天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

『シェイクスピアと大英帝国の幕開け』売春宿に建つローズ座役者は職業で好色行動や仕草を犯す同じ下層民と

2011-12-20 21:06:27 | 日記
今日の日記は、今イギリス旅行の勉強の為に読んでいる、フランク・カーモード著『クロノス選書 シェイクスピアと大英帝国の幕開け』(吉澤康子訳 河合祥一郎監修 ランダムハウス講談社2008年刊)のことです。添付した写真は、その著書の表紙です。
この著書は、シェイクスピアが活躍した当時のロンドンの劇場や人々の様子を、とても興味深く描いています。以下に、私が強く共感したその記述の一部を引用・掲載します。
『商業や資本の中心地としての重要性を増していったロンドンは、エリザベス朝時代に劇的な変化を遂げた。・・劇場は大きく立派な建物であったにもかかわらず、上流の人々のみならず徒弟や法学院生たちのたまり場であり、隣接する居酒屋や売春宿と同じように騒々しく悪臭が漂っていて、喧嘩など日常茶飯事であったに違いない。劇場はいかがわしい場所の文字どおり隣に建っていたのであり、グローブ座のすぐ近くにあったローズ座などは売春宿の敷地に建てられており、あたりの至るところにトランプ詐欺師や博打打ち、いかさま師や金貸し、声を張り上げるポン引きや売春婦たちがいた。役者たちは敵対者たちからこうした下層民と同一視されており、次のように批判されている。男が女の衣裳を身につけること、また女が男の衣裳を身につけることは、明らかに禁止された行為である。私は罵り言葉、しらじらしい嘘、詐欺行為、野卑な言い草、卑猥な会話、みだらな動作、好色な行動や仕草のことを言っているのではない。なぜなら、こうしたことはすべて、普通の人でも犯しかねないからである。ただ、違いと言えば、それが徳の欠如によって行われるのか、職業として行なわれるのかということだけだ。』
このシェイクスピアが登場した16世紀末から17世紀初頭のイギリスと同じように、日本でも歌舞伎の始祖と言われる出雲の阿国が、京の街に出現しています。そして、同じように、その芸人の社会的地位はとても低く、”河原乞食”と蔑まれていたのです。イギリスのグローブ座やローズ座は、日本の舞台小屋よりも立派でしたが、同じようにテムズ川南岸に建設され、そこに出演した役者も下層民と同一視され蔑まれていたのです。
地球上の同じ時代に、地球上の遥か離れたまったく文化や風習も違う国で、今日では立派な古典芸能として認められている、みだらな動作や好色な行動や仕草と批判された舞台劇が同じよう発生していたのです。私は、今とても驚いています。そして、単なる偶然の出来事とは言えない歴史的必然なのかもしれません。
だから、私が一時期夢中になった”みだらな動作、好色な行動や仕草”と批判されるストリップショーも、これから数世紀の歳月を経て、立派な芸能に認められる可能性があると、私は今、自分勝手に思っています。
しかし、それには、ある前提条件が必要だと確信しています。その劇場に集う普通の人を独善的な教義で理不尽に排除するような一部応援客が跋扈する悪しき閉鎖的な劇場体質から、完全に脱却する必要があると私は強く思っています。
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某踊り子嬢ブログ日記カウンター数は私が10分間に20回アクセスしたら26増で何もしないと4しか増せず

2011-12-18 10:31:24 | 日記
今日の日記は、札幌投稿特別版です。私は今、某ストリッパー嬢のブログ日記の管理運営(そのブログ管理人は、独善的応援教義を信奉するその親衛隊首魁)をチェックする為、ある実験・検証をしました。
