昨日は夕方になって、長女一家が我が家に遊びに来ることになった。それなら、一緒に食事をしようと冷蔵庫を見るがそれらしいものがない。みんなで食事をして、一時を過ごせるならそれでいい。鶏肉と大根と人参があった。干しシイタケもあったので、これらを炒め、煮込む料理を作る。子どもたちが好きだった田舎料理だけれど、長女のダンナの口に合うかと心配だった。長女もダンナも少し残していたから、好物ではなかったかも知れない。
3歳の孫娘はますます成長していて、ダンナのお母さんから買ってもらった「ごっこ」遊びで、「お母さん」になりきっていた。3歳にしてスマートフォンを自由自在に操っていたが、最近では「ごっこ」遊びや絵本に興味があるようだ。3歳になる前からスマートフォンを操ることが出来て、それが出来ない私やカミさんはその才能にビックリすると共に、こんな小さな時から液晶画面に釘付けになっていて大丈夫かと、心配でもあった。
子育てにジジババが口を挟めば不和の元と言われてきたので、見守るしかなかったけれど、「ごっこ」遊びや絵本に興味を抱くようになって、内心はホッとしている。子どもは誰でも天才で、その発する言葉はまるで名言だ。絵を描かせても、歌を歌わせても、踊りを躍らせても、何をやらせても大人とは違う、驚くような表現者である。大人の真似をしているだけなのだが、大人のようには表現できない。それを大人は天才だと錯覚する。でもきっと本当は天才なのだが、大人が才能を伸ばせてやれないのかも知れない。
天才的な科学者はどうなのか分からないけれど、天才的な芸術家となると、確かに他の人と違った感性とか感覚を持っている。そしてそれを、自分の芸術表現の源泉にしている。ジミー大西さんという元お笑いタレントが、絵描きになっていて、その作品展を観たけれど、これなら画家としてやっていけるだろうと思った。彼がどんなに才能があっても、彼を世に送り出すマネージャーやプロデューサーに巡り合うことがなければ、有名デパートで大掛かりな作品展も開催できないだろう。
人は誰でも素晴しい才能を持って生まれてきた。しかし、亡くなった大鵬の言葉を借りれば、「努力しなければ天才にはなれない」のだ。天才は確かに他の人にない、だからそれは病的なのかも知れないが、才能を持っている。けれども持っているだけでは天才として開花しない。開花しなければ平凡で生きるしかない。非凡な人の才能を褒め称える側にいることが嫌であれば、ひたすら努力するしかない。でも、年を取ると平凡でよかったと思えるようになる。不思議だ。