インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

今年も森林浴! 

2011-05-23 04:49:08 | 身の回り
  3週間ぶりに田舎に戻ると、憩いの場所が葉っぱで生い茂っていた。我が輩にとっては、「力の場所」ともいえる所なので、さっそく森林浴をする。昨年と同じように、こんな感じである。

  

 すべてが早い。季節の移ろい。自分にとって、今のシーズンがベストであることは、間違いない。背後からは小川のせせらぎ、あちこちから鳥のさえずり、草木のざわめき。空を見ると、緑の天蓋に覆われている。

  

 光加減が変わると、また違った風に見えるが、この間まで枯れ枝だったので、「命の再生」を感じる。

 

 さて、ここで、また本を読んだのであるが、『呪術と夢見』(ドンファンが去った後の、ナワール・カスタネダたちのドタバタシーン)を三分の一ぐらい読み、次のも読んだ。

 
阿頼耶識の発見―よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)
クリエーター情報なし
幻冬舎
 

 これはまた衝撃的な本であり、何かしらカスタネダの世界とダブっていると思われた。自分という存在を離れて、「もの」は実際に存在すると考えられているのであるが、実は「もの」は存在せずに、それを見る「心」しか存在しない、というのである。資本主義という物質文明の中でどっぷりと生きる我々には、「はあ?」と同時に、ガツンとくるものがある。「りんご」が目の前にあったとして、それを「丸くて赤い」とか「美味しく食べられる」とか、意識するわけであるが、そうなるともはや目の前にある「もの」は「心」となる。我々は、「もの」を見ているのではなく、「自分の心を見ている」のである。

 それで、仏道修行とかする意味は、映し出す「曇った鏡」を磨き上げ、「明鏡」にしようと試みるわけで、それで物事の真実のありようを見ることができるというのである。それが覚者(仏陀)であり、それは極めて冷静沈着で、心に動かされず、物事を中立的にとらえるわけである。もちろん、私心がなく、「自分の」とか「○○の」とかといった固有名詞にこだわらない。我が輩の後ろに流れているのは、○○町の△山から流れる小川(?)なのではなく、「ただの水」なのである。この水が美味しいコメを育てるわけであるが(アキロマン)、それも「ただの穀物(いや、植物)」なのである。ということは人間自体、「ただの肉」なのかも知れない。

 カネ、カネ、カネの世の中になると、我々の心は完全に曇りまくり、争いが起こりまくる、ということか。ただ唯識論が素晴らしいとはいえ、霞を食って生きるわけにはいかず、心の他に存在しないとしても、「もの」を存在させ、区別して認識して生産・流通させるしかない。大多数はそれで、「ただの肉」を存続させることができるのである。

 机の上で本を読んでいると疲れるが、自然の中で読んでいると疲れを知らない。むしろ爽やかで、懐かしい子供の頃の香りを感じるのであった。