Being There Ending ᴴᴰ
☆・・・40年前の作品。
名作を再上映する「午前十時の映画祭」の一本(^.^)
この作品には思い入れがある。
私は、これまで何度となく、この作品を引き合いに出して、文学や政治を語ったりした。
「なにかを極めた者は、それを他の異なる事象にもあてはめられる」などと。
また、この作品がテレビで放送された時、翌日の中学校の教室でかなり話題になったってこともある。
みんながみんな、主人公チャンスの愛称「チャンシー」を連呼したものだ。
だけども、当時の映評などでの評価はけして高くなくて、私は不満だった。
・・・今回、彼女と観に行った。
彼女には、「この作品は、数日前に見た『アイ・フィール・プリティ』と構造が似てるんだよな」と興味を惹かせた。
どこが似ているかと言うと、能動・他動の違いはあれど、「誤認識」が、ひいては大きな公約数的なハッピーを産み出すということ。
…知恵遅れのチャンスは、熟年に至るまで、外界に出ることなく、とある屋敷の庭師を住み込みで務めていた。
趣味はテレビを自由にザッピングしての鑑賞。
テレビのリモコンは、チャンスにとって万能の魔法の杖だ。
しかし、血縁関係的には独居の主人が死に、メイドが去り、天涯孤独となり、法的に屋敷も出なければいかなくなる。
ほとんど初めての外界。
いつもメイドが用意してくれた食事を疑問なく食す毎日だったので、どうやって腹を満たせば良いかも分からない。
不良に絡まれて、困って、ポケットから取り出したリモコンでチャンネルを変えるも、目の前の現実は変わらない。
途方にくれつつ、デパートのショーケースに飾られているテレビを見る。
やっぱり、持参のリモコンは使えない。
「あれ? 変わらないなぁ」
後ずさりしたとき、チャンスは車に轢かれる。
身体を気遣われ、車で運ばれたのは、アメリカの大立て者の超大富豪の家。
小ぎれいな格好をしていたチャンスは、屋敷の歳の差のある夫妻に「ひとかたならぬ人物」と思われる。
自分の身の上を語るも、次元の異なるレベル(バリバリ活躍した社長の不遇)での不幸と思われ、屋敷への滞在を請われる。
屋敷には、難病となってしまったが、政権のフィクサーの主人と、若く美しい妻(シャーリー・マクレーン)。
主人はチャンスの庭師としての言葉を、アメリカ経済の比喩と捉え、その慧眼に感服する。
例えば、「冬は木々は枯れるが、根がしっかりと大地に張ってれば、春には必ず芽吹きます」。
「なるほど! 今のアメリカ経済は耐える時ってわけだな!」
こんな感じで、富豪宅を訪れた大統領にも認められ、それに着目したテレビ局にも認められ、アメリカ国民に愛されていく。
いや、チャンスは庭師(ガードナー)としての経験を語っているだけ、でも、周囲は、「ガーディナー」と言う名字の、その分野のエキスパートが語っていると勝手に勘違いし続けるのだ。
…さて、それから…?
というお話。
どうぞ、見て下さいな٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
(2019/01/07)