こころが、晴れて晴れて、天国状態になっている。
今までの痛みが、す〜っと取れるかのよう。
究極の接骨院か、極上スパ、マッサージに行った後のよう。
これ、ダンスの話です。
包み込むような優しいダンスは楽園ダンス。
ストレス、トラウマのAさんとのま逆、対極を感じている。
Aさんが一方的に悪いのではなく、わたしとの相性が悪かった、わたしがAさんを選んだことが悪かったのではないかと思い始めている。
どちらにしても、良いか悪いか、やってみないと想像や推測だけではわからない。
一番大事なポイントは、Aさんそのものが悪いのではなく、Aさんのダンスがわたしには合わないということ。
そういう、すとんとこころに落ちる結論に辿りついた。
カッチカチの鋼鉄のようなダンスは、Aさんの性格を表していた。
自分は鋼、絶対曲げず、相手を無理やり曲げて合わさせる。
合わないと、合うまで努力を強いる。
ま逆の、柔らかい、柔軟性、フィット性のあるダンスに触れ、その違いに今更ながら驚いた。
(実際のところは、ダンスのジャンルが違うのだけど)
評価を得るため、人の目を気にした、表面に現れ見えるもののために、全てを犠牲にして我慢し、努力するのは、性に合わない。
そして、自分の、体育系でない身体能力に合わない。限界を感じる。
種類を選び損ねた。
オリンピック選手や国体選手とは、生まれた時から違うところにいる。
血の滲む努力をして上手くなっていくには、当然ながら、本体、ベースが全く違う。
いくら一生懸命ペダルを漕いでも、三輪車で高速道路は走れない。
とは言えど、再三書いているが、やってみないとわからない。
プロローグのところで、進路変更、というか、道を降りた。
評価を受けたところで、わたしには、Aさんとのダンスそのものが苦痛である。
なので、わたしは道端の野の草花でよい。
人に羨ましがられたり崇められたり、評価を得るために、そもそもの目的であるダンス自体を犠牲にするのは、本末転倒になっている。
楽しむために趣味でダンスをしているのに、苦しみの原因、苦痛となっては意味がない。
健康にとらわれ、健康に良いと言われることをオーバーワークして精進しすぎて体を壊す、健康オタクのごとく。
わたしは、ランナーズハイを味わえない人間である。
いいのだ。
なにをしても中途半端でダメね、と思われても。
そう思う人は、自分が崇める道を選んで頑張ればよい。
わたしはその道から降りた。
不適合なことには、挑戦しない。
一生挑戦という人もいるが、(Aさんのプロフィールに書いてあった)、わたしは、「余生は楽しく無理をせず」がモットーである。
ますます老いようが、構わない。
老いに逆らって自分を痛めても、全くわたしは快適ではない。
ストレスが溜まるのみ。
今後の余生にまで悪影響を及ぼす。
しかし、これは、人生の、いまのわたしの時期だから言えることだ。
我慢したり、やり遂げなければいけない夏の季節、義務の季節を終えて、いまの秋、黄昏季節がある。
暑い暑い時期は、自分なりに一生懸命やってきた。
で、夏はもうケッコー。終了、卒業、履行。
背中に背負う重いものはないので、いつ、この世からいなくなっても、誰の迷惑にもならない。
生きがいがない、することがない、と嘆く人もいるだろうけれど、わたしは一人遊びも好きなので、そういう心配も(いまのところは)ない。
が、毎日の自分の身の回りのことが出来なくなり自立出来なくなったら、家には居られない。
出来ないのに、「出来る」とごまかし、抵抗しても時間の問題。
とりあえず、あと25年ぐらいは大丈夫だと自分では思っている。
貴重な25年だが、実質的には15年が黄金期で、後の10年は灰色の時期だろう。
なので、あと15年。
楽しい時期は、あっという間に過ぎることだろう。
楽しくないことに時間を割かれ、振り回されている場合ではない。
