東大寺
奈良時代創建の代表的な寺院で、都である平城京に全国の国分寺の中心として建立されました。
大仏殿は東大寺の伽藍の中央に位置し、世界最大級の木造建造物です。
天平15年(743)に聖武天皇が生きとし生けるすべてのものが栄えるようにと願い、盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)造立の詔を発し、天平勝宝4年(752)に大仏さまは開眼されました。
東大寺の本尊。以降次々と堂塔が建造され、40年近くかけて伽藍が整いました。
都が移ったあとも大仏さまの寺として朝野の篤い信仰を集めましたが、治承4年(1180)平重衡の軍勢によって大仏殿をはじめ伽藍の大半を失いました。
重源上人によって再興されましたが、永禄10年(1567)の三好・松永の乱で、わずかな建物を残して再度焼失してしまいます。
現在の伽藍の多くは公慶上人らによって江戸時代に再興されたものですが、法華堂や転害門、南大門をはじめ、各時代を代表する国宝建造物を含む多くの文化財を伝えています。
1998年(平成10年)12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されています。
10月5日、大仏殿の西方に位置する「勧進所」を、訪れました。
大仏殿の西方にやってきました。
1686年(貞享3)、露座のままだった大仏の修理、大仏殿の再建のため、公慶上人(こうけいしょうにん)は東大寺勧進所を建て、復興の寺務所としました。
勧進所内には、同年建立の阿弥陀堂、国宝僧形八幡神像を祀る八幡殿、公慶上人を祀る公慶堂があります。
10月5日(転害会)の際、阿弥陀堂と八幡殿が公開され木造五刧思惟弥陀坐像(国指定重要文化財、阿弥陀堂に安置)と木造僧形八幡神坐像(国宝、快慶作、八幡殿に安置)を見ることが出来ます。
公慶堂に安置されているのは、重要文化財「公慶上人坐像」。
この勧進所を拠点として勧進活動に精を出した「公慶上人」ご本人の像であり、宝永3年(1706年)に公慶上人の死を悼みその偉業を讃えるために遺弟である公盛により造立されたもの。
造像は町仏師の性慶が彫刻を行いつつも、公慶上人の弟子である即念が「頭面」部分を彫り上げたとされています。
安置されているのは、重要文化財の「五刧思惟阿弥陀如来像」。
鎌倉時代(13世紀頃)に造立されたとされます。悟りを開くために時間を費やしている間に伸びた「アフロヘア―」のような髪が特徴的な阿弥陀如来です。
安置されているのは、国宝「僧形八幡神像」。
建仁元年(1201年)に有名な仏師である「快慶」が造ったと伝わる像高87センチほどの「神像」です。
彩色もよく残されている大変美麗な像は、八幡神のお姿が神仏習合・本地垂迹説の影響により「僧侶」の姿で表現されている像となっています。
かつては東大寺八幡宮(現在の手向山八幡宮)にご神体として祀られていましたが、明治期の神仏分離によって東大寺の所有となり、この地に祀られる形となっています。
春の訪れを告げる修二会は大仏開眼と同じ752年に始まりました。練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる僧侶が、3月1~14日にお堂で寝泊まりし、二月堂本尊の十一面観音菩薩(ぼさつ)に世の中の罪をざんげして天下泰平などを祈ります。
夜に二月堂に上がる僧侶を導く折に使われた「松明」と「籠松明」が置かれていました。
勧進所を後にして、すぐ近くにある指図堂へ。
鎌倉時代に入る直前、「平重衡」により「南都焼討」が行われ、焼け野原となった東大寺を復興するために、被害を受けて間もない時期から「勧進」職に就任した「重源」上人を中心に復興が進められる中、「大仏殿」を再建する計画の図面(指図)を収蔵するお堂としてこのお堂が用いられ、それに由来して「指図堂」と呼ばれるようになったとされています。
建物は江戸時代後期のもの。法然上人二十五霊場第11番札所。
<法然上人絵図>
堂内の金色の「厨子」の中には法然上人のお姿を描いた絵図が収められています。
指図堂の本尊。
<阿弥陀如来坐像>
堂内の正面右側には、こちらもかなり金色が目立つ阿弥陀如来坐像も安置されています。
仏教の開祖である釈迦の弟子で、持っている神通力をいたずらに使用したとして釈迦に怒られたそうです。
なので、お堂の中に入れてもらえないんだと、以前聞きました。
庶民を救済する存在になったユニークな存在。病気が治るご利益があります。
奈良時代創建の代表的な寺院で、都である平城京に全国の国分寺の中心として建立されました。
大仏殿は東大寺の伽藍の中央に位置し、世界最大級の木造建造物です。
