友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

グスタフ・クリムト

2013年01月22日 19時06分08秒 | Weblog

  愛知県美術館で2月11日まで、『クリムト 黄金の騎士をめぐる物語』展が開催されている。愛知県ではクリムトは人気者だ。県美術館が『人生は戦いなり』を、豊田市美術館が『オイゲニア・プリマフェージの肖像』を所蔵している。「高いお金で買ったのよ。愛知県民の税金で」と話していた人がいたけれど、確かに1点が18億円ほどの作品だから高い買い物であるが、払ったのはいずれもトヨタ自動車だったと思う。

 クリムトが生まれたのは1862年で、活躍したのは1890年くらいから1910年くらいまでの20年間だが、最も充実していたのは95年から05年の10年間だと思う。その頃のヨーロッパはどういう時代だったか。工業化が進み、科学が発達し、裕福な市民が資本家となり、各国は帝国主義国家へと突き進んでいく。クリムトの生まれたウィーンはロンドンやパリほどの先進地ではなく、工業化も遅れていた。フランスでは印象派の時代が終わっていた。

 クリムトが日本で人気なのは作品が装飾的だからだろう。日本の絵画は、襖や屏風を飾るものだったから極めて装飾的だ。平面的なデザインと言ってもよい。18世紀末、日本から持ち込まれた陶磁器や漆器、それを包んでいた紙であった浮世絵、着物や小物がヨーロッパで人気になっていた。印象派の画家たちは浮世絵の構図や配色に驚き、これを真似て作品を作った。ウィーンにどれほどの時間を経て入ったか分からないけれど、クリムトも日本のものをかなり集めている。

 この展覧会の最初の部屋にある『頭部習作』や『花の習作』など、チョークや鉛筆で描かれていることもあって写実的で上手い。16歳から20歳まで位の作品だが、彼が入学したウィーン工芸学校が徹底した石膏デッサンや古典作品の模写をさせていたことが窺える。それは画家を生むというよりも職人を育てるためであったはずだ。彼は3人で芸術家商会(会社)を設立し、ウィーンの劇場の装飾を引き受けるようになる。装飾家として名声を得ていたクリムトにウィーン大学の天井画の依頼が来る。その作品や結末は展覧会で観て欲しい。

 クリムトを題材にした映画を観たことがあるが、まるで奇人だった。彼の家には多いときには15人もの女性が寝泊りしていたという。彼が死んだ時、認知された子どもは3人(母親は2人)であったが、クリムトが父親だと申し出た母親が14人もあったという。爛熟と頽廃が充満していたヨーロッパで、既成の価値観を破壊し、性を絵画のテーマに祭り上げようとしたクリムトらしい生き方とも言える。

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