『今日は何の日』を見ていたら、1219年1月27日は鶴岡八幡宮で、拝賀の式を済ませた源実朝が暗殺された日とあった。平家を滅ぼして、「武士の世」を始めた源頼朝は、天皇を中心とする朝廷の力を削ぐために、京都から遠い鎌倉に幕府を開いた。そして朝廷の権威をなくしたい頼朝の意向を理解できない腹違いの弟、義経を抹殺した。ところが頼朝は、不運というか謀略なのか、落馬がもとで死んでしまう。
後を継いで将軍となった長男の頼家は、伊豆の修善寺で殺される。そのため次男の実朝が13歳で第3代目の将軍となった。しかし、兄の頼家同様に実権は執権である北条氏に握られていた。北条氏がなぜ頼朝の子を相次いで殺したのか、私には分からない。頼朝は31歳で政子と結婚したけれど、その前にも後にも他の女性と心を通わせているが、頼家も実朝も政子が生んだ頼朝の子である。いくら嫉妬深い政子であったとしても、我が子は可愛いかったはずだ。
13歳と言えばまだ子どもだ。思春期の思い悩む年頃である。政治から遠ざけられた実朝は、仏教や和歌に関心を向けて行った。にもかかわらず、兄の頼家の遺児に襲われ非業の死を遂げた。乳母の夫である三浦義村に「親の敵」とそそのかされてのことだったけれど、ここにも北条氏の策略が働いていたのではないだろうか。源氏の棟梁と、いかにも血筋を大切にするようだけれど、実際はどのようにして権力を握るかにあったのだろう。
正岡子規が柿本人麻呂を継ぐ歌人だと実朝を評価しているそうだ。「大海の 磯もとどろに 寄せる波 割れて砕けて 割けて散るかも」 - なるほど雄大な歌だ。それに昔の歌と思えないほど分かりやすい。打ち寄せる波は大きく響き渡り、「割れて」「砕けて」「割(さ)けて」「散る」という語感も鋭い。「ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず」で始まる『方丈記』につながるようにも思う。
実朝が時代の思潮をどれほど受け止めていたのか分からないけれど、平安時代の末期から仏教では末法思想が蔓延し、諸行無常の考え方が流行していた。我が身のことにも重なり、無常観漂う歌になったのかも知れない。頼朝は我が子の行く末を知ったなら、どのように受け止めたであろう。