖絵等を見ることができます。

客殿からみえる借景庭園。






瑠璃殿、護摩堂へ。




白壁の瑠璃殿(収蔵庫)の下部の模様。

瑠璃殿への入口。

参拝当日は立入禁止になっていました。


護摩堂入り口に

清めて入ります。
平成18年に開眼した、仏師・上本慶舟氏の不動明王像が見られます。





庭に・・・。


本堂へ向かいます。



本堂への石段

石段は観世音菩薩の誓願の数にちなんだ33段と、阿弥陀如来の誓願の数にちなんだ48段、合計81段になっています。この石段をすべて登りきると、観世音菩薩と阿弥陀如来のご加護を受けられるとされています。


石段の横には

供養塔

正暦寺で亡くなった僧侶の墓石を集めた供養塔。
十三重石塔が両サイドに建ち、数多くの僧侶たちが供養されています。




石段を登ると本堂境内が広がり、鐘楼〈1925年(大正15年)に再建〉と本堂がたたずんでいます。

振り返ると…。


鐘楼





正暦寺本堂



1916年(大正5年)に再建。

国指定重要文化財「本尊薬師如来倚像」が公開されています。



帰り際に・・・。


散ったイチョウの葉が、地面一面に敷き詰められたようになっていました。

説明は公式サイトを参考にしました。









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京都非公開文化財特別公開Ⅱ

2017-11-25 | デジカメ紀行
今回は木津へ。


大智寺





木津川泉大橋のそばに建っています。
眞言律宗西大寺の末寺。
奈良時代に行基の架けた泉大橋の橋柱をもって、鎌倉時代に文殊菩薩像を刻み、西大寺慈真和尚を開基として橋柱寺と称する一寺を建立。
其の後、寛文9(1669)年、本寂和尚によって再興し、寺名を橋柱山大智寺と改められました。

本堂、表門、鐘楼、庫裡、書院からなり、再興に際しては、東福門院和子「後水尾天皇(法皇)の皇后」により費用が下賜されたそうです。

建物は京の大工によるもの。

本堂・庫裏・鐘楼堂・山門・附石造十三重塔は京都府登録有形文化財に指定されています。

鐘楼








本尊の文殊菩薩坐像と十一面観音立像は重要文化財に指定されています。

本尊 文殊菩薩(公式サイトより)

寺伝によると
741年(天平13)木津川に行基菩薩が架けた橋が、洪水の為流れ、1288年(正應元年)、橋を架けようとしたところ、川の中に半分残った橋柱の一本が時々光を放っていました。大和国西大寺の僧、橘次郎大夫守安が、慈真和尚に、この橋柱の話をしたところ、慈真和尚はその橋柱に文殊菩薩像を刻むことをすすめました。
そこで守安は、仏師の安阿彌にこの像を彫刻させお堂をつくり安置しました。
「智恵の文殊菩薩」は渡海文殊の一種で獅子の上の蓮華座にすわり、きれいな彩色が施されています。

十一面観音立像(公式サイトより)


境内で。






続いて現行寺へ・・・。

マンホール

旧加茂町
町の木クロマツ、町の花アジサイ、町の特産お茶と椎茸、
町章のデザイン。
汚水管マンホール蓋。


現行寺


由緒の詳細は定かではありません。元禄10年(1697) に再興された時、
海住山寺縁起絵巻の詞書撰者である真敬法親王(興福寺一乗院門跡)が落成を賀したこと、
正徳2年(1712) に貞慶上人の五百年忌に際して海住山寺の本堂開帳が行われた時、現光寺の住僧が参詣したことなどは、海住山寺とのつながりのもとで歩んできた歴史を物語っています。












収蔵庫には本尊の木造十一面観音坐像(重要文化財)が納められています。表現特色から、鎌倉時代後期の造立と推察されています。観音様の坐像は全国にも数体しかなく、珍しいものだそうです。

奈良国立博物館より里帰りした四天王も安置されています。

境内の周囲は竹林に囲まれ、中央には桜の古木があります。小高い立地のため、恭仁宮跡や加茂町の街並みを見下ろすことができます。
区民のみなさんの浄財によりセキュリティーの整った収蔵庫が築かれ、この山の上にご本尊をとどめるに至ったといいます。
地域の観音様です。







説明は、公式サイトを参考にしました。

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京都非公開文化財特別公開Ⅰ

2017-11-19 | デジカメ紀行
京都非公開文化財特別公開が11月1日から始まりました。
さっそく八幡市エリアの石清水八幡宮と正法寺へ。

「石清水八幡宮」は、九州の宇佐神宮、関東の鶴岡八幡宮とともに日本三大八幡のひとつにあげられています。

社名は、男山の中腹に涌き出ている霊泉「石清水」に因んだもので、全国屈指の厄除けの神社として知られ、創建以来公家と武家の信仰が篤く、とりわけ清和源氏が氏神と崇めたことから、必勝の神社としても知られています。
清和源氏の流れをくむ徳川家も信仰をよせ、現社殿は三代徳川家光の造営で国宝に指定されています。