私は、以前にこの親衛隊首魁の管理運営する某ストリッパー嬢ブログ日記のアクセスカウンター数の不正な改竄を自身のブログ日記で糾弾しました。そして、その時は、このブログ日記のアクセスカウンター数は、閲覧者数(IP)だと私は思い込んでいました。でも、札幌に居るとてもいい機会ですので、もう一度その検証(注:私はこのブログ閲覧を禁止されているが、札幌ではまったくフリーにアクセス可能)をしたいと決意しました。
その実験・検証とは、ある時点(そのアクセス数を記録)の10分後(具体的に、①・AM9:25をスタートとして、10分間に私が同じパソコンから30秒ごとに1回計20回アクセスした時の②・9:35のアクセス、その10分後の私が何にもアクセスしない時の③・9:45のカウンター数)の三時系列時点のアクセスカウンター数の推移を閲覧して調べることです。では、以下に、その調査結果を報告します。
・①・AM9:25・アクセス数:176
・②・AM9:35・アクセス数:202(26増加:私はその間20回アクセス)
・③・AM9:45・アクセス数:206( 4増加:私はその間 0回アクセス)
このような、とても興味深い結果が出ました。この日記のアクセス数は、閲覧者をその出所を選別してカウントしないで、単にその閲覧数をカウントしていたのです。
何故なら、私が同じパソコンから10分間に20回アクセスした行為は、本来ならカウントされないはずですが、その後の10分経過した数値から推測すると、私の札幌でのアクセスは、完全にカウントされていたのです。
因みに、この私のブログ日記の管理は厳密されており、昨日のアクセス数は247IP、1,883PV(総ブログの3,037位)でした。
彼女のブログ日記のアクセス数が、IPではなくPV数だとすると、某劇場看板嬢としてはとても寂しい数値です。これも、この管理人と、その応援隊首魁を優遇しHPの運営まで彼に一任している所属某ストリップ劇場への、普通の一般ストリップ客の強い不満の表れかも知れません。
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札幌セカンドハウスOPメニュークロゼットと物入取り替えるだけで有償と融通きかない内装打合業者に残念

2011-12-17 13:59:20 | 日記
今日の日記は、札幌より投稿している特別版です。
本日、昼過ぎに、先月予約していたセカンドハウスの正式契約を行いました。間仕切り変更の無償OPも御願いして、1LDK(注:LDKと洋室2をあわせて一室にした)の仕様にしました。しかし、その変更後の洋室1にある2個所のクロゼットの内、一箇所を物入にして、玄関廊下にある物入をクロゼットにお互いに交換する私の設計変更の要望は、完全な有償になると言われました。
私は、この設計変更により、それほど費用がかかるわけではないのに、どうして有償になるのか?合点がいかなかったです。
その内装の打ち合わせをした業者(施工はせずコンサルタントのみ)は、私の部屋だけ特別な仕様変更の打ち合わせが発生するから、その経費であると主張していましたが、このOP設計が良く無い(私注:洋室1には布団等の寝具を収納する物入なくて2個所の大きなクロゼット)から、”設計変更を要望した”と私は強く反論しました。
その設計変更代がいくらかかるか?後日、私に連絡があります。その金額によって、私はするか?しないか判断するつもりです。
でも、あまりにも融通のきかないとても残念な内装コンサルタント業者でした。
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他人意見に耳傾けるを「男の美学」にあげてないと批判する者は”男の喧嘩は素手でやる”と正反対の卑劣悪人

2011-12-14 21:14:34 | 日記
今日の日記は、私が関係するネット掲示板に書き込みされた投稿に対する私の真摯な反論です。以下に、その関連する投稿文を引用・掲載します。
