大佗坊の在目在口

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藤沢片瀬界隈

2017-06-30 | 東海道沿線

江の島の北に片瀬山と称する南北に渡る丘陵がある。大雑把に云って、丘の東側が鎌倉市、西側が藤沢市になる。その丘の西側に藤澤宿から江の島に到る江嶋道が通っている。片瀬の密藏寺からスタートして本蓮寺、常立寺と廻った。
 
 
密藏寺は新編相模国風土記稿に「寶盛山藥師院と號す本寺前に同じ(古義真言宗手廣村青蓮寺末寺)開山は有辨徳治元年正月九日寂す中興は祐與天正五年十月六日寂すと云ふ、本尊は藥師なり」とある。本堂前に「愛染かつら」という名のついた小暮実千代が植えたという桂の木があった。「本尊愛染明王の境内にある桂の木に由来「愛染かつら」と称す」と木札にあった。
 
小暮実千代がまだ大学生の頃、この密藏寺でお芝居の合宿をして、その演技が松竹入社のきっかけとなったという。昭和32年4月、小暮実千代に頼んで本堂前に植えたという「桂の木」が大きくなっていた。
南に少し歩けば、関所みたいな大門(総門)の先に山門があるのが本蓮寺。
 
 
 
「瀧口山と號す(京本國寺末)、寺記に拠るに推古帝の三年義玄(高麗恵儀慈の弟子)、創建し後泰澄・弘法・慈覚等の高僧居住す、元暦中頼朝再建せしとなり、当時密教たりしが文永八年九月十二日、日蓮止宿ありし旧跡なるをもて嘉元中秀(中老僧)、改宗して再建せしとぞ」と風土記稿にあり、龍口寺輪番八ヵ寺(片瀬の本蓮寺、常立寺、腰越の本成寺、勧行寺、法源寺、津の東漸寺、本龍寺、妙典寺)の一つでもある。
 
本堂裏に多宝塔があった。
本蓮寺大門入口の右隣に松が植えられていて、「西行もどり松」と石標があった。
 
風土記稿に「土俗は戻松と呼べり、本蓮寺の門外大路の傍に在り、枝葉西方に指す、往昔西行此地に来たり都の方を見返り、此枝を取て西方に押ねげむけたり、故に此名ありと云ふ」とある。本蓮寺から常立寺に向かう途中に江の島弁財天道標がある。藤沢市教育委員会の説明板によると「この石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つです。江の島弁財天道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術を、江の島で考案したという杉山検校が寄進したと伝えられて、現在市内外に十数基が確認され、そのうち市内の十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。すべて頂部のとがった角柱型で、その多くが、正面の弁財天を表す梵字の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「二世安楽」と彫られています云々」、また「この道標の裏側には、「西行のもとり松」と刻まれています」とある。
  
十二基の道標のうち「西行のもとり松」と刻まれた道標はここだけだと言う。この道標が動かされていなければ、本蓮寺の寺域はこの辺まであったという事なのだろうか。西行と童との「夏枯れて冬ほき草を」といった類いの「もどり松、戻り橋」の伝承は、遊行僧が説話として各地に広めたのかもしれない。
 
庚申塚を過ぎると常立寺に着く。
ここも本蓮寺と同じ龍口寺輪番同宗八箇寺の一で號は瀧口山、風土記稿に「開山は日豪と云ふ(武州碑文谷法華寺七世)永正中、豪、日向利成生廃寺の旧池に就て開基し、今の寺山號に改め、当宗に属すと云ふ」とある。
 
 
 
文永十一年(1274)、蒙古襲来の(文永の役)翌年、建治元年(1275)、元が日本に派遣した使者杜世忠を八代執権北条時宗は龍ノ口で処刑した。常立寺境内に処刑された五人の埋葬地「誰姿森」を碑題として、法華題目供養碑を大正十四年、元使六百五十年記念会により建立されている。
 
消防片瀬分遣所の二又に「従是江嶋道、龍口道」の道しるべがあった。

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