常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

空の表情

2014年03月23日 | 日記


春の雲ながめてをればうごきけり 日野 草城

「明治は遠くなりにけり」と詠んだのは中村草田男で、『なつかしい大正』を書いたのは杉浦明平である。平成も四半世紀を過ぎて、「昭和の匂い」がクローズアップされる今日このごろだ。地上にある人事や風俗、文化などはその時代の特性を色濃く写しだすが、それを包みこんでいる空や雲の表情は時代に左右されることなく悠久である。

永井龍男の『赤飯東京図絵』を読んでいたら、裏店住まいの子供たちに売る飴屋の話に出会った。たくさんの子供たちが、飴屋を取り囲んで騒いでいるが、飴を買うことのできるのはほんの少数であった。

「飴屋といっても、幾種類かあった。なんの曲もなく、割りばしに飴をまいてよこすものから、頭に盤台をのせ、太鼓をたたいてくるヨカヨカ飴、深い布袋の底のぎんなんをつまませて、赤く染めたものに当ると、太いさらし飴をくれるのがあり、しんこ細工と同じように、子供の注文に応じて狸でも鶴でも、飴のさめないうちに素早く細工して、食紅で色までつけてあった。この飴屋だけは、チャルメラ風の笛を吹いて子供を集めた。」

このような風景は、飴を売りながら子供たちに「黄金バット」などの紙芝居を見せる昭和の風景に通じるものがある。こどもたちが駆け回る広場の上には、変わらぬ表情の青空があった。


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黄砂

2014年03月22日 | 日記


晴れていても、空が少し霞んだなと感じたら、南風の乗った黄砂が飛来している。春先は、花粉と黄砂が原因で花粉症になる人が多い。街を歩く多くの人がマスクをかけてPM2.5や花粉を避けている。昭和40年頃の経験だが、勤め先で水戸へ転勤したことがあった。仕事は外勤で、足はバイクであった。春先、風が出ると、前が見えないほど砂埃が舞い上がった。水戸の土地がローム層に覆われていて、乾燥と風でまるで黄砂のような砂埃に見舞われた記憶がある。目に砂が入り、目蓋が腫れあがり、眼科へよく通ったものだ。

江戸から明治にかけて、東京の土埃も有名であった。もうもうと上がる土埃は、しばしば火事と間違われ、街中の人が逃げ出したり、消化組がバケツを持って集まってきたりした。若月紫蘭は『東京年中行事』に、東京の土埃について書いている。

「1年中いつでも雨が晴れて2、3時間経つや経たぬに、東京の街路はもうからりと乾いてしまって、直ぐにもうもうたるほこりが天地を閉じこめて、風に向ってほとんど一歩も歩めないというのが常であるが、中にも桜の頃になるとほこりは一層に甚だしくなって、障子を閉め切ってある家の中と云わず、電車の中と云わず、ほとんどほこりだらけで、それはそれは至って心持の悪いものであるということは、足未だ都の地を踏まぬものに取ってはほとんど想像の外である」

こうした土地に大雨が降ると、泥濘に足駄を取られ、脛までズブズブ、田だか沼だかわからぬことも珍しいことではなかった。漱石の『それから』が映画になったが、そのなかでも道が川のぬかるみのようになっていた場面が描かれていた。今ではコンクリートやアスファルトで固めら、市街ではもはや土埃の被害はなくなったが、想像を超える高温のため、クーラーのない生活は考えられない。室内のお年寄りが熱中症で救急搬送されることがめっきりと増えている。

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春分の日

2014年03月21日 | 日記


「暑さ、寒さも彼岸まで」という俗諺があるが、朝うっすらと雪が積り、雪が降っている。彼岸の中日にしてはやや裏切られた気候である。午前中に入院していた義母を退院させた。検査結果は異常なしということで、飲む薬も減ったが、歩くことや話すことが、体調を崩す前よりずっとできなくなっている。やはり、年を重ねるとしだいに体力が衰えていくということであろうか。

