天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

遺書メモ「バカ」と書き飛び降り自殺した小学6年生は私の体験から中学進学し辛抱強く勉強すれば見返し可能

2019-03-14 14:19:39 | 日記
今日の日記は、12日夜愛知県豊田市の15階建マンションから飛び降り自殺した二人の小学6年生の内、一人の遺書メモに「バカだ!」と記載されていた(毎日新聞ネットニュース)痛ましいイジメの出来事です。
今月20日の卒業式を前に、仲の良かった同級生二人が、学級内のイジメ(その端緒な言動が「バカ」か?)や卒業後の進路を苦(注:あくまでも私の想像)にして、自死してしまいました。
私のような戦後生まれの団塊世代では、私の通っていた当時の小学校での「イジメ」などは全く起きておらず、より豊かになった平成時代に多く見られるようになった「学校内イジメ」を、私は全く想像できないです。以下に、小学1年生当時の学業成績が「バカ」だった私の当時を振り返ってみます。添付した写真は、「バカ」だった私の小学1年生”通信票”(1960年度:59年前の書類で古く汚れている)です。
昭和35年4月に、私は横浜市の公立小学校に入学しました。当時は、太平洋戦争が終わってまだ15年しか経っていないので、悲惨な戦争の爪痕が至る所(実例:街頭で傷痍軍人が募金活動・米軍居留地が日本国内一等地に広く存在)多くに残っていました。でも、何か明日への”希望”が強くあった事(実例:小学校入学時に日本テレビで放映開始された『快傑ハリマオ』では、戦前のマレー半島で活躍する日本軍人を描き、戦争に負け日本を卑下していた私をとても勇気付けた)を今でも覚えています。
そして、その頃の幼い私は、父親の勤務先の社員社宅で同じ会社の同級生の子供たちと外で遊び回っており、ほとんど勉強などしない毎日でした。添付した”通信票”での主要4教科は、「5」など取れず「4」も1学期算数(まだ九九の試験などなく評価基準が曖昧)の一回だけで、すべて「3」でした。実技系3教科の、音楽(特注:2年に進級したら評価「1」を食らい、慌てた母親が教科担任と面接した)・図画工作・体育は、全て「2」か「3」です。
学習の状況の所見でも、特にすぐれている点はなくなく「中の下」状態でした。でも、出席の状況は2月に風邪で休んだ1日だけで、その出席率99.6%でした。だから、多くの級友が長く休んだ2月でも1日しか休まない私は、”「バカ」は風邪を引かない”と級友から揶揄われたものでした。そして、この我慢強さを担任の先生からは、行動の状況の「根気強さ」で、「〇」(熱心にまじめに仕事をする。最後までしんぼうして強くやりぬくなど)の評価を貰いました。
でも、当時は勉強ができるようになりたいとも思わなかった私は、その唯一の「〇」評価に感激して、2年生に進級してから勉強をコツコツを始めました。そして、「バカ」だと揶揄されても、逆にその言葉をバネにして、私は辛抱強く勉強をやり抜く事で、7年後の中学2年生でオール5まで学習評価を上げたのでした。
だから、「バカだ!」と言われ自殺した女子児童も、中学に進学してより辛抱強く勉強していけば、逆に言った児童を見返してやる事が可能だったと、自身の実体験から私は強く思っています。でも、壊れやすいガラス細工のような心でナイーブなこの女子児童には、その将来の展望を持てなかったのでしょう。だから、そのような状況になる前に、周囲の教職員ら(事件後の校長会見には、その真摯な思いが何ら感じられない)が配慮すべきだったと、私は強く痛感しています。
そして、天から祝福され生まれてきた女子児童が、たった12年で自らの命を絶った事を、今の日本社会は厳粛に受け止める必要があると、私は強く思っています。
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今年最初シンクロニシティ:橋本五郎著『官房長官と幹事長』で武村正義氏は小沢一郎氏雲隠れを【十八番】と