天平15年(743)に聖武天皇が生きとし生けるすべてのものが栄えるようにと願い、盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)造立の詔を発し、天平勝宝4年(752)に大仏さまは開眼されました。
東大寺の本尊。以降次々と堂塔が建造され、40年近くかけて伽藍が整いました。
都が移ったあとも大仏さまの寺として朝野の篤い信仰を集めましたが、治承4年(1180)平重衡の軍勢によって大仏殿をはじめ伽藍の大半を失いました。
重源上人によって再興されましたが、永禄10年(1567)の三好・松永の乱で、わずかな建物を残して再度焼失してしまいます。
現在の伽藍の多くは公慶上人らによって江戸時代に再興されたものですが、法華堂や転害門、南大門をはじめ、各時代を代表する国宝建造物を含む多くの文化財を伝えています。
1998年(平成10年)12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されています。
10月5日、大仏殿の西方に位置する「勧進所」を、訪れました。
=大仏殿=
大仏殿の西方にやってきました。
=勧進所=
1686年(貞享3)、露座のままだった大仏の修理、大仏殿の再建のため、公慶上人(こうけいしょうにん)は東大寺勧進所を建て、復興の寺務所としました。
勧進所内には、同年建立の阿弥陀堂、国宝僧形八幡神像を祀る八幡殿、公慶上人を祀る公慶堂があります。
< 東門(赤門)>
10月5日(転害会)の際、阿弥陀堂と八幡殿が公開され木造五刧思惟弥陀坐像(国指定重要文化財、阿弥陀堂に安置)と木造僧形八幡神坐像(国宝、快慶作、八幡殿に安置)を見ることが出来ます。
<手水舎(舟形)>
<鐘楼>
<公慶堂>
お堂の前には大きな栗の木があります。
<鐘楼>
<公慶堂>
お堂の前には大きな栗の木があります。
公慶堂に安置されているのは、重要文化財「公慶上人坐像」。
この勧進所を拠点として勧進活動に精を出した「公慶上人」ご本人の像であり、宝永3年(1706年)に公慶上人の死を悼みその偉業を讃えるために遺弟である公盛により造立されたもの。
造像は町仏師の性慶が彫刻を行いつつも、公慶上人の弟子である即念が「頭面」部分を彫り上げたとされています。
「阿弥陀堂」
安置されているのは、重要文化財の「五刧思惟阿弥陀如来像」。
鎌倉時代(13世紀頃)に造立されたとされます。悟りを開くために時間を費やしている間に伸びた「アフロヘア―」のような髪が特徴的な阿弥陀如来です。
「八幡殿」
安置されているのは、国宝「僧形八幡神像」。
建仁元年(1201年)に有名な仏師である「快慶」が造ったと伝わる像高87センチほどの「神像」です。
彩色もよく残されている大変美麗な像は、八幡神のお姿が神仏習合・本地垂迹説の影響により「僧侶」の姿で表現されている像となっています。
かつては東大寺八幡宮(現在の手向山八幡宮)にご神体として祀られていましたが、明治期の神仏分離によって東大寺の所有となり、この地に祀られる形となっています。
<お松明>
春の訪れを告げる修二会は大仏開眼と同じ752年に始まりました。練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる僧侶が、3月1~14日にお堂で寝泊まりし、二月堂本尊の十一面観音菩薩(ぼさつ)に世の中の罪をざんげして天下泰平などを祈ります。
夜に二月堂に上がる僧侶を導く折に使われた「松明」と「籠松明」が置かれていました。
勧進所を後にして、すぐ近くにある指図堂へ。
=指図堂=
鎌倉時代に入る直前、「平重衡」により「南都焼討」が行われ、焼け野原となった東大寺を復興するために、被害を受けて間もない時期から「勧進」職に就任した「重源」上人を中心に復興が進められる中、「大仏殿」を再建する計画の図面(指図)を収蔵するお堂としてこのお堂が用いられ、それに由来して「指図堂」と呼ばれるようになったとされています。
建物は江戸時代後期のもの。法然上人二十五霊場第11番札所。
<法然上人絵図>
堂内の金色の「厨子」の中には法然上人のお姿を描いた絵図が収められています。
指図堂の本尊。
<阿弥陀如来坐像>
堂内の正面右側には、こちらもかなり金色が目立つ阿弥陀如来坐像も安置されています。
<阿弥陀三尊像>
江戸時代の作。
前に立つと阿弥陀様と目があいます。
横から見ると、前のめりに置かれています。
江戸時代の作。
前に立つと阿弥陀様と目があいます。
横から見ると、前のめりに置かれています。
<賓頭盧尊者像(びんずるそうじゃぞう)>
仏教の開祖である釈迦の弟子で、持っている神通力をいたずらに使用したとして釈迦に怒られたそうです。
なので、お堂の中に入れてもらえないんだと、以前聞きました。
庶民を救済する存在になったユニークな存在。病気が治るご利益があります。
説明文は公式サイトを参考にしました。