・2011/12/13 17:00『<あなた達に私の「男の美学」(以前、別の板で掲載済)の内容説明します。 1.男は決して嘘をつかない。(武士に一文はあっても、二言はない。)しかし、時として男は真実を隠す例外も有り。(例)「南部坂 雪の別れ」で「瑤泉院(阿久里)」に対する「大石内蔵助良雄」 2.男の喧嘩は素手でやる。(お互いに対等な条件で勝負する。)(例)男の理想像を描いた名作映画「静かなる男」(1952年アメリカ製作)での主人公「ジョン・ウェイン」 3.男は決して友を裏切らない。(例)「関ケ原の戦い」での「石田治部少輔三成」にたいする「大谷刑部少輔吉継」 「銀河英雄伝説」での同盟軍リーダー「ヤン・ウェンリー」に対する「ワルター・フォン・シェーンコップ」 4.男は対戦相手に義を見つければ、その勝負の勝ちを相手に譲る。(例)「安宅の関」での義経・弁慶主従の「弁慶」に対する関守「富樫」 「聖闘士星矢(十二宮編)」での「ペガサス星矢」に対する金牛宮・黄金聖闘士「アルデバラン」 5.女子と小人は養い難し、されど男はどんな仕打ちを受けても、弱音を吐かない。(例)あまりに現実的すぎて、特定の人物を挙げることは不可能 以上です。この「男の美学」が、あなた達の行動倫理の規範になれば、私は幸いです。> ○○(私注:伏字にした)のおじさんの「男の美学」には「他人の迷惑を考える」は入ってない。もっと広く抽象的にいえば「他人の意見に耳を傾ける」「他人の気持ちを慮る」という傾向のものは入ってないな。』
・2011/12/13 22:32『「武士に二言はない」は嘘をつかないという意味ではなくて、前言を翻さないという意味ではないのだろうか。おじさんは遠征しない、XX(私注:伏字にした)にはもう行かない、▽(私注:伏字にした)は見ないなどの前言を翻しまくりだから、「武士に二言はない」の意味を自分に都合いいようにねじ曲げて書いていると思う。』
これら投稿者は、独善的な教義を強く信奉している偏執者だから、”他人の迷惑を考える””他人の意見に耳を傾ける””他人の気持ちを慮る”が言及されていないと間違った批判をして、”「武士に二言はない」は前言を翻さないという意味”と短絡的に決め付けています。それらに対して、私は具体的に反論をします。
・(反論1)”「武士に二言はない」は前言を翻さないという意味”?・・単にこの言葉だけを取り上げれば、その投稿者の解釈になります。しかし、私は、その前段として、私の信念である”男は決して嘘をつかない”をあげ、自らの発する”言葉の持つ重み”を強く訴えました。だから、最初から、判るような嘘を付き、その嘘がバレたら、前言を撤回(注:ずっと嘘を言い続ける者はまったくの論外)するような人間は”男”ではなく、巷間よく言われる格言”武士に一文はあっても、二言はない。”を言及したのです。その実例として、私が年少時映画館で観た映画『忠臣蔵』(注:正確な製作年や題名を失念)で、西国藩に仕官すると嘘を語った大石に、嘘を付かず真実を言って欲しいと迫った瑤泉院の年寄・戸田局に、腰元の中に上杉の間者を見つけた大石が、戸田に言った言葉『武士に二言はありませぬ!』が、強烈な思い出として残っていたのでこの言葉を紹介したのです。
・(反論2)”他人の気持ちを慮る”を言及していない?・・これを指摘した投稿客は、私の『男の美学』の”4.男は対戦相手に義を見つければ、その勝負の勝ちを相手に譲る。”をまったく理解できていないです。関守「富樫」は、「弁慶」の主従の強い絆や忠義を慮ったから、義経・弁慶主従が「安宅の関」を通行する事を黙認し自ら許したのです。投稿者は、もっと日本語を正しく理解して下さい。
・(反論3)”他人の意見に耳を傾ける”を言及していない?・・こんな当たり前の事を、私の信念『男の美学』として取り上げません。また、この投稿者は、「聞いたどんな意見でもそれに従うべき」との間違った思いを、その語った言葉裏に強く秘めています。さらに、真摯に批判する姿勢を許さず、対等な討論を自ら放棄して、まったく無関係な組織に私の告げ口をして、私を貶めたこの悪行客らは、私の『男の美学』の”2.男の喧嘩は素手でやる。(お互いに対等な条件で勝負する。)”とまったく正反対の卑劣な悪人です。
