インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

修羅場が人を磨く

2011-05-25 06:04:47 | 田口ランディ、桜井章一、内田ボブ
 ナワールは全然見かけないが(当然か)、これだけ人間の数が多いわけだから、それに近い人間は結構いるのではないかと推測される。もっとも大勢は隠れているわけで(名乗り出るのも馬鹿らしい)、たまに魚のように姿を現すこともあるだろう。捕まえようとしても、もちろん逃げられるのであるが。

 人間を判断するには「その人が書いた言葉」よりも、「日常の行動」がものを言うわけであるが、あまりにも書かれた言葉が凄かったら、「言葉の羅列」に引き込まれる。そして彼は「現代の呪術師」であると推測されるのである。前にも出てきたが、まずそれっぽいのが、桜井章一せんせいである。「四人の男に拉致され、生き埋めにされた」りしたらしい(高レートの賭博で勝った逆恨みか)

修羅場が人を磨く (宝島社新書)
宝島社


 本書を読むに、「日本刀を突き付けながらの勝負」とか凄い実体験が最初にあるが、まあ、ふつうならばビビってしまうところであるが、そうではなく、逆に冷静さが冴えて、修羅場を乗り越えてしまうところに、カスタネダの本にある「人間の測り知れない能力」というものを考えさせられてしまう。

 もっとも、ヤクザとか実は臆病であり、弱気で逃げ腰な人間を執拗に追い回し、襲っているだけなのかもしれない(ヒグマと一緒か)。目を合わせても全然動じていない人間を見ると、「得体の知れない存在」(呪術師!?)として敬遠するだろう。怖い人間を直視して動じないどころか、喜ぶ人間もいるかもしれないが。ただ、我が輩のように外見がな感じであると、あんまり修羅場などに近寄らない方がいいかも知れん。

 それにしても、先日読んだ唯識論な本によれば、「修羅場」というものも、自分の頭の中が、ただそう判断するだけなのかもしれない。そこにはただ「状況」があるだけで、頑固な自分やらプライドやら価値観やらが、作りだしているだけなのかもしれない。ただそれはピラミッドの頂上というか、大した因果がなくて、苦労もない世界の話で、現実問題、「修羅場」は存在する。地震とか、津波とか、放射能とか、誰がどう見ても修羅場という世界か。

 巻き込まれないのが一番だが、この世に肉体を有して存在している以上、何らかの「修羅場」に巻き込まれる可能性があるわけで、食べ物がない、カネがない、仕事がない、病気で体が動かない…、現実とは闘いなのである。とするならば、「意識」は最高の武器なのか。修羅場に追い込まれれば、自分を守ってくれる最高のものは、多分、「高次の意識」なのであろう。もちろん、それはプラスな、肯定的な、意識であり、「ゲーム感覚」で楽しく蓄えている人間は最高に強いということになる。

 ということは、「自分自身を如何に呪術にかけることができるか?」それが呪術師であり、忍び寄りの術(考えうるあらゆる状況から最良のものを引き出すことを可能にしてくれる手順と態度)なのだろう。

 目の前にある修羅場、リアルな戦いの前に、「意識の戦い」(『インセプション』の世界か?)があり、戦略的には如何に潜在意識を理想的に配列するか、にかかってくるのだろう。到底不可能なことは、潜在意識でそうなっているから実現せず、まず「身近」で「できる」ことから攻めていくべきか。「覚醒、気づき、…」、とりあえず言葉で飽和させていくと…、少しは何かが違ってくるかもしれんわい(ひたすら自己洗脳ですね)