茫々と雨の彼岸の過ぎしはや 杉山 岳陽

デジカメの機能にアートフィルターがある。家にあるクリスタルの置物をこのアートフィルターをかけて撮ってみる。カメラによる遊びだ。パソコンにしても、携帯にしても、やたらに機能がついていて使いこなせない。デジカメはついている機能をいじると、思っても見なかった映像が得られるので、色々と試してみたくなる。このフィルターはリーニュクレールと呼ばれるものだ。

取説を見ると、イラストのような描写で輪郭線が黒い線で強調され、浮かび上がってみえるのが特徴とある。効果として、ソフトフォーカスやスターライトも併用できる。ほかに、11種類ものフィルターが用意されているので、被写体によってどんなフィルターを選ぶかと考えるのも楽しみのひとつだ。


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ポテトチップス

2014年03月20日 | 日記


アメリカのカナダとの国境近くにサラトガ温泉というのがある。南北戦争当時、負傷兵の傷を癒したという由緒ある温泉である。ブログにこの温泉の滞在記があったので読んでみると。37℃くらいの温い温泉がホテルのバスタブに張ってあってそこへ20分ほど浸かるというおよそ日本の温泉とは違ったものらしい。温泉からあがると、セラピストがきて手を置くだけの施術をして古傷を癒してくれるのだという。

ポテトチップスが初めてできたのは、この温泉のホテルの事故が原因であった。ホテルのレストランでひとりのコックが、過ってポテトの小片をフライ鍋に落としてしまった。あわててそれを拾いあげ、試しに食べてみるとなかなか美味しい。そこで今度はポテトを薄切りにしてフライ鍋でさっと揚げサラダなどの付け合せに出してみるとこれが大好評。あっという間にこのホテルの名物になってしまった。

サラトガ温泉は、19世紀の後半アメリカ上流人士に愛された行楽地であった。有名な富豪の紳士、淑女がポテトチップスをバリバリと齧るのが庶民憧れの流行になった。このポテトチップスは発祥の地の名をとってサラトガ・チップスと呼ばれた。ところで、この小話に添えた花の写真は何も関係がない。先日から始めた花の撮影練習の結果だ。一日経つごとに花の数は増え、室内の雰囲気が次第に明るくなっていく。その花を見ながら、小話を読んでいただければありがたい。


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初鰹

2014年03月20日 | グルメ


目には青葉山ほととぎす初鰹 芭蕉

青葉もほととぎすにも早すぎる季節だが、静岡の妹から「鰹のたたき」が届いた。いち早く初物を届けてくれる、ありがたいことだ。其角は「藤咲いて鰹食ふ日をかぞへけり」と詠んでいるように、鰹の水揚げは初夏の頃である。だがまれに季節はずれに鰹が上がることがあった。いわばハシリである。文化9年(1812)の初鰹は、3月25日であった。その日の鰹船には17本の鰹が積まれていた。こんな稀少のものが、いかに高価なものであるか想像に難くない。

馬舟とわかる鰹やけいば組 其角

足の速い生鰹の輸送はいわば戦争のようなものである。相模の海に上がった鰹。神奈川から馬の背に乗せて夜通し走らせて江戸へ送るものは翌朝の魚河岸に並び、舟で海路をのぼり夜鰹にするものはやや生きが下がり口にするものを不安がらせた。そのさまはさながら競馬のようであった。魚河岸には、粋のいい鰹売りが待機しており、手早く取引を済ますと脱兎のごとく駆け出していく。「カツウ、カツウ」と叫びながら江戸の街を走りまわる。

鎌倉を生きて出でけん初鰹 芭蕉

鰹売りを戸口で待ち受ける「江戸っ子」も、覚悟を決めている。「初鰹一両までは買ふ気なり」(其角)。初鰹に銭を惜しまぬというのが江戸っ子の気風なのだ。江戸の一日の労賃は平均で64文、一両稼ぐには二月半の稼ぎあてなければ、一両の鰹は買うことはできない。

海から揚げた鮮魚をいかに損なわずに陸地の消費者に届けるか。江戸の昔から追求されてきた魚食日本の永遠の課題である。沖に出た船がより早い季節に鰹をあげ、いち早く焼津の漁港に陸揚げされる。鮮度を落ちぬうちにタタキなどの加工された鰹は氷詰めにされて宅配便で配達される。これほど行き届いた魚食のシステムを完成させた国は珍しい。


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