2019-03-07 13:22:53 | 日記
今日の日記は、今年最初のいつも『シンクロニシティ』現象が起きて、昨日私が言及した言葉【18番・おはこ】が、今札幌別宅で読んでいる橋本五郎著『官房長官と幹事長』(2018年12月・青春出版社刊)に登場した事です。添付した写真は、その著書の表紙です。
この著書は、読売新聞特別編集委員である橋本五郎氏が歴代政権を支えた官房長官と幹事長の仕事ぶりを論評した政治関連書です。その著書の中で、細川連立内閣で官房長官を務めた武村正義氏が、自著「聞き書 武村正義回顧録:武村正義述・御厨貴、牧原出編(2011年・岩波書店刊)」で、政権与党の一員だった小沢一郎氏への「嘆き」のエピソードを興味深く紹介しています。以下に、その関連記述の一部を引用・掲載します。
『1993年12月16日、小沢が突然、首相公邸にやってきた。「武村官房長官のクビを切れ。そうでなければもう内閣には協力できん。」と宣言して、バタン!とドアを閉めて帰って行った。そして、その後の10日間ほど、小沢は音信不通になる。武村は、小沢のいういった言動を冷静に批判的に見ていた。武村が官邸に呼ばれて、細川からその話を聞いて、その後、小沢と会って話をしようにも、雲隠れして現れない。武村は「あの人の【十八番(「おはこ」とルビ)】ですね。」と嘆いている。』
今年も私が全く予期出来ない『シンクロニシティ』(意味ある偶然の一致)が起きました。また、武村氏が小沢氏の「十八番」的なその卑しい政治行動を指摘したのは自著出版の2011年初頭(震災前)ですが、その1年後の週刊文春2012年6月14日号でも「小沢一郎は福島原発事故の放射能が怖くて、その当時選挙地や福島から逃げた」でも、その政治姿勢をマスコミから強く糾弾されていました。
だから、武村正義氏の慧眼だったこの言葉【18番・おはこ】が、震災直後の小沢一郎氏の政治姿勢を如実に具現したと、私は、この著書を読んで今強く得心しました。
今年の安倍首相談話「悪夢のような民主党政権」に反発して、その政権の担い手であった小沢一郎氏は自己反省も全く無く「もう一度、悪夢を見てもらう」と強い決意を語っています。私は、このような何も分からない劣悪な政治家は、もう引退退場して欲しいです。
だから、自民党は次期衆議院選挙の岩手選挙区の小沢一郎氏地盤に最強の候補者を擁立して欲しいと、私は強く願っています。
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半世紀前18番言った私は音楽成績評価降下し逆に18番演目披露出来ない市川海老蔵の市川團十郎襲名中止を

2019-03-06 13:44:22 | 日記
今日の日記は、私が1967年中学2年2学期の音楽実技歌唱試験の開始時に、私の出席番号を不必要に【18番!】と思わず声に出してしまい、ルームメイトの大爆笑を生んだとても懐かしい出来事です。
当時の音楽実技テストに、各人の歌唱実演があり、その開始前に、各人のアイウエオ順に先生から自身の名前を呼ばれてから、歌唱実施を始めました。だから、自分の出席番号をあえて言う必要もなかったのに、私は何を思ったのか?自分の出席番号を、その時思わず言ってしまいました。
その言った出席番号が、普通の番号ではなく【18番!】だったから、聞いた教室内は大騒動でした。それは、江戸時代に歌舞伎の七代目市川團十郎が選定した宗家のお家芸演目『歌舞伎十八番』から派生した【おはこ・十八番】の言葉を強く連想して、クラスルーム皆(今の中学生は「おはこ・十八番」を知らかもしれないが、当時の中学生は皆知っていた。それだけ日本伝統文化に馴染んでいた証拠)が大爆笑したのです。この想定外のハプニングには、音楽指導の先生も苦笑いをしていました。
