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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

もう向上しなくてもいい安らぎ

2017-10-25 | 老い
今日は、病気で入院しているような一日だった。
全く何もせず、ちまちまスマホの窓口から世界を覗いていた。

世界というより、今日は日本。
先週土曜日から、なぜか明治維新の前(19世紀)あたりから、昭和にかけての人物のことが気になって、ウィキペディアばかり見ている。

明治維新の頃は、体制がごろりと変わり、旧勢力と新勢力が、カオスでごちゃ混ぜになり、儲ける人はめちゃくちゃ儲けている。
没落する人は、急降下。
今まで鎖国で閉ざされていた日本の力が、世界に向け、メキメキ出てきて、躍動感あふれる時代。
だが、今から見ると、女性の地位の、まあ低いこと。
あり得ない事態が、普通に行われ、普通に受け入れられていた。
落ちぶれた武士の娘が花街に売られ、妾になる。(例→白蓮の母親)
妻妾同居や、何人もの妾の子供、婚外子を正妻の子として籍を入れ、正妻が育てる。
かの明治天皇にも、側室が複数、子供たちは腹違い。
大正天皇も、正妻の子供ではない。
そんなこと、今まで全く知らなかった。
(わたしが無知なだけか。興味がなかった)
大奥があった江戸時代の延長だと思えば、さほど、意外なことでもないのだろうけれど。
でもわたしは、のけぞった。
やはりわたしは、昭和後半の生まれ育ち。
歴史として、過去の史実は受け止めたとしても、今の感覚からすると理解できない。
まあ、時代とはそんなものだ。

社会が成熟していないので、国が貧しい人々全てに手を差し伸べるまではいかない。
国の福祉が行き届かない代わりに、力のある男性が、複数の女性を養う。
今は、女性も自立して生活できるようになり、昔に比べると、ずいぶん社会環境は整っている。

それにしても、以前のわたしなら、この時代の女性たちの地位、暮らしに、沸沸と、烈火のごとく怒り、不快に思い、ありえ〜ん!!と吼えていたことだろう。
しかし、なぜだか、今のわたしは、こころが乾いてしまい、情けなさや怒りさえも凍り、沸き起こらない。

なぜか。
前、感じた時より失望感や怒りはずっと深い。
深すぎて、神経が死んでしまった。
あきらめが、こころを殺す。

まあいい、わたしはどうせ、もう後、活躍することも、躍動することもなく、萎んでいくだけなのだから。
わたしには、上向きの未来はない。
が、日本のホテルでアインシュタインが手渡したメモに書かれていた内容と同じで、わたしも幸せ感に満ち満ちあふれている。
日々、向上しなければならない、後ろから突かれるような焦燥感はなく、あるのは、やすらぎ、落ち着き、豊かなこころ。

もう、上向きのに生きなくていいのだ。
追い詰められたような、身の置き所のない、地に足が着かない、そんな気持ちは決別、卒業。
もう上らなくてもいい、下れる安堵。
(元々、さして上がってない)
下れば下ったで、また哀しい現実と直面することになるのだろうけれど。
わたしのエンジンも燃料も、エコを求めている。
だから、静かなこころが、ちょうど良く、心地よい。

というわけで、悲しみや怒りさえも、ダウンしている。
熱き血潮の逆で、冷たいぐらいだ。


昔の人々の生き方を知るにつれ、新しい発見をする。
良きにつけ、悪しきにつけ。
老人は前を見ず、後ろばかりを見るという。
でも、若い頃は、わたしは後ろを見ず、前ばかりを見ていた。
だから、一生を通じると、前も後ろも見ることになり、良いのではないか。
後ろを見ながら、ついでに前も見たい。


老人が集まると、昔は良かった、将来が不安、という話ばかり(らしい)。
わたしは、不思議とそういうことはない。
昔も今も、さほど変わらない。
だから、これからもあまり変わらないような気がする。

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