今までの痛みが、す〜っと取れるかのよう。
究極の接骨院か、極上スパ、マッサージに行った後のよう。
これ、ダンスの話です。
包み込むような優しいダンスは楽園ダンス。
ストレス、トラウマのAさんとのま逆、対極を感じている。
Aさんが一方的に悪いのではなく、わたしとの相性が悪かった、わたしがAさんを選んだことが悪かったのではないかと思い始めている。
どちらにしても、良いか悪いか、やってみないと想像や推測だけではわからない。
一番大事なポイントは、Aさんそのものが悪いのではなく、Aさんのダンスがわたしには合わないということ。
そういう、すとんとこころに落ちる結論に辿りついた。
カッチカチの鋼鉄のようなダンスは、Aさんの性格を表していた。
自分は鋼、絶対曲げず、相手を無理やり曲げて合わさせる。
合わないと、合うまで努力を強いる。
ま逆の、柔らかい、柔軟性、フィット性のあるダンスに触れ、その違いに今更ながら驚いた。
(実際のところは、ダンスのジャンルが違うのだけど)
評価を得るため、人の目を気にした、表面に現れ見えるもののために、全てを犠牲にして我慢し、努力するのは、性に合わない。
そして、自分の、体育系でない身体能力に合わない。限界を感じる。
種類を選び損ねた。
オリンピック選手や国体選手とは、生まれた時から違うところにいる。
血の滲む努力をして上手くなっていくには、当然ながら、本体、ベースが全く違う。
いくら一生懸命ペダルを漕いでも、三輪車で高速道路は走れない。
とは言えど、再三書いているが、やってみないとわからない。
プロローグのところで、進路変更、というか、道を降りた。
評価を受けたところで、わたしには、Aさんとのダンスそのものが苦痛である。
なので、わたしは道端の野の草花でよい。
人に羨ましがられたり崇められたり、評価を得るために、そもそもの目的であるダンス自体を犠牲にするのは、本末転倒になっている。
楽しむために趣味でダンスをしているのに、苦しみの原因、苦痛となっては意味がない。
健康にとらわれ、健康に良いと言われることをオーバーワークして精進しすぎて体を壊す、健康オタクのごとく。
わたしは、ランナーズハイを味わえない人間である。
いいのだ。
なにをしても中途半端でダメね、と思われても。
そう思う人は、自分が崇める道を選んで頑張ればよい。
わたしはその道から降りた。
不適合なことには、挑戦しない。
一生挑戦という人もいるが、(Aさんのプロフィールに書いてあった)、わたしは、「余生は楽しく無理をせず」がモットーである。
ますます老いようが、構わない。
老いに逆らって自分を痛めても、全くわたしは快適ではない。
ストレスが溜まるのみ。
今後の余生にまで悪影響を及ぼす。
しかし、これは、人生の、いまのわたしの時期だから言えることだ。
我慢したり、やり遂げなければいけない夏の季節、義務の季節を終えて、いまの秋、黄昏季節がある。
暑い暑い時期は、自分なりに一生懸命やってきた。
で、夏はもうケッコー。終了、卒業、履行。
背中に背負う重いものはないので、いつ、この世からいなくなっても、誰の迷惑にもならない。
生きがいがない、することがない、と嘆く人もいるだろうけれど、わたしは一人遊びも好きなので、そういう心配も(いまのところは)ない。
が、毎日の自分の身の回りのことが出来なくなり自立出来なくなったら、家には居られない。
出来ないのに、「出来る」とごまかし、抵抗しても時間の問題。
とりあえず、あと25年ぐらいは大丈夫だと自分では思っている。
貴重な25年だが、実質的には15年が黄金期で、後の10年は灰色の時期だろう。
なので、あと15年。
楽しい時期は、あっという間に過ぎることだろう。
楽しくないことに時間を割かれ、振り回されている場合ではない。