ましてや、これから歌唱する私は強く動揺して、普段の実力を発揮出来なかったです。さらに、音楽指導の先生は、私が音楽テスト授業を小馬鹿にしている(注:1学期評価5の実力を私自身が自慢し思いつけあがった所業と)と感じたかも知れません。何故なら、以後は音楽成績評価は5ではなく1ランク下がった4になったからです。”口は災いの元”とは、私に良く当てはまる格言だと、今当時を振り返って強く得心しています。私の持つ「発言力」が、思わず間違った方向に行ってしまったのです。
そして、今年1月14日、その七代目市川團十郎の宗家後継者として、十一代市川海老蔵が来年5月に「十三代市川團十郎白猿」を襲名する発表が歌舞伎座で成されました。私には、とても残念な出来事でした。何故なら、私は2013年2月14日付日記で『中村吉右衛門四女と結婚の尾上菊之助は三男子を儲け長男跡取り・次男吉右衛門養子・三男市川團十郎跡取り』で書いたように、未だ未熟・不行跡者の十一代市川海老蔵が、十三代市川團十郎の大名跡を継ぐことに、強く反対だったからです。
でも、その2年前には、彼(市川海老蔵)には市川團十郎の大名跡を継ぐ事など全く考えられない2017年7月歌舞伎座興行の演目表があったのです。添付した写真は、その興行パンフレットです。
その興行では、市川宗家の「歌舞伎十八番」の内、十八番『矢の根』を、縁者自身が出演していながら、その系統の市川海老蔵ではなく、無関係の沢瀉家系譜の市川右團次が演じているからです。私には全く考えられない配役キャストです。私の想像ですが、当時の松竹幹部は、市川海老蔵が宗家を継ぐなど全く考えていなかったかもしれません。
だから、今からでも遅くないですから、半世紀前に「18番」と言った私が音楽評価で成績急降下したように、逆に「18番」演目を披露出来なかった市川海老蔵の降格(市川團十郎の大名跡を継ぐ事中止)を、私は是非とも松竹幹部にお願いしたです。
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1967年中学2年1学期オール5通信票の担任所見”発言力もある”が以後暴走し【長所は短所なり】実感す

2019-03-04 14:01:18 | 日記
今日の日記は、私が中学2年生の1学期(1967年7月)終了時に頂いた【通信票】の学習成績(全ての教科が5評定)と記載された行動所見の事です。添付した写真は、半世紀前以上前の今でも保存しているその成績書類です。
私は、昨日の日記で高校3年生時の成績表(文系・理系問わずオールマイティ?・器用貧乏?)を皆さんに公開しました。そして、成績オールマイティ化のその傾向は、その5年前の公立中学校2年生から始まっていたのです。
当時私が通っていた公立中学校は、1学年は12クラス(1クラス48人程度)のマンモス校でした。学習の成績評価は5段階の相対評価で、最高位の”5”を取るのはクラスの内、必ず3人だけでした。だから、高校での成績絶対評価と違い、クラス間の点数競争が熾烈でした。テストで好成績を取っても同点で3番目の生徒が多数いれば、その内1人しか”5”評価を貰えないのです。ましてや、評定する教科担任先生は、その対象となる生徒の他学科成績を忖度(優秀な生徒を優遇)出来ないので、あまり情実が入り込む余地がないです。
さらに、音楽・美術・保健体育・技術家庭科の4教科は、ペーパーテストだけでなく実技試験も有り、ただ勉強すれば好成績を取れる訳ではないのです。
そのような困難な環境でも、私は2年生1学期だけですが、9教科評定を全て”5”になりました。終業式で、クラス担任の先生(自身の教科指導は英語)が生徒に通信票を渡す際、”オール5を取った人が、一人います。私の長い教員生活で初めての体験です。”と、クラス皆の前で告知されました。でも、私自身は、その該当者の自信はあまりなかったですが、私のその時貰った【通信票】が、すべて5になっていました。