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他人に迷惑をかけないを道徳とす投稿者に同性愛者O・ワイルドを偉人とした『偉人たちのロンドン図鑑』捧ぐ

2011-12-12 18:44:51 | 日記
今日の日記は、イギリス旅行の勉強の為に、今読んでいる大塚勝弘著『偉人たちのロンドン図鑑』(2010年・新人物往来社刊)に掲載されている偉人、オスカー・ワイルドのことです。添付した写真は、その著書の表紙です。
私はこの著書を読んでいて、著者が偉人とした人物で、その生きていた当時の道徳及び規範(法律を含む)から激しく糾弾された人物でも、現在はロンドンの街角にブルー・プラーク(注:建物の壁にはめこまれた青地の円形タイルに、白文字でその場所に歴史的著名人が住んでいた事を紹介したプレート)として、自身の名を後世を残っていることを知りました。
その人物とは、1892年に詩劇『サロメ』(私注:引退した某踊り子嬢の代表的演目だった)を発表しながら、母国イギリスでは上演禁止になった劇作家のオスカー・ワイルドです。以下に、その著書から彼を紹介した記述の一部を引用・掲載します。
『「人生最高の目的は感覚的な快楽にある」という人生観のワイルドは、41歳の時に、アルフレッド・ダグラスという16歳年下の青年と同性愛になった。当時のワイルドには、妻と二人の息子がいた。この時代のイギリスでは、同性愛はそれほど特異な関係には見られていなかったが(私注:著者のこの見解は間違いであると思う。イギリスの刑法では、1967年まで同性愛行為は完全な犯罪。自然にそむく行為と看做され、特に男性間のわいせつ行為・肛門性交は、完全に性犯罪として規定。)、なにしろ相手が悪かった。相手の父親が侯爵であったため、激怒したこの侯爵によって告訴され、1895年から2年間投獄されることになった。・・ロンドンでワイルドが住んだ家は、チェルシー地区、タイト・ストリート34番にあり、1階の壁にプラークが付けられている。この家は、ワイルドの栄光と転落の人生を感じさせない落ち着いた雰囲気である。』
このように、イギリスでは、現在はまったく合法的な存在である同性愛が、半世紀前までは道徳に反する犯罪行為だったのです。だから、このような道徳と呼ばれる社会的な規範は、絶対的な確固たる存在ではないのです。
そして、このような道徳の歴史的な変遷を、私の関係したネット掲示板に書込みした投稿客にも、私は良く知ってほしいです。その問題とする投稿を、以下に引用・掲載します。
・2011/12/11 23:05『今日のレスは、今私が読んでいる道徳の教科書に書いてあった「他人に迷惑をかけない」という一文から(中略)まったくもって周囲の迷惑をかえりみる事のできない一部迷惑客(筆者注:○○<私注:伏字にした>のおじさん)のために多くの一般客が迷惑をこうむり(中略)○○<私注:伏字にした・投稿文に書かれた私ではなく、告発文を送り付けた悪行客が主語>氏が(中略)快適な観劇が出来るようになったことを、勤務先の人事課に感謝したいです。』
この投稿文は、日本語として不備でまったく論評に値しないものですが、この投稿者が書いた”道徳の教科書”という絶対的な規範・ルールなどまったく存在しないのです。その顕著な実例が、オスカー・ワイルドの性犯罪です。
いわんや、「他人に迷惑をかけない」を、この投稿者は金科玉条に道徳項目にあげていますが、その迷惑の主体は、受け手(観客と主役の踊り子嬢)によって、まったく違います。主役の踊り子嬢には何ら迷惑行為でなくとも、より良い柔軟な思考を持てず、硬直化した独善的な応援教義を信奉する人間には、一方的な思い込みの感じ方により、まったくおかしな「迷惑」となるだけです。
だから、まったく身勝手な倫理観を振り回すこの投稿客に、私は劇作家オスカー・ワイルドを紹介した著書『偉人たちのロンドン図鑑』を是非読んでほしいです。
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