〝やわたのはちまんさん〟と親しまれる石清水八幡宮が御鎮座する八幡市・男山は、木津川・宇治川・桂川の三川が合流し淀川となる地点を挟んで天王山と対峙する位置にあり、京・難波間の交通の要地です。
南北朝時代の大小様々な戦い、羽柴秀吉と明智光秀の天王山の合戦などで知られています。

男山は都からみて裏鬼門(南西の方角)に位置し、鬼門(北東の方角)に位置する比叡山延暦寺とともに都の守護、国家鎮護の社として篤い崇敬を受けてきました。

手水舎





南総門

山上、社殿前にそびえる壮大な南総門から社殿を見ると、
社殿が少し西側を向いています。
これは、御神前で参拝し帰る際に、八幡大神様に対して
真正面に背を向けないよう
中心を外しているといわれているそうです。


総門を入ると左手に

竈神殿(そうじんでん)




本殿

国家鎮護の社として都の裏鬼門に位置する男山山上に御鎮座され、1150年以上の間、多くの人々の祈りが捧げられ、篤い崇敬を受けてきました。
貞観元(859)年、木工寮権允・橘良基は清和天皇の勅命により六宇の宝殿を建立し、順次「八幡造り(はちまんづくり)」の社殿を完成。
以来、造営14度・修理17度、現在の社殿は寛永11(1634)年、徳川三代将軍家光公の修造によるものです。
前後二棟(内殿・外殿)からなる八幡造りの社殿建築様式は稀少だそうです。

黄金の樋

(撮影不可なので、公式サイトより)

織田信長公寄進の金銅製雨樋
八幡造りである御本殿の内殿と外殿の「相の間」に架かる織田信長公寄進の通称「黄金の雨樋」。
天正7(1579)年12月、信長公が雨に遭って山崎寶積寺に逗留の際、木製の雨樋が朽ち雨漏りがしていることを聞き及び修理を命じ、天正8年8月には木製から唐金の雨樋に造り替えられました。これには、もし再び天災などの有事が起こった際には、この「黄金の雨樋」を換金し、その対処にあたるようにとの信長公の信仰心の深さがあったという伝承があります。
長さ21,7m、幅54cm、深さ21cm。

御本殿から幣殿・舞殿・楼門と続き、その周囲を約180mに及ぶ廻廊が囲む社殿の建造物全てが丹漆塗で、御本殿を囲む瑞籬(みずがき)の欄間彫刻や、随所に当時の名工の極彩色彫刻が施されています。


楼門の正面に

蟇股部分に一対の向かい合う鳩の錺金具(かざりかなぐ)があり、向かって右側の鳩は少し口を開けています。
神使である鳩が社殿の正面で狛犬と同様に阿吽の呼吸で御神前をお守りしています。


瑞籬欄間彫刻
御本殿を囲む瑞籬には、壮麗な社殿を象徴する極彩色の欄間彫刻が150点以上も施されており、一説には江戸期の名工・左 甚五郎一派の作と伝えられています。 なかでも「かまきり」や 「りすとぶどう」「天人(てんじん)」など珍しい彫刻もあります。

(撮影不可なので、公式サイトより)


御本殿の参拝、説明等を聞き、境内へ。本殿のまわりを一周。


管理されている方が、落ちていた招霊(おがたま)で飾り付け。

招霊(おがたま)の木
日本に自生するモクレン科で、常緑樹。高さ20メートル。別名はオガタマ、トキワコブシ。

和名は神道思想の「招霊」(おぎたま)から転化したもので、和歌、俳句の季語にも用いられています。
日本神話においては、天照大神の天岩戸隠れにおいて天岩戸の前で舞った天鈿女命(アメノウズメノミコト)が手にしていたとされ、古くには榊などとともに神前に供える木として用いられました。真榊とも言います。




果実がはぜて中の真っ赤な種子が見える姿から、神楽鈴が
考え出されたと伝えられています。
常陸宮正仁親王のお印。宮崎県高千穂町などが町の
シンボルとしています。
1円硬貨に施されている木の図案は招霊(おがたま)の木だと
言われています。


東総門(重要文化財)


鬼門封じ

牛の角を持ち、虎の皮を身にまとった鬼が来るといわれる
丑寅の方角「鬼門」(東北)を封じるために、
社殿の石垣を切り取った造りになっています。

東側から



水若宮社(重要文化財)、氣比社



若宮殿社(重要文化財)



若宮社(重要文化財)



貴船社、龍田社

後方に見えているのは、北総門。


北総門(重要文化財)



校倉

築地内北西隅に位置する校倉(宝蔵)は、建築年代が明確でなく、文書や絵図などには江戸時代中期から存在し、類例の少ない校倉建築として、平成21年3月に京都府より文化財の指定をうけました。


廣田社、生田社、長田社



本殿裏側



建物の外側からになるので、撮影できました。







西総門(重要文化財)