だから、私は、隣の机に座って居た女子生徒に、それを見せて、思わずガッツポーズをしました。でも一度パーフェクト(45点満点)を達成すると、それを維持するのは至難の業です。実際、次の2学期から音楽だけは1ランク陥落し”4”(卒業するまで5に復活する事は無かった)に成ってしまいました。
このパーフェクト達成時の「学習、行動、身体等の所見と事実の記録」にクラス担当の先生が記述した”発言力もある。”との指摘は、【的を射る】ものだったと、半世紀以上経った今でも、私は痛感しています。
何故なら、その私の”発言力”がその思慮を忘れて思わず暴走して、”所属組織”の中で強く浮き上がってしまったその後の私の人生があるからです。だから、その時担当の先生が、”その使用法には、深く注意して下さい。”と、私に一言釘を刺してくればと、今自分勝手にぼやいています。
さらに、【長所は短所なり】の格言を、私は今強く実感しています。
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文系教科が得意な私は47年前現役合格可能な千葉大学工学部建築学科を受験しその作戦がズバリ的中し歓喜す

2019-03-03 11:38:40 | 日記
今日の日記は、ちょうど47年前(1972年3月3・4日)に体験した国立大学一期校(千葉大)入試の懐かしい思い出です。
現在2月下旬に実施されている大学入試センターの共通試験とは全く違い、私が入試を体験した頃は、その試験問題は各大学が独自に作成し、国公立大学の試験日は、2回(一期校:旧帝大他・3月3日と、一期校合格発表後の3月20日以降・他国公立大学の二期校)に分けて実施されていました。そして、その受験科目や配点も入試を行う各大学が独自に決めていました。
私の3歳違いの実兄が二浪の末、ようやく合格し学費の高い青山学院大学経営工学部に自宅通学していた為、私は親の家計負担を考慮し、現役で合格可能な大学(職業選択で潰しが利く工学部建築学科)を目指す事にしました。
その検討の結果、最難関校(東大・東工大等)でなく首都圏(自宅からの通学圏)で唯一一期校として同日試験日にグループ化されている千葉大学工学部建築学科(当時は人気が有り合格率15倍以上だが)を目標としました。
さらに、その入試スケジュールだけでなく、理系工学部でありながら試験科目が5科目(国語・社会・数学・理科・英語)もあり、その配点基準も同じでしたので、文科系科目も得意な私向き(オールマイティというより器量貧乏?)だと思いました。添付した写真は、同年3月1日実施された県立高校卒業式に、卒業証書と一緒に手渡された「通知票」(成績証明書)です。
この成績表は、2学期終了後(注:添付用紙は古い用紙で3学期となっているが、2年前の学園紛争の末大学と同じ前期・後期の2学期となった)学期末に、5段階評価(5が最優良の数限定無く絶対評価)で各履修教科ごとに評定されています。
その評価表によると、現代国語5・古典乙Ⅱ5・政治経済4・日本史4(5ではないが、私の最も得意な教科:駿台大学模試で科目別4位を獲得)世界史5・物理B5・科学B5・数学Ⅲ5・英語4です。また、この成績が大学合格後の日本育英会の奨学金獲得に繋がった。
大学入試の選択科目は、社会は5評定の世界史ではなく4評定の日本史を選び、理科は同じ評定5でしたが授業時間が多い物理Bを選択しました。そして、国語は理系学部では選択は無く、現代国語と古典科目の複合問題になっていました。
5科目の500点満点(同じ配点は当時の工学部では全く異例)ですが、私は数学や物理・英語では高得点を上げる事は出来ないので、最も得意な日本史と国語(古文・漢文が得意:当時から日記ブログのタイトルが示すようにその素養有り)で、他受験者より高得点を稼ぎ合格する作戦でした。
その作戦はズバリ的中し、19日発表の合格掲示板に、私の名前と受験番号を見つける事が出来ました。その時の歓喜は、私は今でも忘れられないです。
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