常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

ふきのとう

2014年03月26日 | 日記


曇りのち雨、気温は17℃と暖かい。ふきのとうを探しに行く前に、知人から採ってきたものをいただいた。今年の初物だ。さっそく明日の朝、みそ汁に散らして春の香りを楽しみたい。ほかの野菜などは、薹立ちは葉が十分に育ったあと、花を咲かせる薹が伸びてくるのだが、フキは葉を出す前に薹が伸びてくる。ほろ苦さと独特の香りは、春そのものだ。

塵取に入れて戻りぬ蕗の薹 鈴鹿野 風呂

以前は雪解けを待ちきれずに、雪が消えていく日当たりのよい土手に行って、雪のなかに黄色い蕗の薹を掘りに行ったものだ。そのとき、やはり黄色く芽をふくらませているアサツキも一緒に掘ってきた。根きりは気の遠くなるような手間がいる。手間をかけて口に入れる蕗の薹やアサツキは、元気をくれる。
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開花宣言

2014年03月26日 | 日記


もちろん桜である。高知で開花宣言が出されて1週間、きのう満開になったと報じられた。そして、東京でソメイヨシノが開花したと発表された。平年より一日早く、昨年より9日送れての開花だ。気温が17.1℃と今年最高を記録した山形では、「梅一輪」と報じられた。わが家でも、ベランダに置いていた梅がようやく開花した。

梅一輪一輪ほどのあたたさ 服部 嵐雪

江戸時代の俳人嵐雪の詠んだ句はあまりにも有名だが、句の味わいは咲く時期、その地方によって微妙な差がある。梅には寒梅という種類もあって、春のさきがけとして咲く花である。梅の花を見て春を感じたのは、京都や江戸の春の気候を考慮する必要がある。この句でも、早春の肌寒さの中に咲く一輪の梅に春を感じている。ひるがえって北の国ではどうか。梅の咲く時期も、桜の時期もさほどの差はない。山里では、梅も桜も桃もみなほとんど同時に
花を開く。日本の春は、地域よって微妙にその雰囲気を変えながら北上する。

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いぬふぐり

2014年03月25日 | 日記


南風が強い。気温15℃、空は霞んで黄砂が飛来しているような気がする。街に散歩、山こービルにできた仙台三越の小型店を見にいく。意外に狭く、自分のような年代のものには、購買意欲をそそるようなものはない。

散歩の途中の川の辺にオオイヌノフグリを見つけた。ことし初めて出会う早春の花である。空色で星がまたたくように咲く花が好きだ。

いぬふぐり雪置きしあとまだぬれて 市瀬 元吉

普段は山の方に散歩に行くが、少し街の様子も見てみる。日中あまり歩くことはないが、街はの姿は刻々と変わっている。なかに、蔵の店がかつての形を変えないので、そのままの姿を残しているのは貴重である。名店も次々と姿を消し、公園に置いてある機関車が黒く光っていた。


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井上マス・井上ひさしの母

2014年03月24日 | 


「母は強し」という言葉はこの人のためにあるといっていいほど、井上マスは夫を亡くした後、3人の子供を育てるために戦後の混乱期を力強く生き抜いた。マスが井上修吉と知り合ったのは、看護婦として務めていた東京の病院であった。恋に落ちたマスを、両親はじめ周囲は反対した。井上修吉の出身地である山形県小松に駆け落ちするようにして結婚したのは、昭和2年のことであった。薬剤師であった修吉は、郷里で薬局を経営するかたわら、読書に励み、文筆で身を立てる夢を持っていた。

昭和12年、修吉はサンデー毎日の懸賞小説に「H丸の伝記」で応募し、一等入選を果たした。賞金は300円。芥川賞の賞金が500円であったから、大金であった。だが結核性カリエスに冒されていた修吉は昭和14年に他界する。享年36歳、マスのもとには10歳の長男茂、5歳のひさし、お腹に1人と3人の子が残された。このときから、母親としての涙ぐましい戦いが始まる。薬局を続けるためにマスは薬剤師の免許を取るため、薬事法規と涙ぐましい取り組みを行う。