築地塀
本殿を囲む塀は、通称「信長塀」とも呼ばれ、織田信長公が好んで採用した様式といわれています。瓦と土を幾重にも重ねることにより、当時の築塀における課題であった鉄砲の銃撃や耐火性、耐久力に優れていたとされています。

クスノキ



楠木正成公必勝祈願参拝の際奉納されたもの。
北方系植物相と南方系植物相の境界に位置する男山には、京都府指定天然記念物のクスノキの巨木があり、最大のクスノキは
根周り18m、樹高30m、樹冠40m。
『洛陽名所集』によると、「戦勝軍利を祈り、楠千本を八幡山にうへけり」とあり、楠木正成公が建武元(1334)年に必勝祈願参拝の折に
奉納したとされています。樹齢70年。


境内を出て、書院、三の鳥居方面へ向かいます。

書院石庭(重森三玲作)

数多くの名庭を手がけた昭和を代表する作庭家・重森三玲により
昭和27年に作られた石庭。南北約8m、東西約6mの方形のなかに
白砂が敷き詰められており、八幡大神様の「海神」としての
神格に因んだ海洋を表しています。
白砂の上にはもともと男山に散在していた石14個を
大海原に浮かぶ島に見立ててあるそう。
15個目の石として、石庭の東南の角には「永仁三(1295)年未乙三月」の刻銘が入った鎌倉期の石灯籠が配置されており、450基ほどの
石灯籠のなかで唯一、国の重要文化財に指定されています。







三の鳥居


鳥居を出たところにあるのが・・・

神馬社


左へ曲がると・・・

表参道へ続く石段





三女神社(さんじょ、さんみょうじんしゃ)

宗像三女神、多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命
(いちきしまひめ)、多岐津比売命(たぎつひめ))を祀っており、
平安時代1042年に宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請されたとも
いわれています。
手水舎の西方にあります。


灯篭

鶏がのっています。





続いて正法寺へ向かいます。

徳迎山 正法寺
建久2年(1191)、今から約830年前に開かれた正法寺は、室町時代に後奈良天皇の勅願寺となり、その後、徳川家康公の側室、尾張藩初代藩主・徳川義直公の実母である「お亀の方(相応院)」の菩提寺として発展してきました。
1616年に家康公が亡くなると、お亀の方は髪をおろして「相応院(そうおういん)」となり、義直とともに名古屋に移りました。尾張藩の厚い庇護を受け、1629年(寛永6年)頃には相応院の寄進によって、本堂・唐門・大方丈が建立され、小方丈・書院・鐘楼・庫裏を合わせた「七堂伽藍(しちどうがらん)」からなっています。
現在の伽藍は寛永7年(1630)に再建されたもの。
エピソードに、
お亀さんが子どもを行水させていると家康の行列が通り、お亀さんは慌てて子どもをタライに入れたまま家の中へ。これを見ていた家康は「この人なら元気な子どもを生んでくれるに違いない」と見初めたんだそう。お亀さんは、尾張藩主となる義直を産み、寺は同藩の庇護を受け、八幡領が検地を免除され、守護不入の特権を得られたのは、彼女の働きによるところが大きかったと言います。

庫裏門、鐘楼

1621年(江戸・元和7年)に建立された、正統的な鐘楼です。
大晦日の「除夜会」では鐘つきを体験できるそうです。
京都府指定文化財。



門をくぐり、受付へ。


右手に見えるのは、中門。


唐門(方丈側から)

唐破風造りと入母屋造りを組み合わせた屋根や、親柱筋の牡丹の
透かし彫り、桟唐戸(扉)の牡丹唐草の浮彫など、
豊かな装飾が特長です。重要文化財。

(表側から)


扁額、山号「徳迎山」

後奈良天皇(室町時代)から賜った額字(書)をもとにつくられました。



中門(方丈側から)



本堂(ほんどう)

1962年(江戸・寛永6年)頃に、相応院「お亀の方」によって建立されました。本堂内部は外陣・内陣・脇陣・後陣からなり、内陣と後陣の境には
結界が設けられ、浄土宗本堂の典型的な建築となっています。
重要文化財。




逆輪(さかわ)

本堂の屋根を支える二重の垂木の先端には、
珍しい金箔の逆輪が装飾されています。


お庭を・・・。









山から、落ちてきた岩が、そのまま生かされたお庭です。


「栗」の釘隠し






ボランティアの方が案内をして下さいます。

説明文は、公式ホームページより。

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2017-11-06 | デジカメ紀行
10月16日 玄関の外灯の横に・・・。

アカエグリバ


チョウ目 ヤガ科 エグリバ類
ヤガの1種で、幼虫はアオツズラフジなどを食べる。
成虫は 翅がえぐれたような独特の格好をし、太い葉脈や細い葉脈もあり、枯葉に擬態。
口吻が短くて硬く、果実に突き刺して果汁を吸う。
灯火にも飛来するそうです。







鎧を着ているようで、よく見ると、愛嬌ありです。

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