理想の世界を「食う、寝る、遊ぶである」と書いたらおそらく「ああ、コイツはクズだ」「駄目人間だ」と思われるだろう。 そこでこう書く。 「理想世界の景色とは子供たちがめいめい存分に食べている状態」「憂いなく寝ている姿」「皆楽しそうに遊んでいる場面なのだ」と。 これなら大多数の人がそれぞれに頷くだろう。 「子供たち」と置いた。 これを「猫たち」にしてみよう。 「猫たちの理想の世界の風景」。 やはりめいめいが「食う、寝る、遊ぶ」である。 結局「万人が」「万物が」ふんだんに、皆憂いなく、健やかに、楽しそうに、食う寝る遊ぶをしているのが理想の世界なのだと。
最初の一文に戻ろう。 「食う寝る遊ぶが理想世界」とする事への反応はおそらく、「コイツは駄目人間だ」だろうとした。 実はこれが現社会の邪悪さの一端だったりする。 例えばだ。 他人がふんだんに持っている事を目にし「あれは制限されなければならない」とするのが社会主義志向。 ただ寝ている姿だけを「つまらない」とする人間がその性向を言い表す単語が人間ドラマ。 楽しそうに遊んでいる人間を見て「彼らはもっと苦痛の内に居なければならない」とするのが努力強制型ルール。 邪悪なのだ。
さて社会主義を例に挙げよう。 おそらくそうした志向を持つ人間は「不満を持った人たちが居るのだから富んだ人たちが彼らに分け与えなければならない」「それこそが社会の正しいあるべき姿なのだ」とするだろう。 違うとする。 目の前に不満そうな人が居たとしよう、「何か不満なのか?」とただ聞くだけである。 その答えは「サッカーボールが欲しい」「自転車が欲しい」「最新の合体ロボが欲しい」といったものかもしれない。 もちろん、本音が「幸せそうな他人が妬ましい」なのかもしれない。
ここに虚飾がある。 他人の幸せを妬む人間は「他人もまたそうなのだ」とする。 それをそのまま表す人もいるだろう、だが多くは、自身の妬みと自身がそうである事から他人も同じだろうと見るそれを、正しさ、美しさなどで隠そうとする。 彼らのそうした方向性が例えば「礼儀作法」のようなものとなって他人を制限しようとする方向にルール化される。
「ウンコ、チンコ、マンコ」と子供がはしゃぐ。 実はこれ、「ルール化された妬みの作法」への反発である。 社会の邪悪さの側から善の側へと回帰しようとする動きだったりする。 大人たちが作った「妬みのルール」に触れてこれを異とする子供がこう反応するのだ。
さて、どう実現するか。 まず「寝る」は比較的ハードルが低い。 「いつでも寝れる静かでそこそこ快適な場所」がそれぞれにあればいい。 万人に何故これが実現しないのか、というと理由は快適さの基準、騒音に関して寝所と活動場所の区分けが機能していない、人口増加で場所がなくなった、といったもの。 人口増加はその都度解決策を探るより他無く、区分けに関しては、寝ている人に対する遊びは制限されなければならないのか、というとyesが答えとなると。
「食う」はもっとハードルが高い。 「狩るのか」「刈るのか」といった問題がまずあり、食料が狩らず刈らずに作れるようになったとしても傷む、腐る、食べ残しに排泄、ウンコだな、といった問題がある。 さらには有る物と好き嫌いの関係だ。 合成された食料ブロックのようなものを食べて幸せならそれでいいのか、というとハードルの低い問題解決ではある。
「遊ぶ」。 これがハードルが最も高いものだろう。 区分け、区分け内でのルールがそれぞれで機能しないと単につまらない、のみならず苦痛を強請される状況が多発するようになる。 統一的な解決策としては個々人のモラル向上で、区分けごとのルール、マナーだな、の明示が必要となると。
以前から「何故鉢植えの平和が無いのか」と思い続けている。 その都度答えは出るが、問いにやはり戻る。 結局は鉢植えの盆栽は大樹になろうとするから、が答えなのだろう鉢植えが多ければ、少なかったとしても巨木は、手に余る。 では巨木の寿命は必然か、というと、そうなのかもしれない。
最初の一文に戻ろう。 「食う寝る遊ぶが理想世界」とする事への反応はおそらく、「コイツは駄目人間だ」だろうとした。 実はこれが現社会の邪悪さの一端だったりする。 例えばだ。 他人がふんだんに持っている事を目にし「あれは制限されなければならない」とするのが社会主義志向。 ただ寝ている姿だけを「つまらない」とする人間がその性向を言い表す単語が人間ドラマ。 楽しそうに遊んでいる人間を見て「彼らはもっと苦痛の内に居なければならない」とするのが努力強制型ルール。 邪悪なのだ。
さて社会主義を例に挙げよう。 おそらくそうした志向を持つ人間は「不満を持った人たちが居るのだから富んだ人たちが彼らに分け与えなければならない」「それこそが社会の正しいあるべき姿なのだ」とするだろう。 違うとする。 目の前に不満そうな人が居たとしよう、「何か不満なのか?」とただ聞くだけである。 その答えは「サッカーボールが欲しい」「自転車が欲しい」「最新の合体ロボが欲しい」といったものかもしれない。 もちろん、本音が「幸せそうな他人が妬ましい」なのかもしれない。
ここに虚飾がある。 他人の幸せを妬む人間は「他人もまたそうなのだ」とする。 それをそのまま表す人もいるだろう、だが多くは、自身の妬みと自身がそうである事から他人も同じだろうと見るそれを、正しさ、美しさなどで隠そうとする。 彼らのそうした方向性が例えば「礼儀作法」のようなものとなって他人を制限しようとする方向にルール化される。
「ウンコ、チンコ、マンコ」と子供がはしゃぐ。 実はこれ、「ルール化された妬みの作法」への反発である。 社会の邪悪さの側から善の側へと回帰しようとする動きだったりする。 大人たちが作った「妬みのルール」に触れてこれを異とする子供がこう反応するのだ。
さて、どう実現するか。 まず「寝る」は比較的ハードルが低い。 「いつでも寝れる静かでそこそこ快適な場所」がそれぞれにあればいい。 万人に何故これが実現しないのか、というと理由は快適さの基準、騒音に関して寝所と活動場所の区分けが機能していない、人口増加で場所がなくなった、といったもの。 人口増加はその都度解決策を探るより他無く、区分けに関しては、寝ている人に対する遊びは制限されなければならないのか、というとyesが答えとなると。
「食う」はもっとハードルが高い。 「狩るのか」「刈るのか」といった問題がまずあり、食料が狩らず刈らずに作れるようになったとしても傷む、腐る、食べ残しに排泄、ウンコだな、といった問題がある。 さらには有る物と好き嫌いの関係だ。 合成された食料ブロックのようなものを食べて幸せならそれでいいのか、というとハードルの低い問題解決ではある。
「遊ぶ」。 これがハードルが最も高いものだろう。 区分け、区分け内でのルールがそれぞれで機能しないと単につまらない、のみならず苦痛を強請される状況が多発するようになる。 統一的な解決策としては個々人のモラル向上で、区分けごとのルール、マナーだな、の明示が必要となると。
以前から「何故鉢植えの平和が無いのか」と思い続けている。 その都度答えは出るが、問いにやはり戻る。 結局は鉢植えの盆栽は大樹になろうとするから、が答えなのだろう鉢植えが多ければ、少なかったとしても巨木は、手に余る。 では巨木の寿命は必然か、というと、そうなのかもしれない。