戦争が始まり、日本の敗色が濃くなると、苦労して薬剤師の免許を取った店舗も整理され、マスは店を続けられなくなる。それから戦後にかけて獅子奮迅の生きるための努力は筆舌に尽くせない。マス自身がが考案した女性用生理バンドの販売、闇米の販売、美容院の経営。そして知り合った男性と土木会社を岩手県の一関で始めた。ここでマスは工事現場の飯場で泊り込みの作業員の飯炊きと親方の両方をこなすようになった。長男の茂は19歳、母を手助けて監督見習いとして働いた。次男のひさしと三男の修助は中1、小3で郷里の知人に預かってもらっていたが呼び寄せることにした。

マスの悩みは、ひさしと修助が勉強したり、育つには飯場が向いていないことであった。飯場にいる男たちは、給料日がくると花札賭博や花町に女を買いに出かけた。あられもない話を小さな子供たちの前であけっぴろげに語る。本好きなひさしが、本を読む場所すらない。悩みぬいたマスは街の教会に出向き、子供たちをなんとか勉強させたいが、と相談を持ちかけた。

外人の神父は流暢な日本語で簡単に答えた。「何とかしましょう。明日迄待って下さい」
そして、神父が決めてくれたのが、仙台にあるラサール・ホームであった。親のいない子供たちを預かり、学校にも通わせてくれる、キリスト教会の施設だあった。少年時代のこのような経験が、作家井上ひさしを育んでいった。

ラサール・ホームにいるひさしからマス宛に一枚のはがきが来た。「僕は、長野県の高原で開催される、全国の少年が集合するキャンプファイヤーに参加します。勉強したり色々なキャンプ生活の優劣を競うのだそうで、僕は仙台代表として行事の進行をつ掌ります。うまくやります。弟は神父様と海に行くので心配ありません。お知らせまで。追伸、兄ちゃんの仕事がうまくいきますように祈ります。」このころのことは、ひさしの自伝小説『汚点』に詳しく書かれている。

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ランプ

2014年03月24日 | 読書


太平洋の高気圧が張り出して、青空が広がった。朝、6時半に朝の風景を撮ってみた。もう高く登った朝日が、街の建物に反射して、好天だ。今日の予報では、最高気温が12℃である。きのうまで、ぐずついた天気にストレスを感じていたが、ベランダの梅の鉢植えも大きくふくらんで今にも花を咲かせようとしている。

春が近づくにつれて、目が覚めるのが早くなる。日が登ると活動の本能が目覚めて、眠りから覚める。太陽が沈めば眠りにつき、日の出とともに起きて食べ物を手に入れるための活動を始める。これが太古からの人間の活動の基本であった。

半七捕物帳で知られる岡本綺堂に『ランプのしたにて』と題する明治の芝居談義がある。本の題名にランプを使ったのは、東京の一般住宅ではランプの生活であったからだ。煌々とする電灯のもとで語るより、薄暗いランプの光のなかで聞く方が話題に相応しいと考えたからであった。綺堂が子供のころ父に連れられて、新富座の楽屋に市川団十郎を訪ねた話がある。

舞台で見た目玉が大きく真っ白な団十郎は挨拶を済ませると、「坊ちゃんにはあっちの菓子を」とカステラを勧め、「あなたも早く大きくなって、いい芝居を書いてください」と笑いながら言った。そして言葉を継いで、「わたしはそれを皆さんに勧めているのです。片っ端から作者部屋へ抛り込んで置くうちには、一人ぐらいはものになるでしょう」。この団十郎の物言いに、早熟な少年綺堂は大いに反発し、心のうちで「芝居なんか、書くものか」と叫んでいる。

私は北海道の開拓地で生まれたので、小学校4年のとき、初めて電灯が引かれた。それまで一家はランプのもとで暮らした。一晩ランプを使うとほやには煤が付き、朝ランプのほやを古紙で拭いてピカピカにするのが、子供たちの仕事であった。畑仕事が済んでも、子供たちはなかなか家に入らない。日が沈んでも明るいうちは、外で遊ぶ。そのたそがれの短い時間が貴重であった。

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