自爆テロと宗教の価値

2019-05-27 22:08:58 | Weblog
書く気がしない、というか、乗らない。
どうせまた邪魔が入るんだろ、みたいなのがいつまでーも続く。 居なきゃいいのに。

さて自爆テロといったら「宗教」というのが今日の人間の常識になっていると思う。 一方で、宗教は人間の価値の最低額を保証する。 逆に言うと、最低額しか保証しない。
宗教無しだと最低限の価値も無い人間が多くなる。 重度のアル中やジャンキーといった敗残者めいたもの、取りあえず目の前にあったら盗むような人間。 「自分の価値も他人の価値もゼロ」といった、動物めいた人間たちだな。
「命の価値があるのなら何故自爆テロ?」といった疑問が出るだろう、価値があるからである。 いじめられる人間の何割かがいじめる側に自爆テロ型の反撃をするようならいじめは激減するだろうと考えた事のある人は多いと思う、そういう事である。 「最低でもなんでも反撃が必要であり、それすら無くなればあらゆる尊厳が失われるだろう」という予測の下それは行われているそういう話。
では自爆テロを受ける側、もっぱらイスラエルだったりアメリカだったりする、はそういった存在なのか。 20世紀前半ベルギーによるコンゴ統治やオランダによるインドネシア統治にはそういった面があったと聞く。 現地人の多くはアヘン漬けだったと。 イギリス人はベンガル人の腕までは斬らなかったようだがそこでは飢餓が始まっていた。
第二次世界大戦後アメリカ人は、日本人の尊厳のすべてを奪ったか。 否である。 では奪おうとしていたか。 これは人によるが、是であるとする。 最近外務省が旭日旗の説明をする文章をネットに上げた。 70年経ってやっとである。 アメリカの進歩的だと称する勢力、私は彼らを麻薬派だとするが、が奪おうとしたものの一つだ。

ここに問題がある。 韓国人の妄執、彼らの歴史文化に関する精神的勝利法は彼らの尊厳なのか。 彼らは是とする。 私は否とする。 かみ合っていない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする